去るもの
メアリの家の浴室、浴槽の大きなノライの蕾は薄暗い灯りの下、瑞々しく黄緑に輝いて見えた。それはそうだろう。大人の人間を一人、喰らったのだから。
アヤカはもう、メアリと口をきく気にはなれなかった。無言で浴室を出ようとした。
その時、腕を掴まれた。
「な、何ですか」
「まだいいじゃない」
メアリが流し目をアヤカに向ける。
「あの人を助けられなかった私は、ここにいる理由が無いわ」
アヤカはメアリを睨みつける。
メアリがうふふと笑う。
「あの人はね、自分の意思でノライに取り込まれたの」
「そうなるように誘導したんじゃないんですか」
「私は、ただ見つめただけ」
アヤカは、もう口を開く気にならなかった。
「ねえ、この子の事を知りたくないの」
メアリが、丸々と膨らんだ艶やかな蕾を撫でて言う。
確かにノライの成長については知りたい、聞きたいとアヤカは思った。
「この子はね、水分さえあれば元気に育つわ。それが例え、泥水でもアルコールでも血液でもね」
歌うように言いながら、メアリはアヤカを後ろから抱きしめる。そして耳元で囁いた。
「あなたはノライに何を与えたの」
「水だけよ」
アヤカがメアリの腕を振り払い睨んだ。
「嘘」
瞳に赤やオレンジ色を浮かびあがらせてメアリが言う。
「嘘、嘘、小動物か小鳥ぐらいは与えたんでしょう。まあ動物を与えるとこの子はより貪欲に攻撃的になるから、大人しい子に育てたいのなら水だけ与えておけばいいわ。そんなつまらない子なんて私はいらないけど」
もう、この人と会話をしたくない、とアヤカは思った。浴室を出て玄関に向かった。
「帰っちゃうの?」
メアリが名残惜しそうに聞く。
アヤカはもう返事をしなかった。そして、二度と来ることは無いであろうメアリの家を後にした。
「ただいま」
アヤカは、自分の部屋で静かに佇んでいる自分のノライに声をかけた。もちろん、ノライは何も言わない。だが、蕾がくたっと元気なさそうに見える。水槽の水がかなり減っていた。空きペットボトルに水を入れて、水槽に注いだ。
ゴクンゴクンと呑み込む音が聞こえそうなほど、ノライの逞しい根は水を吸い上げた。
「これはおかわりだね」
アヤカはもう一度水槽に水を注ぎ入れた。
ノライは充分に潤ったらしく、瑞々しいぷっくりとした蕾を微かに揺らしていた。
私のノライは、人間を喰らわなくても水だけでこんなに元気な姿を保っているわ、と思いながらアヤカは蕾を撫でた。
「私はね、あなたを優しい子に育てたいの。私の愛しいノライ」