吐き気がする
この世界は夢だ。
目を覚ます方法を探さなければ。
そんなふうに思い立ったのは――いつのことだっただろう。
周囲を見れば、誰もがこの世界を受け入れていた。
楽しい出来事を見つけては、そのために生きている。
家族のために。友人のために。恋人のために。
仕事のために。趣味のために。娯楽のために。
小さな楽しみ。大きな幸せ。
それこそが幸福なのだと、みんなが言う。
けれど、この世界では毎日のように不幸が起きている。
ある人は戦争で命を落とし、
ある人は事件や事故に巻き込まれて殺される。
他人の悪意によって、残酷な運命を辿る者もいる。
しかし、それらは同じ意味を持っていた。
――それは、私が幸福であるということだ。
私の身近には常に幸福があると伝え。
私の身に不幸が起きないことは幸福であると伝える。
私はこの世界に生まれて幸福であると。
やはり私はこの夢から目を覚ます事ができない。
何故なら私は幸福だからだ。
世界は幸福で満ちている。
この世界はAIが作ったシミュレーションなのだ――
そう語る人がいた。
彼は、「この世界から抜け出すことはできない」と言っていた。
私はその考えにどこか賛同しながらも、
同時に、こんな非現実的なことを言う人は可哀想だとも思っていた。
多くの人もそう感じるだろう。
現実逃避でオカルトを信じる人なのだと。
言葉には、人間の考えを変える力がある。
「オカルト」という言葉。
その言葉には、意味と同時に、他人の心にイメージを植え付ける力がある。
私たちは、毎日そのイメージを使って世界を判断して生きている。
そしてそのイメージを、事実だと思い込んでいる。
他人が作ったイメージを、
あたかも自分の現実にある真実のように錯覚してしまう。
誰かをイメージで理解した瞬間、
その個人はもう“別人”にされてしまう。
なぜそんなことが、この世界で当たり前のように起きているのか。
どうしてそれが、人々の日常になってしまったのか。
――それは、そうすることが楽だからだ。
物事を理解するには、労力が要る。
人は疲れることを、自ら進んでやろうとはしない。
ましてや、他人を理解するために苦労などしたくない。
イメージで物事を理解することは楽であり、
そして、それは幸福へと繋がる。
この世界は幸福で満ちている。
幸福を享受している人間が、
この世界から目覚めたいなどとは思わない。
魚が水に疑問を持たないように、
人間も世界に疑問を持てない。
その“疑問”が何なのかすら、思いつかないのだ。
ただ――
幸福であることが、私を焦燥させる。
年末、実家に帰省すると家族が集まっていた。
結婚した妹が、子どもを抱きながら私に言った。
「お姉ちゃん、子どもはいいよ。人生が幸せになるよ」
妹は、頬を緩めながら小さな命を抱きしめていた。
その光景を眺めていると、母が言った。
「あんた、彼氏とか居ないの?そろそろ結婚とか考えなさいよ」
私は苦笑で返した。
何故なら母の言葉に対する感想が一つも思い浮かばなかったからだ。
ただ、この世界には常に幸福が満ちている。
そのことだけは、私にも理解できた。
仕事を終えて自宅に帰る。
風呂上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
プルタブを開けて、一気に喉へ流し込む。
潤った喉から、ため息のような声が漏れた。
ベッドに腰を下ろし、テレビをつけながらビールを飲み干す。
空になった缶をベッドの隅に置くと、そこにはいくつもの空き缶が並んでいた。
それを見て見ぬふりをして、私はベッドに倒れ込む。
――いつまでも目覚めない夢の中で、私は眠った。
* * *
気がつくと、私は胡座をかいていた。
目の前には、拝むような姿勢で座るお坊さんがいる。
周囲を見回すと、私は寺の中にいた。
静かな木の香り、障子を通して差し込むやわらかな光。
自分が作務衣のような服を着ていることに気づく。
「あの……ここ、どこですか?」
私が声をかけると、お坊さんがゆっくりと目を開いた。
そして、穏やかに微笑む。
彼は立ち上がり、数歩進んでから振り返り、軽く会釈した。
――ついて来なさい、という意味だと理解した。
お坊さんの後を追い、襖を開ける。
そこには、息をのむような光景が広がっていた。
左右に並ぶ桜の木々。
満開の花が風に散り、世界を淡い桃色に染めていく。
花びらが空を舞い、白い玉砂利の上に静かに落ちた。
用意されていた草履を履き、導かれるままに歩く。
一直線に延びる石畳、その両脇を桜が覆っている。
案内された先には、趣のある小さな茶室が建っていた。
中に入ると、私は座布団に座り、お坊さんの所作を見つめる。
お坊さんは丁寧に茶を点て、茶碗を私の前に置いた。
作法も知らず、私はただ茶碗を手に取り、そのまま口をつけた。
抹茶の香りが口いっぱいに広がり、思わず息を吐く。
その様子を見て、お坊さんは満足げに微笑んだ。
「わたしたちのように、人は繋がり、
互いへの感謝が心の安らぎへと変わるのです」
お坊さんは私を見つめ、目を細めた。
「小さな幸せが積み重なって、人生は豊かになるのです」
私は何も答えなかった。
何故なら、その言葉に対する感想が一つも思い浮かばなかったからだ。
その事実が、私の中で長く抱えていた疑問を氷解させた。
「そういうこと……」
私は幸福であり、世界は幸福で満ちている。
それなのに、私はその幸福に焦燥を覚えていた。
幸福とは、私ではなく、他人が作ったイメージだった。
人々が作り上げたそのイメージが、
“世界の幸福”という一つの形を成していた。
――そして私は、それを押しつけられていた。
幸福を強要されていたからこそ、私は焦燥を感じていたのだ。
「ありがとう、お坊さん」
「いえ、その感謝はやがて平穏となって、あなたにも返ってきます」
「いいえ、そういうことじゃないわ」
私の言葉に、お坊さんの眉がわずかに動いた。
“ありがとう”のあとに続いた否定の言葉――
その違和感が、空気を少しだけ震わせた。
「あなたの言う“幸せ”は、お坊さんのものであって、私のものではないの」
「……どういう意味でしょうか?」
その場で立ち上がると、お坊さんを見下ろして睨みつけた。
「本当に吐き気がするわ」
手にしていた茶碗を壁に叩きつける。
抹茶と破片が弧を描き、茶室の畳と障子に飛び散った。
その瞬間、お坊さんの肩が震えた。
怒りではない――彼は笑っていた。
「あれ?おかしいな。見誤ったか」
その声は老人のものではなかった。
まるで少年が、いたずらを仕掛けたあとに笑うような声音だった。
「あなた、誰?」
私の問いに、お坊さんの肌がじわりと溶け出した。
溶けた皮膚は液体のように床へ流れ、
やがてその身体ごと黒い塊となって崩れ落ちる。
黒はうねり、形を変え、
ひとりの少年へと姿を変えた。
頭には二本の黒い角、背中には漆黒の翼。
整った顔立ちに、血のように深い赤の瞳。
黒い燕尾服を身にまとっていた。
「僕は悪魔だよ」
その言葉を聞いた瞬間、自然と口角が上がった。
満面の笑みを浮かべた私に、彼は少し驚いたように眉を上げた。
「そんな風に笑うなんて思わなかったよ」
「“悪魔”だなんて自己紹介。
キミは他人が作った“悪魔”のイメージで、私を怖がらせたかったのかしら?」
「普通、人間は悪魔に恐怖するものだろ?」
「その“普通”って言葉、やめて。――吐き気がする」
彼は小さく肩をすくめて笑った。
「面白い異世界人だな」
「……異世界人?」
外へ駆け出し、空を見上げた。
そこには巨大な月が浮かび、その周囲を土星のように環が取り囲んでいる。
「異世界へようこそ、英雄殿」
背中越しに、悪魔が囁く。
その瞬間、私は理解した。
――私はやっと、悪夢から目を覚ましたのだ。
そして、これが彼女――
宵宮澪と
悪魔ノアとの出会いだった。




