幸福の在り方
白露亭の入口。
外壁にもたれかかるように背中を預け、腕を組んだまま、透真は空を仰いでいた。
「はぁ……」
小さく息を吐き、目を細める。
「おかしいな……」
無意識に漏れた呟きには、困惑が滲んでいた。
それは同時に、自分自身を見つめ直すきっかけにもなっている。
思い浮かぶのは身近に居る少女の顔だった。
悠里は、とても可愛い女の子だ。
一目で分かる事実であり、明るく、よく笑い、ふとした瞬間に胸を掴む表情を見せる。
今の肉体年齢を考えれば、恋愛感情が芽生えても不思議ではない。
だが透真には、それ以上の年月を生きた記憶がある。
積み重ねた記憶と経験が、悠里を「守るべき子供」と認識させる。
守るべき存在――
異世界に放り出された少女を守りたいと思うのは自然なことだ。
そこに恋愛感情を抱くのは難しい。
では、エマはどうだ。
高身長の美貌。文字通りの女神だ。
前の世界でも、あれほどの絶世の女性に出会ったことはなかった。
息を呑むほどの美しさは、周囲を光り輝かせているようにも見える。
女神である彼女にはそういったチカラがあるのかもしれないが……。
実年齢はともかく、見た目だけなら前世の自分より年下に映る。
それでも、恋愛感情が芽生えても不思議はないはずだ。
性的な意味でも、十分すぎるほど魅力的な女性である。
そこまで考えて、透真は両手を開き、見つめた。
そこにあるのは子供の手。
「この身体の影響なのか?」
この世界に来てから、性的な興奮を覚えていない。
確かに、そんな余裕がなかったのは事実だ。
生と死が常に隣り合わせで、いつ死んでもおかしくなかった。
実際、一度死んでいる。
――余裕がなかった。
そう言い聞かせれば納得できるはずだった。
だが、状況が落ち着いた今はどうだろう。
エマを思い浮かべても、出てくる感想は――綺麗なお姉さん。
「いやいや、そんな感想ありえないだろ。俺の語彙力、終わってないか」
自分で自分に突っ込みを入れた、その時。
「透真さんっ!」
呼びかけに、透真は現実へ引き戻された。
「ごめんなさい、おまたせしました」
振り向いた先には、嬉しそうにはにかむノアが立っていた。
「お、おう」
困惑の原因そのものを前に、思わず声が上ずる。
「えへへ、どうですか?」
透真の様子など気にも留めず、ノアはスカートの端を摘まんで見せた。
黒を基調としたゴスロリ風のワンピース。
控えめな白いフリルが、銀の髪を一層引き立てている。
その姿に思わず言葉が漏れた。
「似合ってる……」
その一言で、ノアの顔がぱっと輝く。
「えへへ、うれしいなぁ~」
透真は、今の言葉が無意識だったことに気付き、慌てて口を押さえた。
――俺、いま何を……。
「それじゃあ行きましょう! 透真さん」
嬉しさのままにノアは透真の腕を取り、歩き出す。
勢いに押されるように、透真も足を動かした。
* * *
商店の建ち並ぶ通りを、難しい顔をしたエマが歩いている。
その隣を、背筋を伸ばしたメイド――サラが静かに並んでいた。
しばらく様子を窺ってから、サラは主人へ声をかける。
「エマ様、そろそろ教えて頂けますか?」
問いかけに、エマは顔を上げない。
前を向いたまま、曖昧に答える。
「……どうなのでしょう」
「はぁ……」
サラは小さくため息をついた。
朝、「街を見ます」とだけ告げて白露亭を飛び出した主人に、サラは当然のように付き従った。
それからかなりの時間、二人は街を歩き続けている。
頃合いを見て目的を尋ねてみたが、要領を得ない。
やむなくサラは言葉を続けた。
「お手伝いしますか?」
その時になってようやく、エマは顔を上げた。
振り向き、サラを見る。
そして、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「そうですね。手伝って下さい」
「はい」
エマが感じているのは、とても曖昧なものだった。
それは言葉で説明すると、途端に霧のように溶けてしまう。
違和感というものは往々にして、気付くまでソレが何なのか明確な答えとして形にしづらいもの。
だから多くの場合は思い過ごしとして処理されるものでもある。
この国の人々は、一見すると皆幸せそうだった。
街には笑顔が絶えず、店先には活気が溢れている。
――だが。
人々の瞳に、エマは拭い難い違和感を覚えていた。
だからと言って、瞳に違和感があると説明しても、それを明確に伝えることは難しい。
現状を理解して、初めてその違和感を突き止めることが出来るのだから。
だが、そんな曖昧な感覚であっても、サラにとっては障害ではない。
絶対的信頼。
それこそがサラのエマへの基盤であり、疑いが微塵も入り込む隙がない関係。
違和感があるとエマが言うのであれば、それは必ず存在する。
「違和感とは?」という疑問から始まるのではなく、「違和感がある」と確信から始まる思考。
その前者と後者には、決して埋まることのない大きな隔たりがあった。
曖昧な感覚を、明確な答えへ導くこと。
それこそが自分の務めだとサラは理解している。
エマはひとりで問題を抱え込むことが多々ある。
責任感に加え、神としての経験からくる自信もそうさせる要因でもあった。
サラはその都度、試行錯誤しながらエマの助けとなるべく、色々な手段を考え出してきた。
人間である自分には、神の感じる違和感を共有することは出来ない。
だからこそサラは周囲の人々を見渡すこともせず、静かに問いを投げた。
「エマ様、その違和感に気付かれたのは夢ノ輪に入国してからですか?」
始まりを特定し、そこから整理していく。
同じ問題であっても対話の中で思考を進めれば、そこに新たな気付きが生まれる。
サラはそれを経験として知っていた。
「そうですね、最初は他国の空気の違いが違和感をうんだのかと思っていたんです」
「確かにそれはありますね。実際、こことエルディアには空気の匂いから色々な違いがありますね」
「そうなんです。だから気にするほどのものではないと思ったんです」
「民の生活にも違いはありますし、彼らが自国の民ではないから違和感を覚えただけでは?」
いつになく饒舌なサラに、エマはわずかに頬を膨らませる。
「ち・が・い・ま・すぅ! 私をそんな単純なおバカさんだと思っているんですか?」
興が乗ったのか、サラはかすかに口角を上げた。
「なるほど、単純な国民性の違いではないと……。
でしたらきっと人間が発する何かがおかしいのかもしれませんね」
「それ、それよ。人の心にあるべきものが……ない?
いいえ、それとも逆なのかしら」
いつの間にか、エマの足は止まっていた。
三方向から道が交わる交差点に差しかかっている。
考え込むように視線を落とすエマの横で、サラは道の先へ目を向けた。
そして、わずかに微笑む。
「その答えは、向こうから来てくれるかもしれませんよ」
サラの言葉に、エマは顔を上げた。
そこには、大きく手を振って合図する悠里と、隣で苦笑する澪の姿があった。
悠里はエマへ駆け寄ると、息もつかずにまくしたてる。
「聞いてよエマさん! ここの人たち、ちょっと変なんだよ」
その言葉に、エマは目を瞬かせ、サラへ視線を向けた。
察したサラは、肩をすくめるように小さく苦笑する。
「サラってば、もしかして神以上の力を持っているのかしら」
「へ?」
思っていた反応と違い、間の抜けた声が悠里から漏れた。
その後、澪を交えて事の経緯が語られた。
「夢ね……」
考え込むエマをよそに、悠里と澪は不満を隠そうともしない。
「もっと面白い夢が見られるのかと思ってたのにさ。ひどいよねー」
「娯楽と呼ぶには、あまりにもお粗末ね」
「そうだ、ボクたちが織士になって面白い夢を作るのはどうかな」
「いいわね、もっと混沌に満ちた刺激的な夢をみんなに見せるのは楽しそうね」
盛り上がる二人をよそに、エマは思考の底へ沈んでいた。
国民は活気に満ちている。
だがその実、感情は停滞している。
それが無意識なのか、意図的なものなのかは分からない。
ただ一つ確かなのは――それが彼らの選んだ在り方だということ。
感情を抑えることで、この国は成り立っている。
むしろ、その停滞こそが平穏を支えているのかもしれない。
エマにとって、民の幸福とは感情を殺すことではない。
だが、この国における幸福の意味は違うのではないか。
激しい喜びも、深い悲しみもない。
ただ波の立たない静かな心。
それは本当に不幸なのだろうか。
感情を高ぶらせて得る幸福よりも、
感情を動かさないことで得る平穏の方が――
彼らにとっては幸福なのではないか。
その考えに至った瞬間。
神としての自分の在り方が、静かに揺らいでいた。
「正解なんてものは初めから無い……。そんなことは分かっていたはずなのに」
エマの口からは答えのない呟きが漏れる。
その言葉に気付くこともなく盛り上がっていた二人だったが、
不意に澪の視線が道の先へ向いた。
次の瞬間、口元がにやりと歪む。
つられて悠里も視線を追い――眉間に皺を寄せた。
「え゛?」
悠里の野太い声に驚いて、エマも視線を向けると、同じような声を上げた。
「あ゛?」
そこにいたのは――
透真の腕に自分の腕を絡め、楽しそうに笑うノアだった。
透真は苦笑しながらも振りほどくことはせず、歩調を合わせて歩いている。
その瞬間。
寒気にも似た何かが、透真の背筋を走った。
視線の先には鬼の形相のエマと悠里。
状況を瞬時に察したサラは、音もなく一歩後ろへ下がった。
ただ一人、澪だけが面白がるように口元を押さえ、くすりと笑う。
「あらあら、意外とやるわね」




