再会は困惑と窮地
「え…」
困惑、戸惑いに窮地。
様々な負の感情を一言で表したのが今しがた口から零れた「え…」である。
日本には400万以上の企業があり、関連企業をいれたら上場会社は約4000と言われている、はずなのに。
なんで、彼が、ここにいる…。
世間は広いはずだ。
ここは大都会東京だ。
なのに、随分と狭すぎやしませんか?
絶対に狭すぎる。
上司として同じ会社にいるのではなく、あくまでも相手方、取引先であることはまだ救いかもしれないが。
それにしても、相変わらずなんとも顔面偏差値の高い男だろうか。
いや、昔から顔面偏差値は高かった。確かに高かった。
よく、「芸能人になれるかも」ってみんなでからかったっけ。
そうそう、彼の友達が、「昨日は原宿でスカウトされた」「昨日は銀座で」なんて、休日が明けるたびに聞いた気がする。
言われた本人は芸能関係には、一度もその気になっていなかったし、逆にその顔面偏差値の高さを嫌ってもいた。
本人曰く、意図せず人を引き寄せるから、もめ事に巻き込まれて迷惑しているとも言っていた。
目立つことは好きだが、ギャーキャーちやほやされるのは嫌いだったなと思いだす。
顔がいい人は、いい人なりの苦労があるんだなぁと当時は思ったものだ。
けれど、彼は顔面の偏差値だけではなく、頭の偏差値もよろしい人だったから、芸能界には興味もしめさない。
そんなもんに発掘してもらわなくても、己の頭のほうの偏差値で生き抜いていけるからだ。
芸能間なんて、いつまでも人気があるとは限らず、ある意味では人生を賭けての博打。
そんなものに時間は費やせないと言い切ったことも思い出した。
ああ、なつかしき青春時代。
まだ、世間という現実を知らずにいた、汚れなき頃。
なつかしい…
ああ、そうよねぇ、頭のいい人ほど政治家にはならないともいう。
これは…あ、そうだ。彼の親友の言葉だ。
いやいやいや、
私よ、今、思い出すのはそこじゃない。
のんびり、学生時代の青さを懐かしがってる場合じゃない。
こっち、こっち、の現実みて、私。
その年齢でそのポジションって、めちゃくちゃ優秀ですよね?
確かに頭の偏差値、高い人だったけど、仕事もできる男かよ。
まあ、顔面偏差値以外で目立てるのは、彼の希望でもあったけれど、見事に実践していませんか。
くそっ、頭に顔の偏差値高くて、仕事もできる男とか、神様はえこひいきしすぎだよネ。
まてまて、心を落ち着けて、私。
感心するのはそこでもない。
頭の偏差値だけなら、私だってこそこそだよ?
だから、待てというに、私。
いま、思い出すべきは、それじゃないつーの。
あのね、出来れば、二度とお目にかかりたくはない。
向こうは欠片も覚えていないかもしれないけれど、私が一方的に嫌なのだ。
彼の視界に入るのもご遠慮したい。
壁、机、椅子、もしくは空気に溶け込ませてくれ。
いまならハエでもいい…。叩き潰されなければ。
あ、そうだよ。
うちの上司も一応は出来る男のはず。
今日だけは、お願いだから、今日だけは、突然「代わりに部下が説明致します」とかいって、私に花道なんて譲られないでくれ。
うん。部下からのお願いです。要望です。懇願です。
心の声よ、いまそこ上司に響いてくれ。
聞こえますか、私はいま、私は上司の頭に直接、語り掛けています。
んなことあるかーい。
今日だけはお願いだから、今日だけは。
心の絶叫が届いたのかは定かではないが、上司がみずから話をしているので、上司が大柄なのを利用し、少しずつ、少しずつ、背に隠れるように移動して、彼の死角までくると「タクシーを止めていります」と告げて、草々に役員専用会議室から辞する。
静かに扉をしめ切って、やっと息を吐いた。
「なんで、いま。なんで、ここに」
そんなことは後からいくらでも考えるとして、ほうほうの体で役員専用エレベーターに乗り込むと、地下駐車場の階を何度も連打する。
連打したところで、急いで扉が閉まるわけでもないが、とにかくこのフロアーを離れたい。
生まれ育った北海道の札幌市内のはずれから、日本の中心地である大都会東京に転居したのは、小学校6年生のときだった。
今からもう、18年ほど前になる。
父は生まれも育ちも東京だったけれど、北海道という北の大地にあこがれて、北大の医学部を受験しそのまま定住することにした。
北大で母と出会ったことも大きかったし、なにより雪が好きで吹雪で血肉踊る意味不明な人だった。
いや、娘である私も人のことは言えない。
雪とくに猛吹雪や大雪に血肉踊る…私は確実にこの父の遺伝子を受け継いでいる。
父の一目ぼれで始まった付き合いは、父が医師の国家試験に受かると同時に籍をいれ、まだ研修医だった段階で私が生まれた。
医者だったので金銭的なことも心配する必要性もなければ、父の実家も裕福な資産家だったので、援助も受けられた。
結婚当時の母はまだ18才で、やっと就職したばかり。
母は子供をそれほど急いではいなかった。
どちらかといえば子供に興味のない方だった。
父も子供が好きだったわけではないが、母をつなぎとめる方法の一つとして妊娠は有効だと考えた程には、かなりヤバいレベルで執着の人だった。
母との行為の際、一度も避妊をしたこともなければ、生理以外ではほぼ抱きつぶしていたらしい。
今ならDVだと思う。
我が親ながら絶倫とか恐ろしい…。
漫画の世界の住人かよ。
その後、父の両親は、在学中に旅行先の海外で交通事故に遭い他界し、高齢だった祖父母は私が小学生の時に相次いで他界している。
家族は欲していたわけではなく、何度も言うが、母を妊娠させて自分につなぎとめるためだけに子供を欲したのだ。
実際のところは、母も束縛のきつい人だったので、いまでいう共依存かもしれない
わが親ながら「それってなんのティーンズ小説だよ」「どこのギャルゲーだよ」といか言いようがない。
母は父に押し切られる形で私を産んだが、世間一般的な母親だったのかというと大変な疑問を感じるところである。
母も未就学で水害により両親を失い唯一人生き残った方で、祖父母に引き取られた後、高校進学時にはその祖父母もなくして、遠縁に引き取られたのち、その遠縁の伯母もガンでなくした天涯孤独の立場だった。
父は一般的な家庭や家族を知っていたが、母は知らずに育った人だ。
ただし、我が父ながらその執着心は異常だが。
犯罪者レベルだと思う。
祖父母は一般的な人たちで普通の価値観の人であったので、父が特別なのかと思う。
母は母なりに私を愛そうとはしたものの、早くに自分の母を亡くしたこともあり、「母親」というそのものがわからず、子育てに関しても、様々な本をみてより一層迷走したが、その後、再び妊娠して4才下の弟が生まれた。
その後も、両親ともに子供には無関心で放任・放置気味だった。
父は弟が生まれた頃には、母に対する異様な執着はそのままだったものの、医者として高給取りで、妻に金銭的な不自由をさせない良き夫であつたので、子育てに関しては、お金を払う事で解決するようになった。
その方が、母と二人の時間が持てたからだ。
一方の母は、弟が成長するに従い、自分の父の面影を持つ弟に異様に執着するようになった。
母は愛で人を真綿でくるみ息を止めるタイプの人だ。
父は母の執着と束縛を喜んで受け入れる人だが、その執着と束縛が弟に向くのは許せなかった。
幾度も母を泣き落としで脅し、無理やり寝室に引きずりこみ、体にわからせる異常者だった。子供から見てもはっきり言って恐怖を覚える執着心だった。
そのうち、父も母が息子を与えておけば、自分のいうことを黙って聞く人なのだと気づき、より一層、父の執着心はまし、母を自分の隣に置くために息子を手元に置くようになった。
傍から見れば、父と母と弟と幸せな3人家族だ。
そう、3人家族でしかなかった。
そこに私はいなかったが、私自身はそれを気に求めてなかったことは救いだった。
目に見えて両親に愛されなかった私は割と感情が死滅していた子供だった。
その歪な家族関係を見た、祖父母は、父を何度も諫め、最後には殴りつけたこともある。
父は「妻に似ておらず、自分にも似てない。妻の足かせにもならない子は愛せない」と、はっきり言った。
その頃には小学1年生になっていて、私は親に「何かを求める」感情は持ってなかった。
さすがに業を煮やした祖父母は、両親の自宅の近くに家を借り、私を引き取って育てることにした。
今更ながらに思うが、祖父母には感謝してもしきれない。
とても愛してくけれたのだ。
なにより、両親と違って、まともで普通で世間一般で問うところの良き家庭の価値観をもった祖父母の下で育つことができたのだ。
自分たちの手元から私がいなくなった両親は、特に生活が変わることはなかった。
なぜなら、私は両親の「家族」にはなかったからだ。
父はあくまでも私は母を繋ぎとめるためだけに妊娠させ、出産させただけで、愛し庇護する対象ではなかった。
母はもっと分かり易く産みたくない子供だった。
ただし弟は自分の父によく似ていたので、父のいない時間を慰めてくれる存在だった。
あのまま成長していたら、弟はどうなっていたのかと考え事もある。
両親がしていたこと、あれは、十分、虐待だと思うのだ。
大きな転機を迎えたのは、私が小学校5年の夏だった。
集団下校をしていた私たちの列に、高齢者の車がノーブレーキで突っ込んできた。
私が最後に見たのは、血走った高齢者の目で、どうやらボンネットに乗り上げたようだった。
1週間ほど生死をさまよい、目が覚めたとき、4才下の弟は帰らぬ人で、すでに荼毘に付されていた。
実感なんてひとつもなく、自分が病院にいる理由すらもあまり理解できてなかった。
私の入院生活はそれほど穏やかではなかった。
というより、今でも、殆ど思い出せない。
夏休み直前の事故だったことから、仲の良かったクラスメイト達が、ほぼ毎日、お見舞いに来てくれたおかげで、リハビリに前向きにはなれた。
一方で、私が入院しているにも関わらず、両親か一切、姿を見せないことで、入院先の病院や学校で問題になりつつあった。
仲の良かった親友の両親が、自分の娘のように親身になって私を見舞ってくれた。
この頃、私を愛してくれた祖父母は、すでに相次いで他界し、私は居心地のよくない両親の家にいた。
母は弟の死でショックを受け精神的な不安定を抱え、何度も後追いの自殺未遂を起こし、何度も病院のお世話になっていた。
父は仕事をしつつ、妻のケアを優先し、はっきり言えば家庭が崩壊状態だった。
いてもいなくても関心のなかった娘の方まで気が回らなくて当然だった。
親戚がほぼいない家庭というのは、こんなにに簡単に崩壊するものなのだと今なら思う。
両親の無関心は病院内でも問題になり、ついに福祉の手が入ることになった。
ここに至って父は、自分たちが世間から「子供を虐待している親」と認識されている事に気が付いた。
いかに妻にしか興味がなくても、世間体というものを気にする余力はあった父は、やっと娘に目をかけるようになった。
というよりは、妻と引き離される恐怖があったのだと私には思える。
妻のケアと仕事、福祉からの虐待疑いによる面談で、父が過労で倒れ入院する事態になって初めて母は、父を失う恐怖にかられ自殺未遂を辞めて、献身的に夫を支える妻になった。
母の中では娘は弟と一緒に「死んだ」ものとなっていたからだ。
当時はカウンセリングなんぞないから、母の行動は異常だったと思う。
そのことに父は、人生で初めて母に対して恐怖を覚えたらしい。
つくづく、共依存というのは恐ろしいものだ。
私が退院後の父は、このままここにいても、何も改善しないと考えた。
とはいえ、はっきりいって、この二人の関係性が大きく変わることもなく、娘への愛情が特別芽生えたわけではないのが、共依存という関係性だ。
父に執着し束縛する妻、母に執着し固執する夫。
一方で、外出を恐れて自宅から出ることのできない私。
父は事故の記憶が残る北海道ではなく、環境の違う場所に転勤することを決めた。
そして、小学校6年に上がるタイミングで、私たちは東京に転居した。
私を転校させるにあたり、父は教育水準や学校にかなり気をつかい、家庭教師を入れ、有名な私立小学校に編入させた。
私の頭の良さというよりは、父の積んだお金の威力か。
なにより、父が私をそこに突っ込んだのは、学校に送り迎えの通学バスがあるのが大きかった。
この頃になると、母は少しずつだが、異常行動がなくなり、弟の死を受け入れて、私の事も受け入れ、表面上は「母親」となった。
なにより、娘の学校行事に参加することで、外部との接触ができたことにより、社交性も復活した。
そして、自分の娘が、勉強に関してかなりできる事に気が付いた。
弟が成しえなかったことを娘に期待するようになったのだ。
いままで、ほぼ放置プレイだった母が、急に教育に厳しい母親に変貌したのだから、普通ならば反発もする。
けれど、私は事故の後遺症で感情のなにかが欠損してしまったところがあり、反発するどこか、親の言われるままに勉強にのめりこんだ。
おかげで、転校早々でも成績は優秀であったし、内部進学へのお墨付きも早かった。
私より1か月遅れで転校してきたのが、彼だった。
みるからに裕福な子息だというのが見て取れる感じで、私も一応、医者の娘だが、彼は段を行いて裕福だったのだ。
しかも、海外からの戻り組。
恐ろしいことに、英語だけではなく、イタリア語やスペイン語も話せた。
世界が違う子だなぁなんて思ったこともある。
当時の私は、転入組だったこともあり、いじめは受けていないが、クラスでも目立つこともなく、仲間外れになることもないが、学校が終わった後に家にお邪魔して遊ぶほどの友達はいなかった。
彼は数週間で同級生たちの心を掴みミュニケーション能力於いて怪物並みの才能があった。
そのうえ、海外生活で培った押しの強さと引きの計算がうまく作用し、あっという間に人気者なり、瞬く間に学年でも人目置かれ、人気者になった。
同じ時期に編入したものの、彼がモンスター並みの人気者だったおかげで、私の存在は薄れ、穏やかになじんで行けた。
転校する前はあの悲劇のおかげで、良くも悪くも目立っていたから、目立たず学園生活ができる事自体は私には喜ばしい事だった。
大きな問題もなく、中等科に進学後3年間、目立つ彼と同級生だったが、彼が私を認識していたかははっきり言って不明だ。
ゲームで言えば、私はモブ程度。
そう、モブ。
なんて素晴らしい存在だろうか。
目立つことはいい事ではない。
並みでいいのだ。
なんていい響き「並み」。
彼はとにかく中学でも目立ち、すこぶる人気者で、頭のつくりも抜群だった。
中学時代の成績はいつもトップ付近に彼の名前が記載されていた
私もなんとかいつも20位以内には食い込んでいた。
私の成績には両親も納得していたと思う。
この頃から、父がよく体調を崩していたので、心配はしていたのだが、勤務先が病院なので若干、楽観視していた。
おそらく父自身も。
私にとってはこの中学時代の3年間が家族として一番穏やかで、幸せだった時代だと思う。
多少、歪なままなのは仕方ないが、昔に比べれば、一応は家族として存在していたはずだ。
悲しいことに「はず」であって、その理由は後に説明したいと思う。
エスカレーターで高校に上がった年の冬。
父が病院内で倒れたと知らせを受けて母とともに駆けつけたとき、母は父から「がんである」と伝えられた。
体調を崩しがちで、自分でも年齢からくるものとごまかしていたものの、倒れたことで精密検査を受け、がんの末期だと知ったらしい。
母は茫然としていたし、私は事の重大性を理解するのに時間を要した。
父は、がんの積極的治療は受けず、生活の質をあげる処置を選択した。
まだ、ステージ3であり、父は率先した科学治療をうれるつもりだったが、自分のがんが進行性で、きわめて難しい状態を正確に知り、残された時間を妻と過ごすことを選択した。
ここで重要なのは、「家族と過ごす」ではなく「妻と過ごす」ということだ。
結局、最後まで私は家族ではありえなかった。
父が出来ない事が増え、在宅の医療に頼る前に、父が「母と旅行に行きたい」と私に告げた。
新婚旅行も行ってなかったからと。
それは二人きりで旅行に行きたいということをごまかす為の方便だと私も理解していたが、方便を使うだけましかとも思い、高校2年生だった私は両親を笑顔で見送った。
昔の父なら、私に何も言わずに出かけたに違いない。
父の病状はだんだんと死に向かい、見るからに悪化し始めた。
医師時代の友人に静岡にあるホスピスを紹介された父は、最期を迎えるためにそのホスピスへの入院を決めた。
私は高校2年生秋のことだった。
父が病気になって一番、驚いたのは、仕事を辞めたとたんに教育熱心になったしまったことだ。
今まで放置で、まあ、私も大きく成績が左右することもなく、そこそこで維持していたが、父は突然、もっと上を目指せと言い出した。
これにはびっくりした。
自分が死ぬと分かったとたん、父は3代続いた医師の家系を閉ざしてしまうことを気が付いたのか。
とくにかく私に医学部を目指せと言い出した。
なので、父の期待に応えるつもりはなかったが、一応、頑張った。
父の病気があっても、私の成績は大きく落ちることがなく、父の中では私はすでに手が離れた大人になっていたのだと思う。
だから、娘への愛よりも妻への愛の方が勝ったのだ。
どうせなら、私への愛も持っていてほしかった。
母は父とともに静岡に行くことになり、私も転校する気でいたのだが、大学受験を控えた大切に時期でもあり、父は私に東京に残るように言った。
子供の私から見たら事実上置いて行かれたと思う。
初めてではないので、ショックを感じない自分にショックだった。
そもそも広い家に女子高生が一人暮らしになることを何とも思わない段階で、親として失格だ。
ただし、父も東京の自宅に娘を、それも大学受験を控えた大切な時期に、一人残す事を同僚たちに反対されたため、父の異母姉に連絡をとった。
父と異母姉は、定期的に連絡はとりつつも、それほど頻繁に会うことはなかったが、さすがに一人暮らしの姪を心配し、一緒に生活をしてくれるようになった。
当時、この伯母は、旅行のツアコンをしていて、海外を飛び回る生活をしていたのに、私の為に仕事のツアコンを辞め、出張のすくない部署に転属までしてくれた絵にかいたような、いい人だった。
伯母との生活は私にとってはすごく救われた。
人生で初めてほっとしたのだ。
長い事仕事ばかりで根無し草のような生活で、結婚もしていなかったため、この人も父以外には家族のいない人。
互いに家族に見放された者同士、心地よかったのかもしれない。
私生活ではバタバタしていた私でも高校生活は大きな波乱はなかった。
中学時代は同じクラスでも全く接触のなかった、それこそクラスメイトでも挨拶すらも交わしたことのない彼と、徐々に接点が出来始めたのは、高校1年の夏頃だった。
最初は、彼が同級生の彼女に振られる場面を見たことだ。
顔のいい人でもフラれるんだなぁと漠然と思ったものだが、すぐに次の彼女がいた。
やっぱりイケメンは違うなぁと再び思ったものだ。
そんなことを3回ほど見てしまい、私の中では、顔面と頭脳の偏差値は高いけれど、軽薄でチャラい男という位置づけになっていた。
ただ、マイナス面を補うほどの顔と頭の偏差値を有していたので、モテる人は世界が違うなぁとちょっと苦手としていた。
何より、3回ともフラれていたから、顔が良くてもやっぱり中身も大切なんだなと思ったものだ。
そして、フラれる理由を知った。
4回目の修羅場に立ち会ってしまったときだ。
彼をめぐって女性たちが壮絶な言い合いをする修羅場を。
そこには、互いに女性が彼の彼女であることを主張し、互いの悪口を言い合っている二人の女の子と、その二人の女の子の友達の四人がいて、当事者たる彼はのんびりあくびをしたうえ
「おれ、どっちとも付き合ってないけど。一度でいいから寝てくれって言ったから、寝た。あ、安心していいよ。ちゃんと避妊はしたからね。」
話の脈絡はよくわからないが、修羅場だ。
これは絶対に修羅場だ。
修羅場以外の何物でもない。
なんで、私はこの場を見てしまったんだ。
というか、「本当に誰とでも簡単に寝るのか、お前は」と、思いっきり軽蔑した。
「性病にでもなってもげてしまえ」と毒づいた。
その毒づいたものが、言葉として漏れてしまって、五人の視線を一挙に受けた。
当然、私はその場から走って逃げた。
翌日、何か言われるのではないかとびくびくして登校した私に、ののしりあっていた二人の女子は、なぜかとても仲良く私のもとに訪れた。
何故か、その二人に気に入られてしまったのだ。
お願いだからそっとしておいてほしい。
まあ、大きな迷惑をかけられるわけでもなく、時々、恋愛相談を持ち込まれる程度だったし、ここは間借りなにも偏差値の高い学校だから、彼女たちも、そこそこ裕福でお勉強のできる人たち。
彼女たち曰く、ちょっと血迷ったと言っていたが、「あの言い合いは血迷ったレベルではない」と、また余計なことを毒づいてしまった。
私は、ちょっと無意識のうちに毒がもれるので、気を付けなければならない。
近づいてくる彼女たちは別として、それ以来、私は一方的だが彼を避けた。
だけど、その修羅場以降、彼は特定の彼女もつくらず、ヤリチンも卒業したらしい。
私にはどうでももいいことなのだが。
高校3年に上がった直後。
彼がある女生徒と一緒にいる事が増えた。
高校から入学してきた外部入学の2個下の女の子だった。
清楚な容姿に、愛らしい顔。それまでどこか軽薄だった彼が突然、変わった。
それがどうもうちの両親に見えて、正直、私は苦手だった。
ただ、その子は清楚で愛らしい印象とは真逆で、とても逞しいギャップのある人だった。
彼と付き合い上級生からいじめられても、はねのけ遣り返すだけの根性と豪胆さがあった。
返り討ちする清楚で愛らしい人なんて、私は初めて見た。
はっきり言って好きだ。
清楚で可憐で逞しいとか本当に好きだ。
偏差値も判定も落とさぬまま、なんとか志望している高校に行けそうだなと思っていた矢先の高校3年生の秋。
父が静かに逝った。
「危篤」だという連絡もないまま。
授業中に教師から呼ばれたので、なんとなくそうだろうなとは思っていた。
一旦、自宅に戻ってから伯母と静岡に駆け付けた。
両親の中では最後まで、私は家族ではなかったのだと思う。
受験の事やらで、私が最後に父と言葉を交わしたのは、2か月ほど前。
葬儀は父の仕事柄かなり華やかだったと思う。
伯母がいてくれたおかげで、負担はかなり違った。
葬儀には高校の同級生も来てくれたし、保護者の代表の人も来てくれた。
そして、今では何故か私の親友ポジションにいるあの二人も来てくれて、葬儀前から手伝いをしてくれた。
何より驚いたのは、彼女のうちの一人の家が寺だったことだ。
菩提樹だのなんだの全くかわらない私に代わって、彼女は父親に連絡を取り、様々な事をやってくれたのだ。
感謝してもし足りない。
お墓のことも、墓を建てるより、永代供養の方がいいとか、色々と。
ただ、北海道に弟を納骨している事を話すと、そこにも手配をしてくれた。
正直、とてもありがたかった。
母は葬儀のあと突然「安心した」とぽつりとつぶやいた。
何に対しての安心なのか、未だに私にはわからない。
父の近くに住んでいた母が戻ってきたので、叔母が家を出る話が出た矢先に母が死んだ。
父の葬儀を出して49日すらも終えてない頃だった。
高校は冬休みの時期だった。
受験生には追い込みの時期。
母の死は自殺だったこともあり、学校側には事情を説明したうえで、葬儀はしない旨を伝えた。
大学受験を控えている子もいるから、学校側も配慮して、母の死はひっそりとしたものだった。
この時も、あの二人は駆けつけてきてくれて、ずっとそばにいてくれた。
葬儀には遅れたがなぜか、彼も訪れた。
はっきり言って驚いたというレベルじゃない。
それを素直に伝えたら「はぁ、同級生だし。それも6年も一緒なんだから、幼馴染と呼んでいいレベルなんだけど」と言われた。
彼に同級生と認識されていたことに、正直、驚いた。
それをそのまま言葉にすると、心外だ、とばかりに彼は顔をしかめた。
そして、不思議と二人で小さく笑った。
笑った拍子に涙が出てきて、いつの間にか嗚咽に変わった。
その間、彼は何も言わずにたた、ずっと静かに私の背中をさすっていた。
しばらく泣いたのち、女にだらしない男は女の扱いがうまいと思ったら、今度はおかしくなって、また笑ったけど、今度は涙は出なかった。
「デトックスありがとう」と伝えたら、彼も笑った。
しばらく、互いにぽつりぽつりと会話した。
彼は大学受験を控えた時期に親を二人なくした私を心配してくれた。
なぜだが、本当に笑えた。
私には両親が医学部を卒業できるだけの資産は残してくれていることや、叔母が一緒に暮らしてくれるので、この後も成人までは保護者がいることを伝えると、見るからに安心するから「お前は私の親族か」って毒ついたら、「気になったんだよ」とぶっきらぼうに言われた。
スケコマシの考えることは今一つわからない。
互いに大学受験の話になった時、父が希望したので医学部を希望したが、実は医者には興味かないので、医学部ではなく別の学部に行くこと思っていることなどをとりとめなく話した。
別れ際に彼が「俺も同じ大学に行くから」とポツリと告げた。
「この6年、同じクラスだったけど、大学も同じだから」と。
そっか。
という感想しか出なかった。
それくらい、私の中では彼ポジションは「モブ」「空気」扱いだった。
なんどもいうが、素敵な響きなんだって、モブ。
相次いで両親を亡くしたことから、叔母はそのまま私と暮らしてくれることになった。
卒業式の日。
私は再び、彼の修羅場に遭遇してしまった。
人生5度目の修羅場だ。
男と付き合ったことはないこの私にひどい仕打ちだと思う。
だが、今回の修羅場はどこか違った。
あの清楚で可愛い彼女との別れ話だったが、切り出したのは清楚さんだ。
「たとえ離れても」といった彼に向って、
「それは無理だよ。人の心はかわるもの。私たちには遠距離恋愛は無理」と伝えていた。
大学生になる彼との恋愛は無理だと告げる彼女のなんとすがすがしい表情か。
彼はそれでも引き下がらずに「好きだ。これからも」と言っていたが、
「私は綺麗な青春時代の思い出としたい。私たちはまだ子供。これからもっと好きに人に会えると思う。それに、私と先輩の関係は秋に終わっていたと思うの。お互い好きなままでさよならをしましょう」などと男前の事を言って、彼を振っていた。
それ以上、彼は彼女には何も言わなかった。
ただ、一言「ありがとう」だった。
清楚さんは「こっちも楽しかったよ。ありがとう」と。
彼がさった後で泣いているのかなって…と思ったら、彼女は明るく手を振っていた。
「バイバイ」と。
なんと割り切りのいい清楚さんだ。
私はとても感動した。
私はその感動のまま、忘れ物をとりに教室に向かった。
で、いると思ったんだ。
この男は。
「何してるの」
「感傷に浸ってた。見てただろ、俺がフラれるの」
「5回目のね」
「なんでだろうな。いつもそういうところを見られていた気がする」
「彼女は特別だったの? 一年くらい続いたよね」
「まあ…」
「ふ~ん」
そこからお互いに机に座ってたわいもない話をした。
「昔、机に自分のイニシャルとか、彼女の名前とか書いた時代があったんだって」
「え、なにそれ」
「制服の第二ボタンとかも聞いた」
「花束とかも」
いまでも説明が出来ないけど、私から彼にキスをした。
執着系も束縛系も嫌いだから、彼みたいなやつは苦手なのに。
彼女との事を話す彼の顔があまりにも綺麗で。
ヤバい。
私は人様の物が羨ましいとか思っちゃう性質があるのか。
不倫だけはお断りだ。
これからの将来、そこだけは注意しないと。
なんて考えつつ、彼の唇から離れたら、驚いた顔をして私を見る彼の瞳があった。
その後、今度は彼からキスをされて、夢中でキスを返していて。
触れ合う合間に、彼が呟いた。
「明日…」
そこから先の会話を続けようとしたときに、見回りの教師が来て、二人、手をつないで慌てて校舎を出た。
そのままの勢いで、気が付いたら、ホテルだった。
ひたすら痛いだけの初体験だった。
多分、彼なりに優しくはしてくれたのだと思うけど、痛いだけで気持ちよさはかけらも感じなかった。
痛みを感じても途中から気持ちよくあえぐなんて、漫画だけの世界だ、コノヤローってくらい痛かった。
体に感じた痛みは雰囲気に流されたら人生を誤ると自分に言い聞かせるいい機会だった。
あらぬところの痛みで目が覚めて、最初に目に飛び込んだのは、自分の下着だった。
現実に還ったら、羞恥で死んだ。
先に部屋を出たのは私の方。
その後、彼とは一度も逢ってない。
向こうも連絡もしてこなかった。
体が初体験の痛みを忘れた頃、大学の入学準備が忙しくなった。
進学先は高校までとは別の私立を受験した。
ギリギリまで医学部進学も考えたけれど、自分には荷が重いと考え直した。
新学期を迎えた大学のキャンパスに彼の姿はなかった。
気にならなかったといえば嘘になる。
流れに流され、雰囲気に流された結果の脱処女だとして、やっぱり気になりはする。
けれど、学部に彼を発見できないまま、3か月が過ぎた頃、彼が渡米したことを知った。
米国の大学に入学するために。
わずかな胸の疼きとともに、私の青い時代は終わりを告げた。
と、かっこよく決めたところで、何もなく。
それなりに楽しい女子大生生活を送ることになった。
最終的に医学部には進学しなかった。
合格はしていたのだ。
私が頑張った結果として。
ただ、父なき今、医学部でやりたいことはない。
医者になりたいわけでもない。
かといって何かをしたいわけではなかったが、とりあえず、両親はもうなく、今後一人でも生きていくためには、安定した企業に就職しようと考えた。
安定第一の国家公務員も考えたが、なんとなく気乗りしなくて、最終的には旅行会社に就職した。
そして、私の就職を待っていたかのように、伯母が子宮がんを患い、がんの告知からわずか1年で逝ってしまった。
大学の卒業式の翌日に息を引き取った。
私は再び、一人になった。
新人研修を受けて最初は窓口業務についた。
そこから1年後に法人担当の営業に配属が変わった。
会社側からはツアコンや企画にも推薦されたが、なんとなく自分には向かないと考えた。
配属されたのは法人営業部の事務だが、なかなか忙しい部署で、大手企業の社内旅行やセミナー、旅行の手配などをうるざっくりとした営業部。
その中でも私は個人旅行や役員系の出張手配などを担当した。
一緒に組んでいる上司がなかなかなデキる男だったのが幸いし、その指導のおかげで今では、なんとか仕事ができるようになった。
で、である。
今日である。
いま、ここに彼がいたのだ。