第5話 魔力循環の始まり
鑑定の日から、そして母に教わった《ファイアボール》の訓練から、もう何日も経った。
けれど――あの日の光景は、今も鮮明に胸の奥で燻り続けている。
弱々しい二色の光。
「無能」という囁き。
そして父アルマンの沈黙。
母マティルダは「立派よ」と励ましてくれた。
次兄コンラートも「すごいぞ!」と声を張ってくれた。
けれど、長兄ジークハルトの冷静な言葉――「これでは実戦では使えないな」――は胸に突き刺さり、父が最後まで言葉をかけなかった沈黙は、心を押し潰すように重くのしかかっていた。
(俺だけが、置いていかれている……)
父は剣聖。王国中の誰もが憧れる英雄。
兄たちもその背を追い、日々強さを手に入れていく。
ジークハルトは剣筋に鋭さを増し、コンラートは風の魔法を小技に変えて笑顔を見せる。
その姿を誇らしく思う一方で、胸の奥では冷たい感情が渦を巻く。
自分だけが、取り残されていく。
火と風――二つの適性があっても、魔力量は「ほとんどない」と言われた。
あの場で一瞬の期待を浴びた光は、次の瞬間には「失望」に塗りつぶされた。
小さな火を二度灯しただけで気絶する俺の姿は、嘲笑の格好の的だった。
夜、布団に潜り込んでも、まぶたを閉じるたびにその場面が蘇る。
父の鋭い眼差し。
兵士や貴族たちの、ひそひそとした囁き。
そして、心に突き刺さった「無能」という一言。
胸が焼けるように熱く、呼吸が詰まる。
布団を頭までかぶっても、耳の奥でその声が響いて消えない。
(俺は、本当に無能なのか……?)
焦燥は夜を重ねるほどに強くなり、心を締め上げる縄のように逃れられなくなっていった。
昼下がりの裏庭。
乾いた木剣の音が、規則的に空気を震わせていた。
訓練場では兵士たちが剣を振るい合い、兄たちは父アルマンの指導を受けている。
ジークハルトの剣筋は鋭く、コンラートは何度倒れても立ち上がり、気迫を前に押し出す。
その姿はまだ幼さを残しているはずなのに、すでに「戦士」の気配を纏い始めていた。
俺は柵の陰でそれを見つめていた。
胸の奥が熱く、そして冷たくもなる。
(……やっぱり、兄たちはすごいな)
誇らしい。けれど、その背中が遠くて、眩しすぎる。
そのとき、兵士の一人が俺の視線に気づき、微笑んで短い木の棒を差し出してきた。
「ほら坊っちゃん。これで真似してみろ」
「ありがとう!」
俺は両手で受け取り、ぎこちなく構えた。
――ぶんっ。
一振りしただけで、肩にずしりと重さがのしかかる。
二振り目には腕が痺れ、三振り目には息が荒くなった。
小さな手のひらが棒に擦れ、赤く痛む。
それでもやめられなかった。
(魔法が駄目なら、せめて剣で……!)
足がもつれて転んでも、すぐに立ち上がる。
膝に砂が食い込み、涙がにじんでも歯を食いしばった。
振り下ろすたびに胸が焼け、喉が乾き、肺が悲鳴をあげる。
それでも、体を動かし続けずにはいられなかった。
けれど――頭の奥から離れない。
――弱々しい《ファイアボール》。
――「二発で魔力切れ」という囁き。
――父の沈黙。
(剣だけじゃ駄目だ……魔法だって、どうにかしなきゃ……!)
剣を振る腕は汗で濡れ、体は疲れ切っているのに、心の中は魔法のことばかり考えていた。
火と風、二つの適性を持ちながら、「無能」と断じられた自分。
その絶望を覆す方法を、必死に探し続けていた。
やがて夕暮れ。
兵士たちが訓練を終え、兄たちが父に労われて屋敷に戻る。
俺は一人、砂まみれになった体を引きずるようにして部屋へ帰った。
夜。
布団に潜り込んでも、疲労で体は眠りを求めているのに、頭は冴えて眠れない。
剣を握った手のひらは赤く腫れ、豆が潰れてじんじん痛む。
それでも心の奥で響くのは、あの日の声だ。
「二発で魔力切れ」
「無能」
(……俺は、本当に無能なのか? このまま置いていかれるだけなのか?)
息苦しくなり、枕を強く握りしめる。
そのとき、不意に前世の記憶が蘇った。
建築現場での休憩中。
あるいは、家で横になりながら読んでいた小説や漫画。
そこに書かれていた一節。
「魔力を心臓から全身に巡らせれば、不純物が削がれ、純粋な魔力となる」
当時は「へえ、面白い設定だな」と笑って流した言葉。
けれど今は違う。
魔法が存在するこの世界なら――試してみる価値がある。
(できるかどうかも分からない。馬鹿げてるかもしれない……でも、やらなきゃ何も始まらない)
俺は深呼吸をし、胸に手を置いた。
どくん、どくん――小さな体を揺らす鼓動。
それに合わせ、魔力を血液のように全身へ流すイメージを描いた。
腕へ。脚へ。背へ。
けれど、何も起きない。
意識は散漫に途切れ、手足は冷え、空回りするばかりだった。
(……やっぱり無理なのか?)
諦めかけた瞬間、指先にかすかな痺れが走った。
ほんの一瞬。錯覚かもしれない。
だが、確かに熱が脈打つ感覚があった。
(……これか? これが“魔力の流れ”……!)
胸が高鳴る。
たとえ錯覚でも、この感覚にすがるしかなかった。
(俺は……無能なんかじゃない。必ず……!)
瞼が落ち、意識が闇に沈んでいく。
その最後の瞬間まで、俺は心臓から全身へ魔力を巡らせるイメージを続けていた。
こうして俺の“魔力循環”の試みは始まった。
誰にも知られず、誰にも評価されない。
けれど、確かに俺は一歩を踏み出したのだ。
剣術の稽古を終えた後、体は鉛のように重かった。
腕は棒を振りすぎて痺れ、足も石のように硬直している。
それでも布団に潜り込むと、胸の奥は休まるどころか熱を帯びていた。
(剣を振るだけじゃ駄目だ……魔法も、どうにかしなきゃ)
昼間、稽古の最中にも考えていたことが、また浮かび上がる。
兄ジークハルトの剣は日ごとに鋭さを増し、コンラートの風魔法も小さな形を持ち始めている。
一方で俺は――剣を振っては倒れ込み、魔法を唱えても火花しか生まれない。
どちらも中途半端で、誰にも届いていない。
拳をぎゅっと握る。
思い出すのは、あの日の鑑定で浴びた冷たい言葉だ。
「出がらし」「無能」――耳を塞いでも頭から離れない。
(……でも、諦めたくない)
深呼吸をして、心臓に意識を向ける。
昼間の疲労で鼓動は速く、熱を帯びていた。
その一拍ごとに「何か」が膨らみ、全身へ広がっていくように思える。
(血が巡るみたいに……魔力も流せるはずだ)
昼間の剣の稽古で汗を流し、夜は布団の中で魔力を巡らせる。
この二つの努力が、きっといつか繋がると信じたかった。
だが現実は、甘くなかった。
意識を集中しすぎて頭がくらくらし、胸が焼けるように苦しい。
指先に痺れを感じたと思えば、そのまま眠りに落ちてしまう。
(やっぱり……無理なのか)
そんな弱音が心をよぎる。
けれど、指先に残るかすかな熱が、俺を踏みとどまらせる。
(……違う。これは“前より一歩進んだ”証拠だ)
錯覚かもしれない。
思い込みかもしれない。
それでもいい。
無能と呼ばれた俺には、この小さな感覚にすがるしかなかった。
布団の中、汗に濡れた手を胸に押し当てる。
「俺は……絶対に諦めない」
かすれた呟きは夜の闇に溶けたが、その熱は確かに胸の奥で燃えていた。
日々の生活は、誰にも気づかれない努力の積み重ねで埋め尽くされていた。
昼は庭の片隅で木の棒を振り続ける。
最初は数十回で倒れていた腕も、今では百回に届くほどに動かせるようになった。
けれど、それは「倒れるまでの回数が増えただけ」に過ぎない。
棒の重さは変わらず腕に食い込み、握りしめた手のひらは赤く腫れて豆だらけ。
痛みで夜眠れないこともあった。
(でも……剣は嘘をつかない。振った分だけ、必ず返ってくる)
あの日、兵士に言われた言葉を胸に刻み、棒を振るたびに自分を叱咤する。
剣は努力を裏切らない。
ならば魔法も、きっと同じだ――そう信じて夜を迎える。
布団に潜り込み、鼓動に耳を澄ませる。
「どくん、どくん」と幼い体を震わせる心臓の音。
そこから広がる熱を全身に押し流そうとする。
けれど、その流れはまだ細く途切れ途切れで、気を抜けば霧散してしまう。
――三分、五分、十分。
少しずつ、少しずつ伸びていく時間。
昨日より今日、今日より明日。
目に見える成果はなくても、その「わずかな前進」が唯一の支えだった。
(……これが本当に意味を持つのか、誰にも分からない)
(父上が見れば、きっと「戯言だ」と一蹴するだろう)
それでもいい。
俺にとっては、この時間が「無能じゃないと信じられる唯一の証」なのだから。
昼は剣、夜は魔力。
二つの努力を繰り返すうちに、体は疲労で重くなり、眠りに落ちるのも早くなった。
使用人たちは「成長期だからよく眠る」と微笑むが、実際は違う。
ただ、倒れるまで足掻いているだけだ。
(成果が出るのは、いつになるんだろうな……)
そんな弱気が胸をかすめる。
だが同時に、心の奥底では小さな炎が燃え続けている。
「……俺は、無能じゃない。必ず強くなる」
声に出した途端、瞼は重く落ち、意識は闇に沈む。
その最後の瞬間まで、俺は魔力を流し続けていた。
やがて訪れる眠りは、疲労で沈む重い眠りだった。
だがその夢の底で、俺は繰り返し誓っていた。
――二度と、大切なものを失わない。
――無能と呼ばれても、必ず努力で覆してみせる。
そしてその誓いこそが、まだ何者でもない少年を支える唯一の力となっていた。
日々の生活が、いつの間にか決まった形を持ち始めていた。
朝は兄たちと同じように木剣を握り、訓練場の片隅で振り続ける。
最初は重さに振り回されて転ぶばかりだったが、それでも両手の皮が破れて血が滲んでも、棒を手放すことはなかった。
兵士たちは呆れたように笑いながらも、次第に「またやっている」と視線を向けるようになった。
昼下がりには、母や兄たちに混じって基礎魔法の訓練を繰り返す。
《ファイアボール》は相変わらず二発で限界。火花のように小さく、的にすら届かないことも多い。
そのたびに胸が詰まり、指先が震える。
(……どうして俺だけ、これほど何もできないんだ)
悔しさで視界が滲むこともあった。
それでも、母の「もう一度やってみましょう」という優しい声と、兄たちの視線に背中を押されて立ち上がる。
そして夜。
布団に潜り込むと、心臓に意識を集中し、魔力を全身に巡らせる。
鼓動に合わせて押し流す――それだけの作業なのに、幼い体には拷問のように重くのしかかった。
頭がくらくらし、全身が痺れる。何度も「もう無理だ」と思った。
だが、最後には必ず意識が闇に落ち、気づけば朝を迎えている。
「最近のアレン様は、よく眠っていらっしゃいますね」
使用人が母にそう囁く声を聞いたことがある。
母も穏やかに頷いて「きっと成長期なのね」と微笑んでいた。
……本当は、成長の眠りではなく、訓練で力尽きていただけなのに。
それでも、この勘違いは都合が良かった。
誰にも気づかれず、努力を続けられるからだ。
剣を振るう日々。
魔力を巡らせる夜。
成果は何一つ見えない。兄たちとの差は広がる一方で、父の沈黙も変わらない。
けれど、諦める気はなかった。
(……俺は、続ける。どれほど時間がかかっても、必ず強くなる)
胸の奥に小さな炎を宿しながら、無能と囁かれた少年は、自分だけの道を歩み始めていた。
それはまだ誰にも知られぬ、孤独な努力の物語だった。
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