露天風呂がサービスシーンとは限らない
悠里は、何かに気づいたように目を見開き、驚いた表情で澪の顔を覗き込んだ。
「……ちょっと待って、澪さん」
澪は首を傾げた。
「なに?」
「第三次世界大戦って、ボクのいた世界の話だよね!」
澪は少し目を細め、静かに微笑んだ。
「そうね、だって私も悠里と同じ世界から来たんだもの」
「えっ……えぇぇ!? 本当に!?」
「いまさら驚きすぎじゃない?」
「だって、そんなの驚くに決まってるよ!」
詰め寄る悠里に、澪はおかしそうに笑った。
「でも、こうして出会えたのは偶然ね」
「ほんとだよ……まさかこの世界で会えるなんて」
「もしかしたら、私たち以外にも異世界に来た人がいるのかもしれないわね」
「そうなのかな?」
悠里が考え込むように視線を落としたとき、澪がふと興味深そうに口を開く。
「悠里も、もしかして“神様を殺す”みたいなことを言われたの?」
悠里は驚いたように顔を上げた。
「おお、それも知ってるの?」
「そうなのね……」
澪は小さく頷き、しばし考え込むように目を伏せた。
「もしかして、それを言ったのは――あのサラっていうメイド? それともエマさん?」
「違うよ。二人はいい人だよ」
「じゃあ、透真くんなの?」
「違うよ。透真はボクたちと同じ世界の人だよ」
「そう……なのね」
澪は短く答えると、少しだけ視線を遠くに投げた。
以前、ノアから“すでに二人の異世界人がこの世界に来ている”と聞いてはいた。
前の世界で培った経験から、澪には人を見抜く直感がある。
だが、その二人がこうして目の前に現れるとは思いもしなかった。
悠里の使う単語、言葉の抑揚、話し方。どれもこの世界の人間とは少し違う。
透真の話し方もまた異質ではあったが、悠里とも少し違って聞こえた。
悠里が言う「同じ世界の人」という言葉。
その響きに、澪は微かな違和感を覚えながら、
心の奥でそっとその言葉を反芻していた。
少しの沈黙の後、悠里は状況に気づき、澪から一歩、静かに距離を取った。
「澪さん……もしかして、悪魔の言葉を信じてないよね?」
その声音には焦りが混じっていた。
険しくなる表情。澪の腰に下がる刀へと、警戒の視線が向けられる。
「エマさんの命を狙っているの?」
今の悠里は丸腰だった。
それでも、咄嗟に体勢を低くし、武術の構えを取る。
その小さな身体に、緊張がみなぎっていた。
澪はそんな悠里の動きに気づき、ハッと目を見開く。
そして――
「わーはははははっ!」
突如として高らかな笑い声を上げた。
その声に、悠里の額を一筋の汗が流れ落ちる。
息を呑んだまま動けずにいる悠里を見て、澪は慌てて両手を振った。
「ごめんなさい悠里、冗談よ」
「へ?」
澪は少し気まずそうに微笑み、そっと目線を逸らした。
「そんなことするわけないでしょ……。ちょっと悪い冗談だったわね」
その声には、わずかな後悔の色が混じっていた。
緊張の糸が切れたように、悠里の身体から力が抜けていった。
大きく息を吐く悠里に、澪は淡々と質問を投げる。
「それよりも、エマさん。彼女が神様なの?」
澪の言葉に、悠里はハッとして両手で口を押さえた。
その仕草があまりに分かりやすく、澪は小さく息を吐く。
そして、確信を帯びた声で続けた。
「そうなのね……。あれが、この国の神なのね」
「違うよ!」
悠里は慌てて首を横に振る。
「エマさんは隣のエルディアって国の神様だよ!」
その必死な様子に、澪はふっと目を細めた。
けれどその表情には、どこか心配の色も浮かんでいる。
「悠里、あなた口が軽すぎるわよ。
もし私が――実は悪魔の使いだったら、どうするのよ」
その言葉に悠里は肩をすくめ、しゅんと小さくなる。
「だよね……ボクも今そう思ったよ……」
その声には、ほんの少しの反省と、子どもらしい素直さが滲んでいた。
澪はそんな悠里を見つめ、ゆっくりと歩み寄る。
そして、落ち込んだ子どもをあやすように、優しくその頭を撫でた。
「だけど――悠里はとても誠実で、信頼できる人だって分かったわ」
穏やかな笑みを浮かべながら、澪はそう告げた。
その声音には、先ほどの冗談を悔いるような、静かな優しさが宿っている。
悠里は一瞬きょとんとしたあと、照れくさそうに笑った。
* * *
白露亭には、大きな露天風呂があった。
湯に身を沈めると、周囲を囲む木々の間から木漏れ日が差し込み、湯面の上で揺らめく。
肌を包む温もりと、目に心地よい光のきらめき。
それは、まるで時間まで緩やかに溶けていくような、極上のひとときだった。
それは――人間であっても、悪魔であっても、極上の癒やしを与えてくれる場所。
ノアは眠気覚ましのつもりで風呂に来たのだが、あまりの心地よさに、湯に肩まで沈みながら思わずまぶたを閉じてしまった。
「う~ん……気持ちいいなぁ~」
鼻先まで湯に浸かり、ぽかぽかと温まった頬を湯船から覗かせる。
木の香りと湯の温もりが、心の奥まで沁みていくようだった。
そんな中、木戸が開く音がした。
湯気の向こうから、別の宿泊客が姿を現す。
「おお、最高の景色だな」
低く落ち着いた声が響き、ノアのすぐそばで湯が波紋を描いた。
その声を聞いた瞬間、ノアの耳がぴくりと動いた。
(この声……まさか――)
湯気の向こうにいたのは、腰まで湯に浸かった透真だった。
彼は気づかぬまま、湯の熱気を楽しむように肩まで沈み、満足そうに息を吐く。
ノアの頬が一気に真っ赤に染まった。
顔を隠すように湯の中へ沈み込むが、心臓の鼓動までは隠せない。
そんなノアの様子に気づかぬまま、透真がにこやかに声をかけてきた。
「こんにちは、いい湯ですね」
どうやらノアだとは気づいていないらしい。
ノアは慌てて湯の中から身を起こし、背を向けるようにして答える。
「そ、そうですねっ!」
声が裏返り、湯けむりの中にぱしゃりと水音が響いた。
湯の表面には、ノアの慌てた仕草が作った小さな波紋がいくつも広がっていった。
上ずった声が湯けむりの中に響く。
その様子に透真は小首を傾げ、不審そうにノアの背中を見つめた。
それは、真っ白で、滑らかで、どこか艶めいた線を描いていた。
男性にしてはあまりに華奢で、儚いほど繊細な輪郭。
「あの、大丈夫ですか?」
そう声をかけると、透真は心配そうに一歩、湯の中を進んできた。
湯面が小さく揺れ、波紋がノアの胸元まで伝わる。
そのさざ波に合わせて、ノアの鼓動も早まっていく。
そして、透真の手がそっとノアの肩に触れた。
その瞬間、ノアの全身がびくりと震える。
「と、透真さん……」
ノアは頬を真っ赤に染め、胸もとを隠しながらゆっくりと振り返った。
その瞬間――。
透真の全身がびくりと跳ね、湯しぶきを上げて飛び退いた。
「ノ、ノア!?ごごごごめん!」
勢いよく両手で目を覆い、慌てて背を向ける。
「ここ男湯だと勘違いしたみたいだ、本当にごめん!」
そのまま立ち上がろうとする透真の腕を、ノアがとっさに掴んだ。
「違うんです! 僕、男なんです!」
透真は動きを止め、ゆっくりと振り返る。
そこには、顔を真っ赤に染め、湯気の向こうで視線をそらすノアの姿があった。
濡れた髪が頬に張り付き、微かに震える肩が、余計に言葉を信じがたくしている。
透真は、ぽかんと口を開けたまま、しばし固まった。
二人はしばらく、湯気の中で沈黙を共有していた。
それは気まずさというより、どこか居心地の悪い静けさだった。
先に口を開いたのは、ノアだった。
「ごめんなさい、僕が勘違いさせてしまったせいで……」
小さな声。湯面に落ちたその響きが、波紋のように広がっていく。
ノアは視線を落とし、膝の上で指を何度も組み替えていた。
そんなノアの表情を見て透真は優しく微笑んだ。
「いや、俺が勝手に勘違いしただけだ。ノアは何も悪くないよ」
その優しい声に、ノアはおそるおそる透真の顔を覗き込んだ。
湯気の向こうに見えるその表情には、怒りなど微塵もなく――ただ柔らかな微笑があった。
その穏やかさに、ノアの胸の奥がほっと緩む。
「だけど、僕があんな服を着ていたから……」
「まあ、確かに凄く似合ってたし、可愛かったからな」
不意に零れた“可愛い”という言葉が、湯気の中に溶けた。
ノアの心臓が、跳ねる。
「……ほんとう、ですか?」
顔を上げたノアの瞳は、どこか潤んでいて――
その視線には、戸惑いと期待が混じっていた。
透真は、その目に射抜かれたように一瞬言葉を失い、つい頷いてしまう。
「あ、ああ……」
ノアは嬉しそうに瞳を輝かせた。
そして次の瞬間、両手で頬を包み込むように押さえる。
自分でも抑えられない笑みがこぼれ、顔は真っ赤に染まり、唇の端が自然と緩んでいった。
そんな表情に、透真は少し困惑した。
――あれ? 俺、女の子と勘違いして傷つけたと思ったんだけどな。
けれど、ノアの嬉しそうな笑顔を見ていると、その疑問もどうでもよくなっていった。
ふと湯船の縁にもたれ、雲ひとつない青空を見上げる。
その解放感に、透真の口元も自然と緩む。
「ノアと澪さんのおかげだな。こんな最高の露天風呂のある宿を教えてくれてありがとうな」
ノアはぱちりと瞬きをして、湯面に映る光を眺めながら言った。
「そういえば……透真さんも、ここに泊まっているんですね」
「ああ。ちょうど宿を探してたときに見つけてさ。立派な造りに惹かれて入ったんだ。
悠里なんて、見た瞬間テンション上がっちゃってたよ」
湯気の向こうで、透真の笑い声が弾けた。
それにつられて、ノアもつい笑みをこぼす。
「あの、透真さん!」
ノアが勢いよく顔を上げた。頬にはまだほんのりと赤みが残っている。
「よかったら、後で一緒に街を見に行きませんか?」
突然の誘いに透真は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ああ、いいな。俺もちょうど観光でもしてみようと思ってたところだ」
「えへへ……やった」
ノアは嬉しそうに頬を緩め、少しだけ視線を逸らす。
「それじゃ、ボクは準備するので上がりますね」
そう言って立ち上がると、慌てて両腕で身体を隠し、背を向けた。
湯気の向こうで、白い肌が一瞬だけ揺らめく。
そして恥ずかしそうに振り返り、
「それじゃあ透真さん……後でね……」
小さく手を振って、ノアは露天風呂を駆け出していった。
残された透真は、ぽかんとその背中を見送るしかなかった。
呆然とする透真の中に何かが生まれようとしていた。
「……なんだこれ」
ぽつりと呟く声が湯気の中に消える。
そして今度は空を見上げて叫んだ。
「なんだこれーー!!」
その声が空に反響し、木々の枝に止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。
どこまでも突き抜けるような青空が、そんな透真を見下ろしていた。




