沈むもの
季節は初夏の風情を見せ始め、歩道のツツジはマゼンタ色の花が満開になり、街路樹として植えられた桜の枝は爽やかな緑色の葉で覆われた。
ゴールデンウィークに突入して、アヤカから連絡が入った。
面倒くさくて私はメッセージを返えさなかった。すると、彼女は何度も何度もメッセージを送ってくる。それでも無視をすると電話がかかってきた。しばらく放っておいたが、あまりにもしつこいので仕方なく通話ボタンを押した。
「はい」
「忙しいの?」
アヤカは、私がなぜ彼女の連絡を無視するのかと責める事はしない。それをいいことに私は適当にあしらった。
「うん。手が離せない」
「すぐに帰るから、そっちに行ってもいい?」
「ごめん。今、出先なの。今度時間が取れたら会おうね」
と、言って私は一方的に通話を切った。アヤカは優しくていい娘だ。だが時にうざったく感じる。携帯電話の電源を切るとテーブルに置いた。そして、その向こうに私は笑顔を向ける。
アヤカはわさわさと新緑が揺れる桜並木の下で、アパートの一室を見つめていた。ため息を一つ吐くと自分の家へ帰った。
窓辺でノライを見ながらコットンのカーディガンを脱ぐ。チャポンと音がしたので、彼女が振り返ってガラス鉢を見た。もやしのようなノライの根に絡め取られていたのは5~6センチ程の青虫だった。
「嫌だ。桜の葉から落ちてくっ付いたのかしら」
アヤカは脱いだカーディガンに、他にも虫が付いていないか確認した。
青虫はあっという間にガラス鉢の水の中から姿を消した。夜、ノライの蕾に変化が起きた。微かに青臭い匂いを漂わせている。アヤカはその傍に立った。
黄緑色の萼片がこの間のように開き始めた。透明感のある白い花弁も開こうとしている。彼女が、その中を覗き込むと緑色をした人さし指大の何かが蠢いていた。
「気持ち悪い。昼間の青虫…よね」
この白い根に絡め取られると、やがて蕾の中に押し込まれるのだろうか。そして、こうやって姿を披露した後この青虫はどうなるのだろう。そもそも、てんとう虫も青虫も水の中に落ちて生きているわけではないはずだ。揺らいで見えるのは、ノライが動かしているのだろうか。
アヤカは疑問に思った。この蕾より大きなものが白い根に捉えられたらどうなるのだろう。想像ができない。
しばらくの間青虫を揺らした後、花弁と萼片はゆっくり閉じていった。
真夏の熱気はノライの鉢の水をお湯にしていく。
「茹だっちゃうわね、ノライ」
アヤカが話しかける。
彼女の心配をよそに、ノライは全体的に張りがあり元気そうだった。ただ、鉢の中で白い根が伸びて絡まり窮屈そうだ。
「もう少し大きな器に引っ越す?」
アヤカは答えるはずの無い蕾に問いかける。
そして、丸い金魚鉢からキューブ状のアクリル水槽に、ノライを入れ替えることにした。シンクで水槽に半分程水をいれ、窓辺に新しく置いた床から三十センチぐらいの高さの台に乗せた。厚手の園芸用手袋をはめて、蕾を両手でしっかり掴むとゆっくり持ち上げた。白い根はかなり太くなって、もやしと言うよりひょろりと細い大根みたいに大きくなった部分もあり、露店で買った時と比べると大分重くなっている。そして、新しい水槽にそっと根を沈めた。
「ノライ、少しは根が伸ばせたかしら」
アヤカは蕾を優しく撫でた。
翌日、カーテンを開けた途端、ゴンと何かが窓にぶつかった。サッシを開けて周りを見回し、それから地面に目を向けると、防犯用の砂利が敷かれたところにスズメが横になっていた。アヤカが急いでそこに行くと、残念だが既に生き絶えていた。彼女は両手で拾い上げ自分の部屋に連れていった。
「土に埋めないでごめんね」
と、言いながら彼女はスズメの亡骸をノライの水槽に入れた。白い根が優しくスズメを絡め取り、あっという間に姿が見えなくなった。すぐにはノライに変化は見られなかったが、心なしか蕾が大きくなったような気がした。
夜なって、やはり蕾は変化を見せた。大人の拳よりも遥かに大きくなり、紙風船ほどの大きさになっている。そして、黄緑色の萼片が開き、白く半透明な花弁も開き始めた。アヤカは静かに見守っている。
やがて、花弁の中にスズメが現れた。羽を閉じたまま体を不規則に揺らしている。瞼は閉じたままだった。
もう、アヤカは驚かなかった。ノライは、こういう植物なのだ、と理解した。
私は、とても幸せだ。そして充実している。私の目の前では、あの時の露天商──メアリが微笑んでいる。
あの御縁日に、もう少し一緒にいたいと言うアヤカを宥めて駅まで送った後、私はあの露天商のところに戻った。彼女は店じまいをしているところだった。
「あら、ごめんなさい。もう終わりです」
メアリが手を動かしながら謝った。
「いえ、あなたの育てているノライが見たくて、戻って来ちゃいました」
私は片づけを手伝うと言った。
「ごめんなさい」
彼女は七色の輝きを瞳に浮かび上がらせながら、また謝った。
「私のノライは家にあるの。さっきのお嬢さんが買ってくれたものより遥かに大きいので運べないの」
「それじゃ、片づけを手伝うから、あなたのノライを見せてください。あなたのお宅で」
「結構、強引ですね。そういうの私、嫌いじゃないわ」
メアリは匂い立つような色っぽい笑みを私に向けた。