第4話 剣にすがる
魔法の初歩――《ファイアボール》。
あの日、俺が放てたのは、たった二発だけだった。しかも、母が示した鮮烈な火球とは比べものにならない、小さな火花のようなもの。まるで燐寸の炎を無理やり丸めただけの頼りなさだった。
「二発で魔力切れだなんて」
「やっぱり無能じゃないか」
あの時、観衆の中から聞こえてきた囁きが、今も耳の奥で何度もこだましていた。声は消えない。夜になって目を閉じても、夢の中でさえ追いかけてくる。
母は「立派よ」と微笑んでくれた。コンラートも「すごいぞ!」と励ましてくれた。
けれど――兄ジークハルトの冷静な評価と、父アルマンの沈黙。
その二つが、俺の心に重しのようにのしかかり、離れてくれない。
(俺だけが……置いていかれている……)
父は剣聖。誰もが憧れる英雄。
兄たちも、既にその背中を追って力を見せ始めている。
なのに俺だけが――取り残されている。
胸の奥に重苦しいものが沈み、布団の中で天井を見つめても、どうしても眠れない。
心臓はずっと重い石を抱えているようで、深呼吸しても苦しさは和らがない。
耳を澄ませば、夜の屋敷はしんと静まり返っているのに、自分の心音だけがやけに大きく響いていた。
隣では妹セラフィナが小さな寝息を立てている。
月明かりが薄く差し込み、彼女の頬が白く浮かび上がる。
「……あにちゃ」
寝言のように、か細い声で呼ばれた。
幼い妹の指が夢の中で俺の手をぎゅっと握りしめる。その手はとても小さいのに、驚くほど温かかった。
その温もりに、一瞬だけ胸の痛みが和らいだ。
(……そうだ。守りたいものがあるんだ)
思い出す。
魔力鑑定の大広間で、全てを圧倒する光を放った少女――エリーゼ。
彼女の輝きは、会場の人々を歓声と驚きで包み込んだ。
その光の中で、俺の小さな火球はかき消されてしまった。
差は歴然だった。
だけど、その時確かに胸の奥に灯った感情がある。
(俺だって……諦めたくない)
自分には、無能の烙印しか残されていないのか。
いや――違う。
今度こそ、大切なものを守るために強くならなければならない。
魔法が駄目なら、剣しかない。
そう強く思った瞬間、胸の奥で火がついたように熱が広がった。
このまま目を閉じてしまえば、二度と立ち上がれない気がした。
夜明け前の静寂の中、俺は決意を固めていた。
その日の朝は、まだ空が群青に染まっていた。
夜と朝の狭間――鳥たちがさえずる前の、最も静かな時間。
俺は布団をそっと抜け出した。
セラフィナの小さな寝息が、背後で一定のリズムを刻んでいる。夢の中で「……あにちゃ」と呟いた声が、まだ耳に残っていた。足を止めたくなる。振り返れば、その寝顔を見て心が揺らいでしまう。
けれど――立ち止まってはいけない。今夜の決意を、無駄にはできない。
廊下に出ると、石畳の冷たさが裸足の足裏にじんと伝わる。
薄暗い屋敷はどこか別世界のようで、壁に並んだ燭台はすでに消えていた。
天井の梁の影が長く伸び、まるで闇が俺を試すように纏わりつく。
(誰にも……見られたくない)
父や母に知られたら止められるだろう。
兄たちに見つかれば「無茶するな」と笑われるかもしれない。
兵士たちに知られれば、陰で嗤われるかもしれない。
だから、今しかない。
誰も起き出さないこの時間に、一人で始めなければならない。
きゅ、と床板が鳴る。
思わず息を止めた。
心臓の鼓動が喉にまで響き、屋敷全体に聞こえるんじゃないかと思うほど大きく感じる。
誰かが目を覚ました気配はない――そう確かめてから、足を進めた。
裏庭へ抜ける扉に手をかけると、鉄の取っ手はひやりと冷たい。
押し開けると同時に、冷たい空気が頬を打った。
草の上には露が降り、月明かりを反射して小さな光を散りばめている。
鼻腔に入るのは、夜明け前の湿った土の匂い。
吸い込む息は澄んでいて、胸の奥まで冷たさが突き刺さる。
けれどその冷たさは、むしろ心を引き締めるように思えた。
(魔法が駄目なら……剣しかない)
昨日のことが頭をよぎる。
小さな火球しか出せず、二発で倒れた自分。
「無能」という言葉。
父の無言の眼差し。
拳をぎゅっと握りしめると、小さな関節がきしんだ。
俺はそのまま芝生を踏みしめ、裏手の訓練場へと歩みを進めた。
石畳を越え、露に濡れた芝を抜ける。
幼い足取りはまだ頼りない。けれど、不思議と一歩ごとに決意が強くなっていく。
(俺は諦めない。誰よりも努力してみせる……!)
吐いた息が白く揺れ、夜明け前の空にすぐ消えた。
その小さな白い吐息が、まるで自分の意志を映すように感じられた。
訓練場に近づくと、耳に届いてきたのは乾いた木剣のぶつかり合う音だった。
――ガンッ! バシィンッ!
鋭い掛け声と共に、砂を蹴る音が重なる。
朝日はまだ完全に昇りきっていない。
空の端に淡い橙色が滲むだけで、訓練場はまだ薄い青灰色の空気に包まれていた。
けれど、その中に立つ兵士たちは眩しいほど力強かった。
「はっ!」
「そこだ、踏み込みが甘い!」
「腰を落とせ、腕に頼るな!」
叱咤と応答が飛び交い、木剣と木剣が火花のように打ち合わされる。
一歩ごとに砂埃が舞い、息が白く弾ける。
剣を振るうたび、風を裂く音が胸に突き刺さる。
俺は思わず柵の影に身を潜めた。
その姿は、幼い心に焼きついて離れない。
兵士たちの筋肉は鍛えられ、動きには無駄がなく、剣を振るう軌跡は一撃ごとに重みを宿している。
(……これだ。俺に足りないものは……これなんだ)
息を呑み、全身が熱くなる。
魔法では何もできなかった。小さな火花しか生まれず、二発で倒れた俺を「無能」と囁いた声が、耳に焼き付いている。
けれど――剣なら。
この場で汗を流し、何度も倒れても立ち上がる兵士たちのように努力するなら、俺だって……。
手のひらがじんわり汗ばむ。
まだ何も握っていないのに、棒の重みを感じたような気がした。
「踏み込み直せ!」
「もう一度だ、気を抜くな!」
叱責と気合の声。
その一言一言が、まるで俺の心に直接打ち込まれるように響いてきた。
(……あんなふうに、強くなりたい)
胸の奥で、熱い何かがぐらぐらと燃え上がる。
魔力の光は弱くても、体は小さくても、努力だけは誰にも負けない。
剣なら――きっと証明できる。
俺は柵越しにその光景を必死に目に焼きつけた。
足の運び。腰の落とし方。剣の角度。呼吸のタイミング。
すべてを吸い込むように頭に叩き込み、心の奥で何度も反芻する。
(……剣なら。剣なら俺も――!)
兵士たちの訓練はやがて一区切りを迎え、掛け声が止んだ。
重い息遣いと共に、数人が腰を下ろして水を飲む。
その場に残ったのは、稽古で舞い上がった砂の匂いと、剣を振り終えた後の熱気。
俺の胸は、まだ激しく脈打っていた。
その熱は、昨日の絶望の残滓を少しずつ焼き払っていくようだった。
休憩に入った兵士たちのざわめきが遠ざかる。
その隙に、訓練場の隅に転がっている一本の木の棒に目が留まった。
先端はすり減り、片方はひびが入っている。おそらく木剣の代わりとして使われていたのだろう。
(……あれだ)
胸の奥で何かが叫んだ。
気づけば足が勝手に動いていた。
砂を蹴り、棒の前に立つ。
「……重いっ」
両手で掴み上げた瞬間、ずしりと肩に食い込む重みがのしかかる。
子供の腕には余る長さ。少しでも気を抜けば、地面に引きずられそうになる。
それでも、俺は歯を食いしばり、必死に持ち上げた。
(負けるもんか……!)
両足を開いて腰を落とす。
頭の中で、さっき見た兵士たちの姿を繰り返し思い出す。
肩の力を抜き、腰で支え、視線をまっすぐ前に。
「……はっ!」
――ぶんっ。
空気を裂いた音が耳を打った。
だが勢い余ってバランスを崩し、膝が砂にめり込む。
手のひらに棒の重みがのしかかり、皮膚が軋むように痛む。
「くっ……もう一度!」
立ち上がり、今度は腕に力を込めて振り下ろす。
肩が悲鳴を上げ、背筋に鋭い痛みが走る。
それでも――止まらなかった。
「はぁっ!」
――ぶんっ。
砂埃が舞い上がり、木の棒が大きく弧を描いた。
息が荒れ、胸が焼けつくように熱い。
額からは汗が滴り落ち、頬を伝って砂に落ちる。
(……まだだ。俺はもっと――!)
何度も、何度も。
振るたびに腕は震え、膝が笑い、視界が揺れる。
けれど、心の奥では確かに火が燃えていた。
守れなかった家族。
病に伏したエレン。
車の中で泣き叫んだ卓也。
何もできなかった過去の自分。
(もう二度と……無力なままじゃ終わらせない!)
小さな体で振り続けるたび、喉が焼け、呼吸が荒れ、胸が張り裂けそうになる。
手のひらは赤く腫れ、木の棘が刺さり、血がにじんだ。
それでも握る手を緩めることはなかった。
――ぶんっ。
力を振り絞った一撃のあと、体がふらつき、視界が揺れる。
足がもつれ、そのまま砂の上に崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁっ……」
肺が軋む。
腕も脚も鉛のように重い。
けれど、倒れたままの手は――まだ棒を握りしめていた。
砂の上に倒れ伏し、荒い息を繰り返す。
胸は焼けつくように熱く、喉は乾ききって声が掠れていた。
手のひらは赤く腫れ、木の棘が刺さって血がにじんでいる。
それでも指先は、棒を離そうとはしなかった。
(……無能なんかじゃない……)
(絶対に、俺は強くなる……!)
涙と汗で視界が滲む中、心の奥にだけは確かな熱が残っていた。
その時――。
「……おい、見ろ」
「伯爵家の三男じゃないか?」
耳に兵士たちの声が届いた。
いつの間にか訓練を終えた数人の兵士が集まってきて、俺を見下ろしている。
「倒れるまで木剣を振って……」
「いや、あれは木の棒だ。子供の腕じゃ持ち上げるだけでも一苦労だぞ」
「それを……何十回も?」
驚きと戸惑いが入り混じった声。
一人の壮年の兵士が、眉をひそめて近づいてきた。
広い背中、岩のように太い腕。鍛え上げられたその姿に、思わず胸が高鳴る。
「……おい、坊主。大丈夫か」
俺の横に膝をつき、棒を取ろうとする。
けれど、俺は必死に抱え込んだ。
「は、離すもんか……っ」
かすれた声でそう吐き出す。
兵士は目を見開き――そして、小さく笑った。
「そうか。諦める気はねぇんだな」
その声には嘲笑も軽蔑もなかった。
むしろ、静かな敬意が込められていた。
他の兵士たちも俺の周りに集まり、じっと見下ろしてくる。
最初は驚きの色があった眼差しが、次第に変わっていく。
「伯爵家の三男は“無能”って噂だったが……」
「無能に見えるか? こんなに必死な奴が」
「……根性は、下手な大人以上だな」
低い声が次々と重なり、俺の胸にじんわりと染み込んでいく。
耳に届く兵士たちの言葉は、これまでの嘲笑とは違っていた。
それは――初めて向けられた“認める声”だった。
(俺は……無能じゃない。まだ弱いだけだ。努力すれば、必ず――!)
全身は限界を迎えていた。
けれど心は、不思議なほど熱く燃えていた。
壮年の兵士がそっと俺の肩に手を置く。
その手は温かく、力強かった。
「覚えておけ、坊主。剣は嘘をつかん。振った分だけ、必ず力になる」
その言葉が、胸に深く刻まれる。
やがて意識は遠のき、瞼が重く閉じていく。
体はもう動かない。
けれど最後まで――俺の手は棒を離さなかった。
それは、無能と呼ばれた少年が初めて掴んだ、“強くなるための証”だった。
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