第8話か孤独の誓い
領地の屋敷にも、王都に倣うように小さな催しが開かれることになった。
対象は――鑑定を終えた子供たち。
「気にしなくていいのよ」
母マティルダはそう言って俺の手を握り、柔らかく微笑んでくれた。
けれど、その優しさがかえって胸を締め付ける。気にしないでいられるはずがない。つい先日「無能」と囁かれたばかりなのだから。
屋敷の中庭に設けられた広場は、普段よりも華やかに飾られていた。
色とりどりの布が柵に掛けられ、花壇には領内から運ばれた花が咲き誇る。小規模ながらも祭りのような空気に包まれ、領民や家臣の家族も遠巻きに見守っている。
そこへ次々に登場するのは、同じように鑑定を受けたばかりの子息や令嬢たち。
皆、色鮮やかな礼装に身を包み、家族や来賓の前で誇らしげに魔法を披露する。
「見よ! ファイアボール!」
最初に舞台へ出たのは、隣領ガルバン男爵家の跡取り息子だった。
彼は小さな火球を三発、矢のように連ねて放ち、芝生を焦がす。
「見事だ!」
「さすがはガルバン家の跡取り!」
観衆の中から歓声が上がる。
続いて舞台に立った少女は、水の球を宙に浮かべた。
手のひらで優雅に操りながら花壇へと散らすと、花弁は濡れることなく朝露をまとうように輝く。
「なんて繊細な制御……!」
大人たちの感嘆の声が広場に満ち、少女は自慢げに笑みを浮かべた。
さらには風を操り、金色の葉を渦のように舞わせる少年まで現れた。
「わぁ……!」
幼い子供たちの歓声が上がり、広場はまるで小さな祝祭のような熱気に包まれていく。
――その度に、胸の奥が冷たく締め付けられる。
彼らの魔力は俺よりも大きく、魔法の形もはるかに整っている。
比べれば比べるほど、自分の小ささが際立ってしまう。
「アレン様もやってみては?」
進行役の騎士が、穏やかな笑みを浮かべながら声をかけてきた。
広場の視線が一斉に俺へと注がれる。
「リュミエール伯爵家の三男だぞ」
「剣聖と元筆頭魔導士の血を引く子だ。さぞや……」
期待に満ちたざわめきが広がっていく。
胸の奥が、重く沈んだ。
(……やらなきゃ、駄目か)
逃げ出したい気持ちを押し殺し、俺は震える手を前に差し出した。
胸の奥にある魔力をかき集め、必死に詠唱する。
「――集え、火よ。形を成し、弾けよ。《ファイアボール》!」
ぽっ。
生まれたのは、やはり頼りなく揺れる小さな火の玉。
ふらつきながら宙を飛び、芝生に触れた途端――ぱちり、と音を立てて消えた。
広場に静寂が落ちる。
風の音すら止んだように感じられた。
「ちっちゃい……」
「一発で終わり?」
押し殺した笑い声が、じわじわと広がっていく。
耳の奥が熱くなり、視界が滲む。
胸の奥に溜まった悔しさと惨めさが、喉を塞いで呼吸を苦しくさせた。
――これが、俺の「発表」だった。
二発目を撃とうとした。
けれど、胸の奥が急に冷たくなり、膝が小刻みに震えた。
喉は乾いて声が出ず、火球の形は生まれない。
「……っ」
両手を前に突き出したまま、必死に魔力を集めようとする。
だが、重く沈んだ体は完全に拒絶していた。
胃の奥から吐き気が込み上げ、視界が揺れる。
(もう……限界か……)
俺の魔力は二発で尽きる。
それ以上を求めても、体がついてこない。
それは誰よりも自分が分かっていたはずなのに――。
「やっぱり一発きりか……」
「伯爵家の三男だって聞いたが」
「これでは……」
ささやき声が広場のあちこちで広がる。
子供の口元が笑みに歪み、大人たちは失望を隠せない表情を浮かべていた。
それは剣で切りつけられるよりも痛い視線だった。
観衆の中に、家族の姿が見えた。
兄ジークハルトは腕を組み、真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「……努力が足りないのかもしれないな」
その冷静な言葉が、胸を鋭く貫いた。
嘲笑ではない。だからこそ余計に、刃のように突き刺さる。
「アレン!」
今度はコンラートが駆け寄ってきた。
「大丈夫だよ、アレン! 僕だって最初は弱かったし! だから、きっとアレンも!」
必死に笑顔を作る次男。
けれど声の端に混じった不安を、俺は聞き逃さなかった。
その優しさすら、惨めさを深めていく。
母マティルダは穏やかな微笑みを浮かべ、俺の肩にそっと手を置いた。
「二つも属性があるのですもの。きっとこれから伸びていきますわ」
優しい声。
だがその瞳の奥に、隠し切れない揺らぎがあった。
母の心配が伝わってくるだけに、かえって胸が締め付けられる。
そして――父アルマン。
「……」
彼は一言も発しなかった。
腕を組み、ただ黙って俺を見つめる。
その沈黙こそが、一番重かった。
ジークハルトの冷静さよりも、コンラートの励ましよりも、母の優しい言葉よりも――父の沈黙が、何よりも俺を突き放した。
(父上は……きっと失望しているんだ)
胸の奥に冷たい影が広がる。
剣聖と讃えられた父。
王国にその名を轟かせる存在。
その血を引きながら、自分は――小さな火球すらまともに撃てない。
(……俺は、このまま“無能”で終わるのか?)
歓声と拍手が再び広場に響く。
他の子供たちが次々と魔法を披露し、火や水や風がきらめいていく。
その光の輪の中で、俺だけが取り残されていた。
その夜。
屋敷は静まり返り、遠くの虫の声すら子守歌のように聞こえていた。
俺は布団の中で横になっていたが、眠れなかった。
瞼を閉じれば、昼間の光景が何度も蘇る。
「ちっちゃい」
「一発で終わり?」
無邪気さと残酷さが入り混じった笑い声。
広場の空気を凍らせた、あの一瞬の沈黙。
父の沈黙と兄の視線――どれも頭から離れない。
「……努力が足りないのかもしれないな」
ジークハルトの冷静な言葉が耳に突き刺さる。
あれは嘲笑ではない。兄なりの真剣な評価だった。
だからこそ余計に、心臓を素手で掴まれるように痛かった。
「大丈夫だよ、アレン!」
コンラートの必死な笑顔も焼き付いている。
本当に心配してくれていた。励ますつもりだった。
けれど――その声の端に、確かに影が混じっていた。
兄達にすら心配させている、その事実が惨めさを増幅させる。
そして――父アルマンの沈黙。
あの沈黙だけは、どうしても忘れられない。
期待も希望も感じられない、ただの無言。
(……父上は、きっと失望している)
そう思うたび、胸が締め付けられる。
「……俺は……無能なのか」
布団の端を握りしめ、爪が掌に食い込む。
痛みがあっても落ち着かない。
「無能」という言葉が心の奥で何度も反響して、頭から離れない。
その時、不意に前世の記憶が胸を刺した。
――車の中で泣き叫ぶ卓也。
「パパ!」と必死に手を伸ばしてくる声。
――必死でハンドルを握りしめながらも、守り切れなかった恵子。
彼女の叫びと、砕け散るガラスの音。
――病院の白い部屋で、小さな体に管を繋がれたエレン。
俺の胸元に顔を押し付け、かすかに「くぅん」と鳴いた、あの温もり。
守れなかった。
あの世界で、俺は結局何もできなかった。
「……また同じなのか?」
喉が詰まり、布団に顔を押し付ける。
この世界でも、何もできず「無能」と呼ばれて終わるのか。
そう考えた瞬間、涙がにじみ出た。
けれど――胸の奥には、消えない熱が残っていた。
(……違う。今度こそ、俺は変わるんだ)
(無能で終わってたまるか……!)
かすかに声を漏らす。
「……強くなるんだ、絶対に」
その言葉は闇に吸い込まれ、誰にも届かない。
でも、それでいい。
これは他人に聞かせるものじゃない。
俺自身に刻みつける誓いだから。
涙で濡れた枕を抱きしめながら、俺はその誓いを心に焼き付けた。
どれほど笑われても、無視されても、倒れても。
努力だけは――絶対に裏切らない。
胸の奥で小さな炎が灯り続けるのを感じながら、浅い眠りへと落ちていった。
翌朝。
まだ朝靄が残る裏庭で、俺は木の棒を握っていた。
手のひらにはすでに固くなった豆があり、いくつも潰れては皮が破れている。
指先はじんじんと痛む。
それでも振る。振らずにはいられなかった。
「はっ……! はぁっ……!」
声を吐きながら振り下ろす。
棒切れは頼りなく、風を裂く音すら出ない。
それでも、体の奥で「昨日より一歩進んだ」と思いたくて、何度でも繰り返す。
(無能なんて……二度と言わせない)
胸の奥が焼けるように熱い。
肺は悲鳴を上げ、足は棒のように重くなる。
それでも倒れ込むまで続ける。
それが、自分に課した罰であり祈りだった。
昼。
兄たちの剣戟の音が屋敷中に響き渡る。
ジークハルトの鋭い剣筋。
コンラートの伸びやかな魔法。
兵士たちの「さすが剣聖様のご子息!」という声。
(俺は……その輪に入れない)
遠くで聞きながら、俺はひとり木陰で棒を振り続ける。
兵士たちの目に入らないように。
「無能」と囁かれることを恐れて。
孤独な稽古は苦しかった。
でも、その孤独に耐えなければ未来はないと信じていた。
夜。
布団に潜り込み、目を閉じる。
胸の奥に意識を集中し、心臓の鼓動に合わせて魔力を全身へと巡らせる。
――《魔力循環》。
これが、俺だけの希望。
「……はぁ、はぁ……」
全身に広がる痺れと熱。
それは心地よくもあり、痛みに似た感覚でもあった。
けれど、やめられなかった。
そして最後に《魔力循環》――
残った魔力を絞り出す。
掌に集め、形を作らずに――ただ外へ流す。
――すうっ。
見えない流れが指先から抜けていく。
虚脱感と吐き気が同時に襲い、視界が揺れる。
「……ぐっ……」
体が布団に沈み、全身の力が抜ける。
そのまま意識が途切れた。
倒れて、気絶して、また目を覚ます。
泥にまみれた服を侍女が洗いながら首を傾げる姿を見て、胸が重くなる。
「また汚して……」
誰にも本当の理由は言わない。
(これは……俺だけの戦いだ)
誰にも気づかれず、誰にも認められない努力。
孤独で、成果はすぐには現れない。
でも、それでも構わない。
「努力だけは……誰にも負けない」
かすれた声でそう呟き、再び拳を握る。
夜の闇にその声は消えた。
だが、胸の奥には確かな熱が残っていた。
こうして――俺の生活は決まった形を持つようになった。
朝は木の棒を振り、体を痛めつける。
昼は兄たちの影を遠くで見ながら、ひとり枝を振る。
夜は布団の中で魔力を巡らせ、最後にすべてを使い切って気絶する。
孤独で過酷な日々。
けれど、それは確かな「日課」になっていた。
(無能のままじゃ終わらない。必ず証明してみせる……!)
涙で濡れた枕を握りながら、幼い俺はそう誓い続けた。
――そして、月日は流れた。
幼い五歳の少年が「無能」と嘲られてから、幾度の季節が巡っただろう。
春。
中庭の桜が花をつける頃、俺は泥にまみれて枝を振り続けていた。
花弁が風に舞い散る中、ひとりで剣の真似事を繰り返す。
兄たちは父から稽古を受け、兵士に囲まれて剣を振るっていた。
俺は遠くの陰からそれを見つめ、自分の枝を振り下ろすしかなかった。
夏。
陽が昇れば汗が噴き出し、地面は照り返しで焼け付く。
熱気で息が詰まり、頭がくらくらしても、やめなかった。
掌の皮は幾度も破れ、その度に血で棒を汚した。
それでも握ることだけはやめなかった。
秋。
落ち葉が庭を覆う頃、俺は棒を振り下ろし、落ち葉を舞い散らせていた。
兵士たちは収穫祭の警備に忙しく、庭の片隅で稽古する俺の姿に気づく者はいない。
孤独な時間が続いたが、その静けさがむしろ心を落ち着けてくれた。
冬。
霜が芝を覆い、吐息が白く揺れる。
足は冷え切り、手はかじかんで枝を握るだけで痛かった。
それでも夜明け前、布団を抜け出し、凍える庭で剣を振った。
そのたびに胸の奥で熱が灯り、「俺は無能じゃない」と何度も呟いた。
日々は同じことの繰り返しだった。
朝は枝を振るい、昼は兄の背を遠くから見つめ、夜は布団で魔力を巡らせる。
最後に魔力をすべて吐き出し、吐き気に沈んで気絶する。
何百回、何千回と同じことを繰り返すうちに、季節はまた巡った。
その努力を知る者は、ほとんどいない。
母マティルダは何度か裏庭で倒れている俺を見つけ、涙を滲ませて抱き起こした。
「どうしてこんなに……」と震える声を出したこともあった。
だが俺は首を振り、「大丈夫」と答えた。
――強がりだった。
本当は大丈夫なんかじゃなかった。
それでも、やめるという選択肢は存在しなかった。
父アルマンは、口を開かない。
ただ一度、夜明け前に裏庭で剣を振る俺を見て、無言で立ち去ったことがある。
何も言わない。
褒めもせず、叱りもせず。
だがその沈黙は、俺にとって「見ているぞ」という無言の証のように思えた。
兄ジークハルトは鋭さを増し、兵士たちから尊敬の眼差しを受けていた。
弟コンラートは快活に兵と交わり、魔法の腕も確かに伸びていた。
二人の背は遠く、光に包まれているように見えた。
俺は――その影の中で、泥と汗にまみれながら、ひたすら足掻き続けていた。
それでも。
倒れるたびに、夢の中で前世の光景がよみがえる。
卓也の泣き声。
「パパ!」と手を伸ばす小さな姿。
恵子の叫び。
病室で苦しむエレンの温もり。
守れなかった過去が、何度でも心をえぐる。
だが同時に、それは立ち上がるための力にもなっていた。
(今度こそ……俺は守るんだ)
涙を枕に染み込ませ、拳を握りながら、何度もそう誓った。
――そして。
「アレン様、十歳のお誕生日を迎えられます」
侍女の声が耳に届いたとき、胸の奥が震えた。
あれから五年。
誰にも知られず、誰にも認められない孤独な努力の日々。
その積み重ねが、確かに俺をここまで連れてきた。
もうすぐ、十歳。
新たな転機を迎える時が、静かに迫っていた。
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