無自覚なオタクがひとり
目の前の状況に顔を引き攣らせながらも、透真は恐る恐る声をかけた。
「みんな一緒だなんて、奇遇だな」
その言葉に、エマは鼻を鳴らす。
「おふたりは、どうして一緒に――しかも腕を組んで。
腕を組んで歩いていたのですか?」
強調するように、二度繰り返す。
次の瞬間、悠里が透真の腕へと飛びつき、両腕をぎゅっと絡めた。
「どういうことだい、透真!」
頬を膨らませて抗議するその仕草が、あまりにも可愛らしくて。
透真は反射的に、悠里の頭を撫でていた。
「違うんだ、何か勘違いしてるんじゃないか?」
助けを求めるように、ノアへ視線を送る。
目の前の状況におたおたとしながらも、ノアは事情を説明する。
「こ、これは偶然なんです」
「へぇ~偶然ですか。何が偶然なんですかねぇ~」
エマの疑いの視線が、ゆっくりと透真からノアへ移る。
「今朝、露天風呂に入ったら偶然透真さんと一緒になって。それで街を案内する話になって」
「「お風呂?」」
エマと悠里の声がぴたりと重なった。
そして同時に、透真へ突き刺さる視線。
「そうなんだよ、まさに奇遇だな……」
苦笑いで誤魔化す透真。
だがエマは、はっとしたように顎へ指を添え、真剣な表情で考え込み始めた。
「どういうこと? 露天風呂って混浴だったのかしら?
完全に見落としていました……。そんな絶好のチャンスが転がっていたなんて。
サラ、あなた気付いていた?」
「いえ、わたくしもそのような掲示は確認しておりません」
冷静に答えるサラ。
そして、ゆっくりと透真へ視線を向けた。
「透真、あなた……ラッキースケベというのも実行したのですか?」
「ちょっと待て! そんなわけあるか!
そもそもどこでそんなオタク用語を覚えたんだ!」
エマは、少しだけ頬を染めて視線を逸らす。
「幽霊の頃に、少々……」
「いつの間に……」
透真が呆れた瞬間、腕が強く引かれた。
「ボクも後で一緒にお風呂入る!」
悠里がさらに密着してくる。
透真はまた無意識に頭を撫でてしまう。
「いや、だから違うんだって」
そのやり取りを見ていたノアが、ついに我慢できなくなったように声を上げた。
「あの!」
全員の視線が、一斉にノアへ集中する。
ノアは唇を噛み、視線を落とした。
そして意を決したように顔を上げる。
「実はボク……男なんです」
――凍りつく空気。
硬直するエマと悠里。
完全な沈黙。
そして――
透真の深いため息だけが、静かに漏れた。
パチパチパチパチ。
静まり返っていた空気を破るように、拍手の音が響いた。
今まで静観していた澪が、目を細め、今にも「ブラボー」と叫び出しそうな感動した表情でノアを見つめている。
「ノア、今の空気でよく言えたわね。頑張ったわ」
そう言うなり、澪はノアを優しく抱きしめた。
そして褒めるように、ぐりぐりと頭を撫で回す。
「ちょ、ちょっと澪、なんなの?」
状況が理解できず、ノアは完全に困惑している。
しかし澪はお構いなしに愛情を注ぎ続けた。
「そうなの、この子――ノアは男の子なのよ! 可愛いでしょ?」
誇らしげに言い切る。
混乱しながらも、エマがなんとか言葉を絞り出した。
「ノアさんが……男の娘……」
呆然としたまま呟く。
そして悠里も遅れて反応する。
「ほんとに!? 男の子!?」
二人は示し合わせたように、ノアを囲む。
上から下まで、遠慮のない視線でじろじろと観察した。
「うそ……この格好はなんなのです?」
いたたまれなくなったノアは、顔を真っ赤にしてもじもじと身を縮める。
そこへ、得意げに胸を張った澪が答えた。
「趣味よ!」
断言だった。
エマと悠里は、言葉を失ったまま澪を見つめる。
数秒の沈黙。
そして――
どうやら「趣味なら仕方がない」と結論づけたらしい。
二人は同時に、妙に納得した表情で頷いた。
「で! どういうことなんです!? 男性だからってそんなの関係ないですよ!」
納得した瞬間、追及が再開された。
「そうだよ! ずるいよ!」
二人は同時に透真の腕を掴み、左右から容赦なく引っ張る。
ぐい、ぐい、と身体が揺さぶられた。
「むしろ男の娘! むしろお得だという噂です!」
「何を言ってるんだお前は」
「おデートって言うのですよね! おデートなんて私もしたことがないのですよ!」
「いったい何のアニメ観てたんだよ……」
「ボクもおデートしーたーいー!」
交差点の中央。
人々が行き交う真ん中で、場違いな騒ぎが繰り広げられていた。
――にもかかわらず。
誰一人として、こちらを見ない。
人々は自然に透真たちを避けるように歩き、流れるように通り過ぎていく。
まるでそこに、何も存在していないかのように。
見えない壁でもあるかのように、空間だけがぽっかりと空いていた。
無表情というわけではない。
笑い声もある。会話もある。日常の活気もある。
ただ――
透真たちだけが、その世界に含まれていない。
最初にその異様さに気付いたのは澪だった。
笑い声がすぐ横を通る。
だが、その視線は一度もこちらへ向かない。
「なんだか……気持ちが悪いわ」
周囲の喧騒と、自分たちの位置を見比べる。
すれ違う人々の瞳を、一人ずつ観察する。
「まるで、視界に入っていないかのようね」
盛り上がるエマと悠里を、低く抑えた真剣な声音が遮った。
「おふたりさん。どうやら周りも、おかしなことになってるみたいよ」
二人を嗜めるような言葉だったが、嘲りは混じっていない。
その声に含まれた異様な確信に、エマの表情が瞬時に引き締まる。
澪の言葉に、全員が周囲へ視線を巡らせた。
「確かに異様ですね。小さな子供が指差して『ママあれなに?』『見ちゃいけません』と言う民が居てもおかしくない状況です」
「今日のエマは絶好調だな……」
軽口を叩きながらも、透真の表情は崩さずに硬いままだ。
既にサラはエマの背後に回り、周囲を警戒している。
いつでも主人を庇える位置。視界の確保も死角の排除も万全だった。
その時、悠里が突然、両手をメガホンのように口元へ当てる。
そして――空に向かって叫んだ。
「空襲だああああ! みんな逃げろおおお!」
通りに反響し、声が木霊する。
建物の壁に跳ね返り、遠くまで届くほどの大声だった。
――だが。
誰一人、振り向かない。
足を止める者も、驚く者も、慌てる者もいない。
まるで何も聞こえていないかのように、人々は普段通りに歩き続けている。
その光景を、澪は横目で静かに観察した。
「流石ね、悠里」
口元にわずかな笑みを浮かべる。
「これで完全に確定したわ」
全員がそれぞれ思案に沈み始めた、その時だった。
――音が消えた。
人の足音。喧騒。店先の呼び声。生活の気配。
何もかもが、まるで切り取られたかのように一斉に途絶えた。
耳鳴りすら聞こえそうな、完全な無音。
まるで時間そのものが停止したかのように、周囲の人々が動きを止めている。
透真は息を呑み、その光景をただ見つめることしか出来なかった。
「なんだ急に……。フラッシュモブか」
かすれた声で、冗談にもならない言葉を絞り出す。
「私、あれ苦手なんですよね」
エマが平然と相槌を打つ。
だが、その声音にはわずかな緊張が滲んでいた。
誰もそれに返事をする余裕はない。
全員が、この異様な静寂に圧倒されていた。
「澪……」
怯えた声を漏らしたノアの身体を、澪が守るように抱き寄せる。
そのまま、安心させるように静かに微笑んだ。
異様な空気の中、張り詰めた緊張だけが増していく。
――その時。
人々の身体が、一斉に小刻みに震え始めた。
「今度はなんだ?」
透真はすぐ近くで固まっていた男を凝視する。
震えが、ぴたりと止まった。
そして――
スローモーションのように、ゆっくりと動き出す。
男は力なく膝を折り、そのまま地面へ身を預けた。
まぶたを閉じる。
まるでそこが自宅の寝室であるかのように。
静かに、眠りについた。
透真は慌てて周囲を見回す。
同じだった。
通りにいた人々が、次々とその場に崩れ落ちる。
倒れるのではない。
ただ自然に、眠りへ落ちていく。
石畳の上で、店先で、道の真ん中で。
まるで「そうすることが当然」であるかのように。
「どうなってるんだ……」
透真の呟き。
だが、それはこの場にいる全員の心中をそのまま代弁していた。




