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第7話に誰も知らない努力

夜はまだ明けきっていなかった。

群青色の空に、名残りの星がかすかに瞬いている。

屋敷は静まり返り、寝息と木の軋む音以外は何も聞こえなかった。


その静寂を破るように、裏庭で一本の枝を振り下ろす音が響く。


「……っ、はぁ……はぁっ……!」


汗に濡れた髪が額に張りつき、小さな手は真っ赤に腫れていた。

豆は潰れ、皮膚がめくれて血がにじんでいる。

膝も泥にまみれ、立ち上がるたびにふらつき、また倒れ込む。


それでもアレンは枝を手放さなかった。


(俺は……無能じゃない……! 絶対に、証明するんだ!)


昨日聞いた囁きが耳から離れない。

「二発で魔力切れだなんて」

「やっぱり無能だ」


あの冷たい言葉が胸を灼き、立ち上がらせる。

倒れても、震えても、涙がにじんでも――枝を振り続ける。


「はっ……! まだだ……!」


夜気は冷たく、吐息は白く揺れる。

けれど胸の奥は燃えるように熱かった。

剣聖の息子でありながら「無能」と囁かれた悔しさ。

そして――もう二度と、大切なものを守れず失うのは嫌だ、という強い願い。


その両方が、幼い体を突き動かしていた。


東の空が少しずつ白んでいく。

薄明の光が、泥にまみれた小さな影を長く伸ばした。


アレンは歯を食いしばり、声にならない声を吐きながら、なお枝を振り下ろし続けた。


「……ふぅ」


裏庭の片隅。

訓練用の木剣を背に立てかけたまま、剣聖アルマンは静かに歩を止めた。

視線の先には――小さな体で枝を振り続ける三男の姿があった。


(……またやっているのか)


夜明け前、屋敷を一巡りし、兵の様子を確認していた時だった。

聞き慣れぬ「ぶんっ」という不格好な音。

それを辿った先で目にしたのは、幼い背中を震わせながら枝を振り下ろす息子の姿。


手は赤く腫れ、足元は泥にまみれている。

呼吸は荒く、今にも倒れ込みそうだ。

だがアレンは、歯を食いしばり、何度でも枝を振り上げていた。


「……無茶を」


低く、誰にも届かぬ声が漏れる。

本来なら止めるべきだ。

まだ五歳の子供に、ここまでの鍛錬は許されるものではない。


だが――。


アルマンの胸の奥に、揺らぎが走った。

昨日、兵たちの間で囁かれていた噂を思い出す。


『二発で魔力切れ』

『やはり三男坊は無能か』


その言葉を、この子が耳にしたのだろう。

そして今日、こうして枝を振り続けている。


(……己を追い詰めてまで抗おうとするのか)


その小さな背中に、かつての自分の姿が重なった。

誰にも認められず、ただ剣だけを振り続けた若き日の記憶。

気づけば拳を固く握りしめていた。


「……」


だが声はかけない。

近づきもしない。

ただ闇に身を潜め、黙って見守る。


もし止めれば、この子の心を折ることになる。

だが放っておけば、体を壊すかもしれない。


その狭間で揺れながらも――アルマンは最後まで足を止め続けた。


(アレン……その意地が、いつか剣となるのか……)


夜明けの光が濃くなっていく。

小さな影はなおも震えながら枝を振り下ろしていた。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


枝を振る腕はもう力が入らない。

肩は抜けるように重く、足は棒のように震えている。

それでもアレンは歯を食いしばり、もう一度だけ――と枝を振り上げた。


「……っ!」


小さな体から絞り出すような一撃。

だが振り抜いた瞬間、足がもつれ、そのまま前のめりに地面へ崩れ落ちた。


乾いた音と共に、泥が頬に張りつく。

膝と肘に走る痛みさえ、もう感覚が鈍くなっていた。


「……まだ……だ……」


掠れた声で呟き、震える腕で枝を探す。

指先は血で赤く染まり、皮膚が裂けていた。

それでも手を伸ばす姿は、幼い意地と執念そのものだった。


――その時。


「……アレン!」


鋭い声が裏庭に響いた。

駆け寄ってきたのは、母マティルダ。

魔導士らしい威厳ある気配も忘れ、ただ一人の母として息子へ手を伸ばしていた。


「もう、これ以上は……!」


彼女は倒れ込んだアレンを抱き起こす。

小さな体は汗と泥に濡れ、触れただけで熱を帯びているのがわかる。


「どうして……どうしてこんなに自分を追い詰めるの……」


マティルダの目に涙が滲む。

それは心配であり、同時に胸を締めつける痛みでもあった。

昨日、大広間で囁かれた「無能」の言葉。

アレンの小さな背中がどれほどそれを重荷に感じていたか――母は察していた。


「あなたは無能なんかじゃないのに……」


震える声で抱きしめながら、マティルダは心の底からそう告げる。


しかしその陰で――。


闇に溶けるように立ち尽くすアルマンの姿があった。

声をかけることもせず、ただ無言でその光景を見届けていた。


(……心を折らずに強くなるか。体を壊して潰れるか)


剣聖と呼ばれた男は、冷酷な現実を知っている。

だが父としての胸の奥は、今にも張り裂けそうに痛んでいた。


アレンの小さな声が、母の腕の中で掠れる。


「……俺は……諦めない……」


その言葉に、マティルダの涙は止められなかった。

アルマンはただ静かに拳を握り、闇の中へ姿を消した。


夜――。

屋敷の明かりが消え、静寂が訪れる。

廊下を吹き抜ける風の音と、遠くで虫が鳴く声だけが響いていた。


アレンは布団の中に潜り込み、じっと天井を見つめていた。

昼間のことが、頭から離れない。


「……俺は、諦めない」


あの時、母の腕の中で絞り出した言葉。

嘘じゃない。意地でもなく、本気の叫びだった。

けれど――。


(このままじゃ……いつか本当に潰れるかもしれない)


棒を振り続ければ体は壊れる。

魔法を撃てば、二発で限界が来る。

兄たちの背中はますます遠くなり、父の沈黙は重くのしかかる。


胸が詰まるような孤独。

それは、前世で失った家族を守れなかった悔しさとも重なっていた。


(無能のままじゃ、また大切なものを失う……。絶対に、それだけは嫌だ)


アレンは布団の中で身を起こす。

小さな掌を見つめ、深く息を吸った。


「……やるしかない」


目を閉じ、心臓の鼓動に意識を合わせる。

どくん、どくん――。

その拍動に重ねるように、魔力を全身へと流すイメージを描いた。


(腕へ、足へ、背中へ……)


魔力循環。

前世の知識を頼りに、誰にも知られずに続けてきた習慣。

けれど、それだけでは足りないと今は知っている。


――筋肉は限界まで使えば強くなる。

――なら、魔力も同じはずだ。


アレンは拳を握りしめ、声を潜めて呟いた。


「……全部、使い切る……」


掌を前に突き出し、《ファイアボール》を思い描く。

胸の奥の魔力を絞り出し、火花のような小さな炎を生む。


――ぼっ。


一発目。

体の芯が揺れ、魔力が削られる感覚。


「……はぁ……」


続けて、二発目を無理やり捻り出す。


――ぼっ。


炎は頼りなく揺らめき、すぐに消えた。

その瞬間、胃の奥がえぐられるように軋み、喉から吐息が漏れる。


「う……っ」


全身が重く、視界がぐらぐらと揺れる。

吐き気がこみ上げ、布団の端を必死に掴んだ。


(……これが、限界……!)


幼い体には酷すぎる負担。

けれどアレンは倒れ込む直前、もう一度だけ心の中で叫んだ。


(無能なんて、絶対に言わせない……!)


そのまま意識が闇に沈む。


布団の中、幼い手はまだ握り拳を作ったままだった。


それからの日々、俺の生活は決まった形を持つようになった。


朝――。

夜明け前に布団を抜け出し、冷たい石床を踏みしめて裏庭に出る。

木の枝を両手で握り、何度も、何度も振り下ろす。

掌は豆だらけになり、皮が破れて赤く染まってもやめなかった。


「はっ……はぁっ……!」


声を吐き出すたび、胸は焼けるように熱く、足はふらついた。

けれど、その痛みと苦しさの奥にしか、自分が「進んでいる」と思える瞬間はなかった。


昼――。

兄たちは父から剣を学び、屋敷の兵士たちの声は活気に満ちていた。

遠くから聞こえる掛け声や木剣の音は、胸を焦がす刃のように響く。


(俺も、あんなふうに強くなりたい……)


そう願いながらも、近づくことはできない。

俺に向けられる眼差しは、まだ「無能」という囁きを含んでいる気がして――。

だから、昼間はひっそりと木陰で枝を振り続けるだけだった。


夜――。

布団の中で目を閉じ、胸の鼓動に意識を合わせる。

とくん、とくん――そのたびに魔力を全身へ押し流す。

汗が額を濡らし、体が震えても、やめなかった。


(……意味があるのかどうかも、分からない)


魔力循環。

それはただの空想を真似ただけの稽古。

誰に証明できるわけでもなく、結果が出るのは遠い未来かもしれない。


けれど――信じるしかなかった。

俺には、これしかないのだから。


そして最後に、体の奥に残った魔力を絞り出す。

掌にかすかな熱を集め、《ファイアボール》を二発。

胃の底がひっくり返るような吐き気に襲われ、体が沈んでいく。


「……っ……」


吐き気に耐えながら布団の端を掴み、意識は闇に飲み込まれた。

目が覚めると朝で、体は鉛のように重かった。

それでも、また同じ一日を繰り返す。



誰も知らない努力。

父にも、母にも、兄たちにも打ち明けない。

ただ一人、幼い妹セラフィナが眠りながら小さな手で服の裾を掴んでくる時――ほんの一瞬だけ、心が救われる。


(……俺は無能じゃない。無能なんかで終わってたまるか)


涙で枕を濡らしながら、何度も胸の中で繰り返した。


それが、まだ幼い俺のすべてだった。


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