音のない朝
朝六時。
街はいつも通り、完璧な静寂に包まれていた。
「ノイズキャンセル都市計画」が始まって十年。
人々は“音のない生活”に慣れきっていた。
誰もが穏やかで、ストレスが減り、争いも少なくなったという。
でも――沙耶は、何かが抜け落ちた気がしていた。
通学路の角、古びた建物の裏。
そこにだけ、世界から取り残されたように小さな音があった。
最初は「チリ…」という微かな電子音。
次の日は「ポロン」と弦のような響き。
それは毎朝、少しずつ変わっていった。
ある日、沙耶はその音を録音しようと端末を構えた。
しかし、録音データには何も残らない。
AIはその周波数を「存在しない音」として自動的に削除してしまうのだ。
そのとき、背後から声がした――いや、「声の動き」が見えた。
振り返ると、同じクラスの少年・蓮が立っていた。
彼は唇の形で“聞こえる?”と問いかけた。
沙耶は頷いた。
二人は何日も同じ場所で音を探した。
風の日、雨の日、街が夜の光に沈む日。
音はまるで、二人を試すように近づいては遠ざかる。
やがて、ある朝。
いつものように静かな空気の中で、音が“溢れた”。
電子音でも自然音でもない、温かな旋律だった。
耳ではなく、胸の奥に響くような。
――人の声に似ていた。
「……おかえり」
そう聞こえた気がした。
その瞬間、街の空気が震えた。
AIによるノイズ除去システムが異常を検知し、警告の赤い光が点滅する。
だが、消えない。
音は止まらなかった。
むしろ広がっていく。
電線を伝い、建物を揺らし、人々の心に染み込むように。
蓮が小さく笑った。
「たぶん、これが“音楽”だよ」
音楽――
記録の中でしか知らなかった言葉。
沙耶は目を閉じ、ただその音に身を委ねた。
街の静寂が少しずつ解け、どこかで誰かが泣いているような気がした。
政府のシステムが緊急遮断を試みても、もう遅かった。
音は、ひとの心に記憶された“感情”を呼び覚ましていた。
笑い声、歌、ささやき。
誰もが忘れていた“生きている証”が、静かに戻っていく。
翌朝、ニュースには何も流れなかった。
都市は依然として「安全で静か」なままだ。
けれど、沙耶と蓮だけは知っている。
夜になると、街のどこかで小さく“音”が鳴る。
それは機械ではなく、
ひとの心が生み出す、世界でいちばん優しい音だった。




