ささやかな幸せ、そして別れ
兵庫県・明石。
海風がすっと抜ける住宅街の一角に、俺――佐伯涼介の家はある。
その朝も、布団の胸元には白い柴犬が丸くなって眠っていた。
エレン。十年来の相棒であり、俺たちの“最初の家族”だ。
「……おはよう、エレン」
声をかけると、ぱちりと片目を開け、鼻先を俺の胸に押しつけてきた。
まるで「ここは私の場所だ」と主張するように。
「涼介ばっかり、ずるいなぁ」
背後から、妻・恵子の少し拗ねた声が響いた。
「エレン、パパだけじゃなくて、私や卓也のところでも寝なさいよ」
「僕も! 僕も一緒がいいー!」
三歳の息子・卓也が布団の端で手を伸ばす。
けれどエレンは完全無視。
さらに俺に体を寄せ、安心したように小さく喉を鳴らした。
「はは……しょうがないな。俺の胸元は特等席だからな」
俺が肩をすくめると、恵子も卓也も苦笑するしかなかった。
胸の奥に広がる、当たり前の朝。
けれど俺は、その温もりに触れるたびに思い出す。
――あの日、最初にエレンと出会った瞬間を。
大学四年の夏。恵子と並んで歩いていた街角で、ふと足を止めたペットショップ。
ガラスケースの奥から、じっとこちらを見ていた小さな白い子犬。
「……この子、可愛い」
恵子が目を細めて呟いた時の顔を、今でも鮮明に覚えている。
あの瞬間から、俺たちの人生は少しずつ変わっていった――。
――あれは大学四年の夏だった。
街路樹の影を歩きながら、恵子と並んでいた。
彼女は六年制の医大に通っていて、俺より二つ下の学年。
高校時代から付き合い始め、もう七年になる。
「涼介、ちょっと寄ってもいい?」
恵子が足を止め、ガラス越しに店の中を覗き込む。
そこは小さなペットショップだった。
店内のケージの一角で、白い子犬がじっとこちらを見ていた。
真っ黒な瞳がまっすぐで、まるで「連れて帰って」と訴えているようだった。
「……この子、可愛い」
恵子が目を細める。
「でも飼うのは大変だぞ?」
当時は学生同士。下宿暮らしで、バイトと授業に追われる日々。
軽い気持ちで迎えられる責任じゃない。
けれど恵子は、迷いなく口にした。
「私、育てたい。涼介と一緒に。……家族になる練習だと思って」
その真っ直ぐな言葉に、胸が熱くなった。
俺は少し悩んだ末に、店員へと頭を下げていた。
――こうして俺たちの“最初の家族”に、エレンが加わった。
***
大学を卒業した俺は、明石の総合不動産会社に就職した。
最初の配属は設計部。
CADに向かい、住宅の設計図を描く毎日。
「梁の荷重計算はこうするんだ」
「断熱材を入れる位置はこっちの方が効率的だぞ」
先輩たちに叩き込まれながら、少しずつ形になっていく図面。
机に広げた紙の上に、自分が描いた線が未来の家になる――その事実に胸が震えた。
だが、現場は常に人手不足だった。
ある日、上司から声をかけられる。
「佐伯、お前、現場も見てこい。図面を描く人間こそ、基礎を知らなきゃならん」
こうして現場監督も兼任することになった。
鉄骨の組み上げ、コンクリートの打設、職人の掛け声。
汗まみれで現場を駆け回りながら、建物が少しずつ立ち上がっていく光景を肌で覚えた。
「設計の佐伯さんは話が早いな」
「現場のこともわかってるから、頼りになる」
職人たちの笑顔に背中を押される日々。
エレンも成長し、仕事終わりに迎えてくれる姿が心を癒やした。
その数年後、俺は営業部に異動になる。
理由は一つ。
「設計も現場も知っている人間こそ、土地付き住宅を売れる」
顧客に「安心して任せられる」と思わせるためには、知識が必要だ。
設計から施工まで語れる俺の立場は、まさに適任だった。
スーツ姿で図面を開き、顧客に説明する自分。
学生時代に恵子と交わした「家族の練習」という言葉を思い出しながら――
俺は、エレンと共に歩む新しい生活の土台を築いていった。
昼下がりの営業所。
スーツ姿の俺――佐伯涼介は、顧客を前に分厚い契約書を広げていた。
「こちらの土地ですと、建ぺい率の制限を考えても二階建ては十分可能です。構造は木造か軽量鉄骨が選べますが……」
さらりと図面にペンを走らせ、簡単な間取りを描き出す。
リビングの広さ、採光の向き、庭の位置。
顧客の希望を取り入れながら、その場でプランを形にしていく。
「……佐伯さんって、設計出身なんですか?」
顧客が感心したように目を見開いた。
「ええ、大学を出て最初は住宅設計をやっていました。その後は現場監督も。ですから、建材や施工の流れも含めてご説明できます」
言葉に裏付けがあるからこそ、相手の表情が和らいでいく。
営業の強みは「信頼」だ。机上の空論ではなく、実際に家を建ててきた経験を語れること。
それが俺の武器になっていた。
商談を終え、外へ出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
胸ポケットからスマホを取り出す。
画面には――布団の上で眠るエレンと、無邪気に笑う卓也の写真。
「……やれやれ。結局、こいつらの顔を見ると頑張れるんだよな」
小さく笑い、次の現場へ足を向けた。
***
だが、その日。
いつもなら玄関まで駆け寄ってくる足音が、聞こえなかった。
「……エレン?」
呼んでも尻尾を振らない。
リビングの隅で小さく丸まった白い背中が、かすかに震えていた。
胸がざわつく。慌てて駆け寄り、抱き上げる。
「……軽い……」
驚くほど体重が落ちている。
呼吸は浅く、体は熱を帯びていた。
十年来の相棒の重みが、手の中から抜け落ちていくような感覚に、喉が詰まった。
「恵子!」
声が震える。
すぐに駆けつけた妻は、エレンの体を抱き取ると静かに耳を当てた。
「……呼吸音が粗い。心臓に負担がかかってる……」
短く的確な言葉。
家庭で見せる柔らかさとは違う、医師の顔だった。
「すぐ病院へ行こう!」
俺は車のキーを掴み、エレンを胸に抱えたまま玄関を飛び出した。
――その夜から、俺たちの小さな日常は音を立てて揺らぎ始めた。
夜の街を突っ走る車内。
ハンドルを握る手は汗で滑り、信号が変わるたびに心臓が跳ねた。
後部座席では恵子がエレンを抱きしめ、必死に声をかけ続けている。
「大丈夫、もうすぐだから……頑張って……!」
その声に応えるように、弱々しい尻尾が一度だけ揺れた。
俺は歯を食いしばり、アクセルを踏み込む。
***
動物病院の白い灯りが夜道に浮かんでいた。
ドアを蹴破るように入ると、獣医師がすぐに駆け寄る。
「症状は?」
「呼吸が荒くて……心臓も……!」
診察室に運び込まれたエレンは、聴診器を当てられるたびに小さく身を震わせた。
数分の沈黙が、永遠のように長い。
「――僧帽弁閉鎖不全症です」
獣医の言葉が落ちた瞬間、時間が止まったように感じた。
「心臓の弁がうまく閉じず、血液が逆流しています。かなり進行している。すぐに入院が必要です」
恵子が息を呑み、俺は言葉を失った。
医学用語の意味はよく分からない。けれど――深刻だということだけは理解できた。
「治療法は……?」
ようやく絞り出した声に、獣医は真摯な目で答える。
「内科的な薬で症状を抑えることはできます。ただ……完治は難しい病です。延命がどこまでできるかは……」
言葉を濁しながらも、残酷な現実ははっきり伝わった。
俺は唇を噛み、視界がにじむのを必死に堪えた。
***
入院が始まった。
白いケージの中、酸素室に横たわるエレン。
点滴の管が細い足に繋がれ、胸の上下が苦しそうに波打つ。
「パパ、エレン……もう帰れないの?」
卓也が制服のまま駆け込んできて、小さな声で尋ねた。
「帰れるさ。少し頑張れば、また一緒に散歩できる」
そう言い聞かせながら、背中を抱き寄せる。
だがその言葉が、自分への願望にすぎないことを痛感していた。
夜になると、病院からの連絡に胸をざわつかせ、眠れぬまま朝を迎える日々が続いた。
会社へ向かっても、ふとした瞬間にエレンの呼吸音が頭から離れない。
契約の説明をしていても、胸の奥が締めつけられる。
――やがて、当たり前だと思っていた「家族の時間」が、少しずつ崩れていくのを感じ始めていた。
入院生活が始まってから、毎日が病院中心になった。
夕方の仕事終わりに病院へ寄るのが習慣となり、週末には家族そろって面会に訪れる。
ケージ越しに見つめると、エレンは弱々しく尻尾を揺らす。
それだけで胸が締めつけられ、涙腺が熱くなる。
「……ただいま、エレン」
俺が声をかけると、耳がぴくりと動き、かすかな笑顔を見せてくれるような気がした。
卓也はケージの前にしゃがみこみ、小さな手をガラスに当てる。
「えれん……がんばってね。ぼく、ずっとまってるから」
その姿に、看護師が思わず目頭を押さえる。
家族の思いが、病室を満たしていくようだった。
***
日が経つにつれて、薬の効果で呼吸は落ち着く日もあれば、逆に苦しげな夜もあった。
「今日は調子がいいですね」と言われるとほっとする。
だが次の診察では「心雑音が強まっています」と伝えられ、絶望が胸を突き刺す。
その繰り返しが続くうちに、俺は気づいた。
――仕事で学んだ建築や営業の知識は、家を造り、人に夢を与えることはできる。
だが、一度失われかけている命を救う力にはならない。
それでも。
俺がここにいることで、エレンが少しでも安心できるなら。
ただ傍に座り、声をかけ続けることが、今できる唯一の「支え」なのだと信じた。
***
ある晩、面会時間ぎりぎりに駆け込んだ俺を、恵子が待っていた。
「今日は少し調子が悪いの」
心配そうに眉を寄せ、エレンを見守っている。
小さな体が、酸素室の中で上下に震えていた。
見ているだけで、胸が裂けそうだった。
「……パパ」
卓也が涙をこらえながら、俺の袖を引いた。
「えれん、しんじゃわないよね……?」
答えを探そうとしても、言葉にならなかった。
強く抱きしめるしかできない。
「大丈夫だ。最後まで、俺たちが一緒にいる」
それだけが、今の俺にできる約束だった。
***
その夜、病院を出る頃には空が赤く染まっていた。
夕焼けの下、三人で手をつなぎ歩きながら、ふと振り返る。
白い病院の灯りが、やけに遠く、儚く見えた。
(……もう、残された時間は長くないのかもしれない)
胸の奥に忍び寄る不安を押し殺しながら、俺は小さく誓った。
――どんな結末が待っていても、最後まで「家族」として共に歩む。
その覚悟を抱いた瞬間、冷たい夜風が頬を打ち、涙を乾かしていった。
その日は、朝から胸騒ぎがしていた。
窓の外は晴れていたのに、なぜか心は重く、落ち着かない。
病院に着くと、担当医から静かな声で告げられた。
「……今夜が山になるかもしれません」
耳に届いた瞬間、頭が真っ白になった。
それでも俺は必死に表情を整え、恵子と卓也の前では笑みを作る。
「大丈夫だ。俺たちが一緒にいる。最後まで、絶対に」
***
酸素室の中のエレンは、細い呼吸を繰り返していた。
以前よりも小さく、頼りない胸の上下。
それでも、俺たちが顔を覗き込むと、瞳がかすかに開き、尻尾を一度だけ振った。
「エレン……」
恵子が震える声で名前を呼ぶ。
白衣の下の指が小さく震え、普段は冷静な医者の顔が、今は一人の飼い主として揺れていた。
卓也はガラス越しに手を当て、必死に笑おうとする。
「えれん……ぼく、ここにいるよ。だから……がんばって」
その声に応えるように、エレンは小さく鼻を鳴らした。
それは――精一杯の「ありがとう」だったのかもしれない。
***
時間がゆっくりと過ぎていく。
けれど、それは同時に「残りが減っていく」ことでもあった。
俺は思い出していた。
大学時代、あのペットショップで小さな白い体を抱き上げた瞬間。
結婚してすぐ、家族として迎えたあの日の喜び。
初めての散歩で、転びそうになりながら走り回っていた卓也の笑顔。
全部、全部――この十数年の思い出が胸に溢れてきた。
「……ありがとうな、エレン」
声が震えて、涙が滲む。
「お前がいたから、俺たちは家族になれた」
恵子がすすり泣きながら頷く。
「本当に……ありがとう」
卓也は泣き声を押し殺し、ただ必死に笑顔を作ろうとしていた。
その小さな顔が、痛いほど愛しくて切なかった。
***
やがて、エレンの呼吸がゆるやかに、途切れ途切れになっていった。
酸素室の中で、最後の力を振り絞るように目を開き、俺たちを見つめる。
(……最後まで、見てくれてるんだな)
その瞳に映った自分は、涙でぐしゃぐしゃで、情けない顔をしていた。
それでも――。
「大丈夫だよ、エレン。俺たちは、ずっと一緒だ」
そう囁いた瞬間、小さな体がふっと力を失った。
静かな静寂が病室を包む。
――エレンは、眠るように旅立った。
***
時間が止まったようだった。
泣き声も、言葉も出ない。
ただ、心臓を握り潰されたような痛みだけが、全身を支配していた。
(……守れなかった)
(今度こそ、絶対に守りたかったのに)
胸の奥で何度も呟きながら、俺はエレンの名を心の中で叫び続けた。
エレンが息を引き取ってから、家の中はぽっかりと穴が空いたように静まり返っていた。
朝、布団に飛び込んでくる温もりはなく、玄関の隅に置かれた小さなリードだけが取り残されている。
卓也は夜になると、そのリードをぎゅっと抱きしめて眠るようになった。
恵子も、普段は明るく振る舞っているものの、ふとした瞬間に目を伏せて黙り込むことがあった。
(……このままじゃいけない)
亮介は胸の奥で決意した。悲しみを抱えたままでは、家族の笑顔を取り戻せない。
ある日の夕食後、亮介は箸を置いて口を開いた。
「……旅行に行こう。気持ちを切り替えよう」
「旅行?」と恵子が目を瞬く。
「そうだ。京都の一休寺に行こうと思う」
その言葉に、恵子の表情に懐かしさがよぎった。
「……結婚前によく行ったわね。紅葉の季節は、本当に真っ赤に染まって綺麗だった」
「うん。あの赤の中を、またみんなで歩こう。今度は卓也も一緒に」
卓也がぱっと顔を上げ、目を輝かせた。
「一休さんのお寺? 絵本に出てきた小坊主さんの!」
「そうだよ。ほら、知恵でみんなを助ける話、好きだっただろ?」
「うん! 一休さんが“とんち”で困った人を助けるんだよね!」
久しぶりに家族の間に笑い声が戻った。
亮介はその光景に胸をなでおろす。
「今度は一休寺で、家族写真を撮ろうな」
「うん!」と卓也が身を乗り出し、恵子も微笑んで頷いた。
数日後。
赤いプリウスに荷物を積み込み、佐伯家の久しぶりの家族旅行が始まった。
朝の空気は澄んでいて、窓を開ければ潮の香りが心地よく流れ込んでくる。
ハンドルを握る亮介の横で、恵子は地図アプリを確認しながら微笑む。
後部座席では卓也が、膝の上に大好きな一休さんの絵本を抱えていた。
「パパ、ママ! 一休さんのお寺に着いたら、これも一緒に写真撮ろうね!」
「そうだな。一休さんと一緒に撮れたらいいな」
亮介はバックミラー越しに息子を見て、自然と頬が緩む。
車内には穏やかな時間が流れていた。
卓也の笑い声、恵子との他愛ない会話。
日常に埋め尽くされていた悲しみが、ほんの少しずつ遠ざかっていくように思えた。
「パパ、もっと速く走ろうよ!」
「こらこら、安全運転第一だぞ」
亮介は苦笑しながら答える。
「でも今日は、パパもママも卓也も、一緒に楽しむ日だからな」
――その時だった。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「……っ!」
呼吸が浅くなり、額に冷や汗がにじむ。
「亮介……?」
恵子が不安そうに覗き込む。
「だ、大丈夫だ……きっと」
そう言い聞かせるように微笑んだが、痛みは強くなる一方だった。
手は震え、ハンドルを握る力が弱まる。
車は次第に蛇行し、卓也が「パパ!?」と声を上げる。
「亮介、危ない!」
恵子の叫びが響く。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
――ガードレールとの衝突音、車体が横転する衝撃。
砕け散るガラス片が光を反射し、スローモーションのように舞う。
(……いやだ、まだ……家族を守らないと……)
伸ばした手は、愛する妻にも、息子にも届かない。
ただ空を掻くだけの無力な動き。
「……家族……幸せで……」
その思いを最後に、亮介の意識は闇に沈んでいった。
――そして。
目を開けたとき、耳に届いたのは聞いたことのない子守唄。
視界には見知らぬ天井。
小さな体を誰かに抱かれ、自分が赤子になっていることを悟った。
「……俺は……生きているのか……?」
胸に残るのは、最愛の家族の記憶。
そして、新しい世界の始まりだった。
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