悪魔の契約
空はどこまでも澄み渡り、柔らかな風が頬を撫でていく。
青の向こうでは、小鳥たちが軽やかにさえずっていた。
そんな穏やかな空の下、ひと組の男女が並んで歩いている。
澪とノア。
二人は肩を並べ、街の通りをゆっくりと進んでいた。
それは、異世界に来たという現実を、この目で確かめるためだった。
通りを行く人々のざわめき、香ばしい焼き物の匂い、軒先で揺れる暖簾――。
すべてが現実のようでいて、どこか作り物めいている。
澪は周囲の風景を眺めながら、少し難しい表情を浮かべてノアに問いかける。
「あなた異世界に来たって言ってたわよね」
「ああ、そうだよ」
「タイムスリップの間違えじゃない?」
その声には、半分は皮肉、半分は本気の戸惑いが混じっていた。
澪の視界に広がるのは、まるで江戸時代の街並みだった。
瓦屋根が陽を弾き、和装の人々がゆるやかに行き交っていた。
風に乗って下駄の音がコツコツと響き、どこか遠くで太鼓の音が鳴った。
異世界というより“過去の日本”。
澪がそんな考えに至るのも無理はなかった。
ノアはそんな澪の横顔をちらりと見て、薄く笑った。
「この国が澪のいた世界に似てるのは分かるけど、ここは本当に“異世界”だよ」
「本当かしら……」
「空に浮かぶ月を見ただろう? あんな大きな月は、澪の世界には無い」
「今のところ、それが唯一の証拠ね」
二人はまるでこの風景の一部であるかのように、自然に通りを歩いていた。
澪は作務衣を着たままで、ノアもいつの間にか和服に着替えている。
そのことが、澪には少し気に入らなかった。
「ねえ、この服、どうにかならないかしら?」
「似合ってるよ」
「いいえ、似合ってないわ。どうにかして」
「わがままだなぁ」
ノアはそう言いながらも、澪に向かって手をかざした。
すると、黒い靄がふわりと立ち上がり、澪の全身を包み込む。
一瞬、風景がかすむように揺らめき――次の瞬間、靄は静かに晴れた。
そこに立っていたのは、さっきまでの澪とはまるで別人のようだった。
長い黒髪を高く結い上げ、深い藍色の紋付袴を身にまとっている。
その姿は凛とした気品を帯び、光を受けて淡く艶めいていた。
そして腰には一本の刀。
その黒鞘からは、名工の手による業物のような、静かな威圧感が漂っていた。
ノアは満足げに頷いた。
「どうだい?女剣士みたいで格好いいだろ」
「まあ、悪くはないわ。それより……この刀は何?」
「それには、ちゃんとした理由があるのさ」
澪はノアに案内されるまま、茶屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。どうぞお席へ」
愛想のいい若い女性が、二人を奥の席へ案内した。
「僕はお団子とお茶。澪はどうする?」
「……抹茶ラテとか無いわよね?」
店員がくすりと笑い、答える。
「アイス抹茶ラテでよろしいですか?」
「あるのね。それでお願い」
「はい、かしこまりました」
立ち去る店員の背を目で追いながら、澪はぽつりと呟く。
「なんだか、不思議な気分ね」
ノアは頬杖をつき、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「抹茶、気に入ったみたいだね」
「うるさい」
澪は少しだけ頬を膨らませて、そっぽを向いた。
その仕草が可笑しくて、ノアは静かに笑った。
「それで、理由ってなに?」
澪は腰に下げた刀の柄を指先で軽く叩いた。
「それには、ちょっと深い理由があるのさ」
ノアは目を細めて笑う。
その赤い瞳が、陽光を受けてわずかに煌めいた。
澪は無言のまま、その瞳を見つめ返す。
互いの間に、張りつめた沈黙が生まれた。
そこへ、店員が盆を抱えてやって来た。
頼んでいた抹茶ラテや団子が、静かにテーブルへ置かれる。
けれど、ふたりは微動だにしなかった。
まるで互い以外の世界が見えていないかのように、
視線だけをぶつけ合っていた。
やがて店員の足音が遠ざかり、気配が完全に消える。
ノアが口を開いた。
「そもそも澪をこの世界に呼んだのは、頼みがあるからなんだ」
「そう」
澪は表情を変えず、淡々と返す。
「この国の御殿様は結構な悪政を敷いていてね、民を救うために澪の力が必要なのさ」
「いいわ、続けなさい」
「実はこの国の御殿様を討てるのは、異世界人だけなんだ。
つまり――澪以外の人間には、この国を救うことができない」
澪は目を伏せ、短くため息をついた。
「……はぁ」
「なんだい?さすがに、この頼みは重すぎたかな」
澪は顔を上げ、まっすぐにノアを見据える。
「あなた、悪魔よね?」
「そうさ。僕は悪魔だ。
――まさか、悪魔の言うことなんて信用できないってこと?」
澪は目を細めて見つめる。
「すこし期待しすぎてたみたいね……」
ノアの眉がわずかに動く。
「僕が期待外れだって言うのか?」
「悪魔だからって嘘を吐く必要はないのよ」
「それは、澪が僕を悪魔だと知っているからだろう。
最初から疑っているから、僕の言葉が嘘に聞こえるんじゃない?」
「私はね、嘘を吐き慣れた人間を山ほど見てきたの。
あなたの嘘なんて、すぐに分かるわ」
「へぇ……やっぱり僕は、澪を見誤っていたみたいだ」
ノアは下唇を軽く噛みしめた。
昼の光が障子を透かし、頬に淡い影を落とす。
そんなノアを見つめながら、澪は淡々と続けた。
「自分の嘘を現実だと思い込む。
そんな人間の虚言ですら、私には見破れる」
その声には感情がなかった。
だが、その静けさこそが、最も鋭い刃だった。
澪の冷たい視線がノアを突き刺す。
「悪魔の嘘でも、この程度なのね……」
その瞳は落胆の色を帯びていた。
今までノアに、そんな目を向けた者などいない。
胸の奥で、何かが軋む。
抑えていたものが、ゆっくりと形を成していく。
「人間……僕を、そんな目で見るな」
ノアの口角が上がる。
笑っているのに、その瞳には明らかな憤怒が宿っていた。
そんなノアの向ける視線にも、澪はまったく動じなかった。
「やめなさい、ノア。そのプライドは偽物よ。
“悪魔”という誰かの作ったイメージが、あなたの中に偽物の感情を生み出してるの」
「僕が偽物の悪魔だって言いたいのかい?」
「違うわ。
悪魔のあなたが、他人の作った“悪魔像”に踊らされているのが、見ていられないの」
ノアは澪を睨みつけた。
そして少しの沈黙の後、
深く息を吐くと椅子の背にもたれかかった。
「……澪と話すのは疲れる」
澪は抹茶を一口飲むと淡々と話す。
「そう?私の時間は高いわよ。
今の会話だけで、この店の料理を全部買ってもお釣りがくるわ」
ノアは頬杖をつくとお茶を一口飲んだ。
「厄介な異世界人を呼んじゃったみたいだな」
「何を言ってるの?寧ろ感謝しなさいよ」
「はぁ……」
頬杖をついたまま、ノアは深くため息をつく。
そんなノアを見て、澪は何かを思いついたのか、にやりと口角を上げる。
その笑みは、静かに人を追い詰めるような不気味さを帯びていた。
ノアの背筋に冷たいものが走り、手に持った湯呑みがわずかに震える。
見つめる先の澪の唇がゆっくりと動く。
「ノア、あなた私の使い魔になりなさい」
「な、なに言ってるんだよ……」
「あなたが私を呼んだのよ。
今さら逃げられるなんて、思ってないでしょうね?」
その迫力に、ノアは目を離すことができなかった。
視線を逸らした瞬間にヤられる、本能がそう告げている。
今の彼にできるのは、乾いた笑いを漏らすことだけだった。
「じ、冗談だよな。さすが澪だな、面白い。あはは……」
だが、それは冗談では無い。
澪の瞳には、確かな覚悟の色が宿っている。
「使い魔の対価は、もう決まっているの」
「……対価?僕は別に、澪の魂なんて欲しくないよ」
怯えるノアに、澪はゆっくりと顔を近づけた。
その声は静かで、どこか優しさすら含んでいる。
「私じゃないわ。ノアの魂を解放してあげるの」
「僕の魂?悪魔の魂を“解放”?意味が分からないよ……」
「悪魔からの解放。ノアは初めて自由を手にするの。
――悪魔なんて、初めから存在してないのよ」
恐怖に負け、思わず目を逸らしてしまった。
その瞬間、ノアの両手が強く拘束される。
ゆっくりと視線を落とすと――
自分の手は、湯呑みごと澪の手に握り締められていた。
「さあ、始めましょう。ノア……」
その声音は優しく、それでいて抗いがたい圧を帯びていた。
風が止み、世界が息を潜める。
その時点で、ノアの計画は――すでに意味を失っていた。。




