戦闘態勢
茶屋のざわめきが、ひとときの静けさに包まれていた。
障子の向こうで風鈴が鳴り、日の光が湯気の中をすり抜けていく。
エマは湯呑をそっと置き、ノアの方へと視線を向けた。
その瞳が、わずかに鋭く細められる。
「何故でしょうか? あの娘、気に入りませんね……何故でしょう……」
隣に控えるサラが、一度だけエマの横顔をちらりと見る。
爪を噛みそうな勢いの主の言葉に対し、顔を向けずに淡々と苦言を呈する。
「エマ様、行儀が悪いです」
「う~ん、気に入りませんね」
対面に座る透真は、困ったように苦笑いを浮かべていた。
その肩越しに、悠里もまた、眉をひそめている。
「分かるよエマさん。こんな感情は初めてだよ……」
そう言いながら、悠里は手にしていた湯呑を唇へ運ぶ。
だが落ち着かないのか、口をつけた湯呑みにガシガシと歯を立てている。
そのとき、透真たちの卓にふいに影が落ちた。
見上げると、お盆を抱えた女性の店員が立っていた。
「あの、お客様」
店員の声に、透真が視線を上げて応じる。
「はい」
「あちらのお客様が、ぜひ相席をお願いしたいと仰っておりまして」
店員は掌を澪とノアの席へと向けた。
その一瞬、エマの瞳が細く光る。
湯呑を静かに置き、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……そうですか。相手は“殺る気”ですか、そうですか……」
その不気味な調子に、悠里も湯呑を置いた。
「ふーん。負ける気がまったくしないね~」
彼女もまた戦闘態勢のようだ。
二人の妙に息の合ったやり取りにも、店員は動揺を見せず、笑顔のまま淡々と答える。
「お座敷をご用意しておりますので、そちらへどうぞ。お飲み物は後ほどお運びしますね」
そんな完璧な対応に、透真は苦笑を浮かべながら頭を下げた。
「すみません、お願いします」
座敷には、サラ、エマ、透真、悠里が並んで座っていた。
その向かい側に、澪とノアが静かに腰を下ろす。
澪は終始、微笑みを崩さない。
その隣で、ノアは恥ずかしそうに視線を伏せ、膝の上でそっと指を絡めていた。
エマは両手を膝に置き、細めた目で二人を見据えている。
悠里はといえば、頬をふくらませたまま黙り込み、どこか拗ねたようにテーブルを見つめていた。
透真は両隣の気配を感じ取り、どうにか苦笑で誤魔化す
――この空気の中で、どんな言葉を選んでも正解にはならない。
サラはというと、この状況に関わる気などさらさら無い様子で、
自分で運んできた湯呑を静かに手に取り、音もなく啜っていた。
最初に口火を切ったのは澪だった。
「みなさん今日は、家族でお出かけですか?」
澪は軽く首を傾げ、今度はエマの瞳を覗き込む。
「おかあ――」
その瞬間、聞いたことのないエマの低い声が響いた。
「あぁ?」
座敷の空気が、一瞬で凍る。
澪は思わずまばたきをし、口を閉ざした。
エマの高身長と、年上めいた落ち着き。
それが生んだ勘違いだと、すぐに気づく。
だが、その表情――僅かに笑みを消したエマの顔は、冗談で済ませられないほどの迫力を帯びていた。
澪はわずかに背筋を伸ばし、仕切り直すように口を開く。
「お姉さんと、妹さん、弟さん、そして……メイドさん?」
「はい、メイドでございます」
流れるようにサラが答えた。
まるでこの空気を完全に掌握しているかのような、無駄のない声だった。
この修羅場のような状況に、自分の存在は一瞬たりとも関わらせない。
そう言わんばかりに、サラは湯呑を手に取り、何事もなかったように一口、静かに啜った。
エマは小さく咳払いをし、外向きの笑顔を作った。
それは神として長年培った、完璧な“表の顔”だった。
「まあ、いずれは家族になるのは確かですが……今は、私の相棒なんです」
そう言って、透真の腕にしなやかに腕を絡める。
その動作は優雅で、けれどどこか独占欲の色を帯びていた。
すかさず悠里が声を上げる。
「ボ・ク・の! 相棒なんだけどね~」
そして勢いよく透真の反対の腕にしがみついた。
エマと悠里の視線が、透真の胸の前で火花を散らす。
笑顔のまま、どちらも一歩も引かない。
「相棒……ですか」
澪が小さく呟いた。
その声に反応したエマが、ゆっくりと顔を向ける。
「そうです。ですので――うちの透真にちょっかいを掛けないでもらえますか?」
声は柔らかい。
だが、言葉の端にはわずかな殺気のような響きが混じっていた。
悠里もまた負けじと背筋を伸ばす。
「そうそう! 透真はボクだけの相棒なんですよ!」
二人の間に再び沈黙が落ちる。
目と目がぶつかり、静かな圧力が場を満たす。
その空気を割るように、澪が再び微笑んだ。
「あなた、透真さんと言うのね」
澪は軽やかに言葉を続ける。
「私は澪。そして隣に座る、この最高に可愛い子は――」
そう言って、澪はノアにウィンクを送る。
「あ、あの。僕はノアと言います!」
ノアは小さく頭を下げ、恥ずかしそうに頬を赤らめる。
そして上目遣いに透真を見つめた。
「と、透真……さん……よろしく、です……」
その姿に、透真は自然と笑みを浮かべる。
「ああ、俺は透真。よろしくな、ノア」
その笑みを見た瞬間、エマと悠里の笑顔が同時にぴくりと引きつった。
エマは眉をわずかに引きつらせながらも、どうにか平静を装える。
「私はエマと申します」
「ボクは悠里です!」
ビシッと手を上げてアピールする悠里。その元気な声に、一瞬空気がやわらぐ。
続いて、全員の視線がもう一人へ向けられた。
「……サラです」
最小限の自己紹介と静かな会釈。
この場に自分の感情を差し挟むつもりはない、という無言の意思表示だった。
小さな間のあと、澪が微笑を浮かべて話し出す。
「私たちは観光でこのあたりを見て回っているんですよ。透真さんたちは……その服装を見るに、この国の方ではないですよね?」
「ええ。俺たちは、さっきこの国に来たばかりなんです」
「まあ、それは素敵。でしたらどうでしょう? 一緒にこの国を見て回るというのは」
澪の軽やかな誘いに、エマは得意げに鼻を鳴らした。
「すみません、私たちこれから大切な約束がありますので、ご一緒するのは難しいですね」
「そうですか。残念ですね」
「ええ、残念ですがとても大切な約束です」
エマは透真の手を取ると、ためらいもなく自分の膝の上へ導き、ぎゅっと握りしめた。
「ね?」
その視線には、逃れようのない同意の圧があった。
「……そうだな」
透真は苦笑を浮かべながらも、抵抗の隙を見せられない。
「でしたら――」
澪はふと、エマと見つめ合っていた透真の視線を自分に引き戻すように言葉を継いだ。
「私たちは、この近くの白露亭という宿に泊まっています。時間が合えば、ぜひ一緒に観光でも」
「ああ、そうだね」
エマの握る手に、ぐっと力がこもる。
「時間が合えば、ぜひ」
そう返す声は柔らかかったが、その笑顔は“外向きの仮面”そのものだった。
微笑みの奥――ほんのわずかに、冷たい光が揺れていた。




