浮かぶもの
それと出会ったのは露店だった。
桜のシーズンが終わると、私の住んでいる町では氏神様の御縁日があり境内には出店が並び、参道もなかなかの人出で賑わう。
私のような地元の住人にとってそこは、その土地を護ってくれる神様を祀った神社なので、近くに寄ったついでや散歩で通りかかった時などに、お参りするのが日常の習慣なのだ。が、最近、霊験新たかなパワースポットとしてメディアに取り上げられてからは遠方の人々も大勢やって来るようになり、御縁日には参道を車両通行止めにして道幅いっぱいに多くの人の往来がある。
私は人混みが苦手なので、今まで御縁日にお参りに行ったことは無かった。今回は学生時代の友人が泊まりに来ていたので、せっかくだから行ってみようということになった。
彼女の名前はアヤカ。高校の時からの友人だ。学生時代から落ち着きがあって心根の優しい娘だ。そして甘えん坊なのも当時のままだ。
「凄い人出だね」
想像以上の人混みに、アヤカが目をパチパチさせる。
「本当だね。普段はのんびりとお参りができるんだけどな」
近所に住んでいる私も、ここまで人が集まるのかと驚いた。
人波に押されるように、私たちは境内に入るとお参りにをして、屋台をいろいろ回った。ソースの焼ける香ばしい匂い、綿菓子の甘い香り、輪投げや金魚すくいに群がる子どもたちの歓声。普段は配信やモバイルのゲームばかりやっている彼らが、今日は昔ながらの無邪気な子どもらしい姿を見せている。
いつもはがらんとして鳥のさえずりしか聞こえない凜とした境内が、今は人々のざわめきと活気で知らない場所にいるみたいだった。
「人熱れで蒸し蒸しするかと思ったけど北寄りの風のせいか結構寒いね」
私が言うと、アヤカは腕を組んで体をぐっと寄せてきた。
「ぴったりくっ付くと暖かいよ」
「確かに。人と人がくっ付くと暖かいんだね」
私は強く腕を絡ませるアヤカに微笑みかけた。
込み入った境内を出て参道を歩き大通りと交わるところに出ると、ぽつんと露店が一つ、歩道の縁で売り物を並べていた。それを見てアヤカが突然足を止めたので、腕を組んでいた私は彼女に引っ張られるように止まった。
「どうした?」
私はアヤカを見た。彼女は道端に陳列された小振りな観葉植物の鉢の中に、一つだけ毛色の違う物──金魚鉢のようなガラスの器に満たされた水に見たことのない植物が浮いているのを凝視していた。
それは白いもやしのような根を水の中で思う存分伸ばしていて、水面上には大人の拳大の蕾が浮いていた。葉は見当たらず、蕾の下からすぐ根を伸ばしているように見えた。
「気になります?」
露天商が声をかけてきた。
年齢の読めない、かなり顔立ちの整った女の人だった。外国人もしくはハーフなのかも知れない。綺麗な瞳だなと思った。光の加減だろうか、顔を少し動かす度に淡いグレーに緑や赤や黄色が浮かんでは消える不思議な虹彩に私は釘付けになった。
「気になります?」
アヤカに向かって同じ言葉をかけてきた。
アヤカはこくんと頷いた。
「育て方が難しかったりしません?」
彼女に代わって私が聞いた。
「難しくないです。凄く水を吸い上げるから、水槽の水が減ったら水道水を足してあげて。水槽の水交換はしなくてもいいから。上から水を足してください」
「置き場所はどこがいいですか」
「家の外でも中でも大丈夫。ただ根っこには触らないで」
「なぜ?」
「ぱっと見は分からないけど、細かい刺が生えてるの。結構痛いから、根は触らない方がいいわ」
「植え替えはどうするんです?」
「花と言うか蕾を持ち上げて、大きい器に移して水道水で満たせばいいの。根っこさえ触らなければ大丈夫だから育て方は簡単でしょ」
私と美人な露天商が話をしている間、アヤカは一度も口を開かず、ただただその水栽培の植物を見続けていた。
「これ、いくらですか」
アヤカが聞くと、
「あなたの言い値で構わないわ。現金オンリーだけど」
と、露天商の色っぽい口が告げた。
「今お財布には三千円しか入ってないの。最近支の払いはほとんどモバイルで済ませているので、現金はこれしか無いんです」
「じゃあ、三千円でお譲りするわ」
アヤカは財布の中の全財産を支払い、水栽培の鉢を入れたビニールの手提げを受け取った。
「この植物の名前はなんて言うんです?」
私が聞くと、瞳の中の色をキラキラと変えながら露天商は言った。
「なんか、ややこしい名前なんだけど、イクヒトノライって名前なんです。これを譲り受けた時に生産者から教えてもらったんですけど」
「イクヒトノライ?耳馴染みの無い名前ね」
「ええ。私はノライって呼んでいるわ」
「これ以外にも、あるんですか?」
「残念ながら、二つしか仕入れられなくて、一つはあなたの隣のこちらのお嬢さん、もう一つは私が育てているわ」
露天商と私の話に割り込むようにアヤカが言った。
「結構希少価値のある植物なんですね。本当に三千円で譲ってもらっていいの?」
「ええ。ただ、この子はなかなか花を咲かさないの。でも丈夫な植物だから根気よく育ててね。あと、くれぐれも根っこに触らないでね」
露天商は手を振り、私たちはその場所を離れた。
アヤカは片手にノライの袋。もう片手を私の腕に絡めて、大通りを歩いた。さっきより絡める力が強く、彼女の体が私にくっ付き過ぎて少し歩きづらかった。
「ねえ、もう一泊してもいい?」
アヤカが聞く。
「ごめん。夕方、人と会う約束をしてるの。駅まで送るよ」
私が言うと、彼女は「そうか」と小さく頷いた。
そして、改札で手を振り私たちは別れた。
自分の家に戻ったアヤカは、手にしていた袋から水栽培の鉢を出して窓辺の小さなテーブルの上に置いた。
コロンとしたフォルムの鉢に陽の光が当たって水晶玉のように輝いている。
「なんか綺麗ね」
アヤカが見とれていると、てんとう虫がどこかから飛んで来て蕾に止まった。と、思っていたら着地に失敗したのか、つるりと蕾から水に落ちてしまった。つぎの瞬間、もやしのような白い根にてんとう虫は引っかかり、いや引っかけられてその姿が見えなくなった。彼女はそれを見て、なんか気持ちがモヤモヤした。
その夜、蕾が少し開いているのに気がついた。昼間は見られなかった蕾の中をアヤカがじっくりと覗き込むように見る。
「ん?」
中身を包んでいた黄緑色の萼片が開いて白い花弁が見えている。その中心に小さな赤い玉のようなものが確認できる。
「えっ」
赤い玉が動いている。目を凝らしてもう一度見てみる。昼間、鉢の水に落ちたてんとう虫に見える。もし、昼間のてんとう虫だったら、水中からどうやって花の中心に辿り着いたのだろうか。相変わらずそれは小さくその場で足踏みでもしているように動いて見える。ただ、飛ぶことはしない。
やがて、花弁と学生がゆっくり閉じて、買った時と同じ姿に戻った。てんとう虫は逃げなかったので、そのまま蕾の中に閉じ込められてしまった。アヤカの心はまたモヤモヤした。
「食虫植物なのかしら」
彼女は思わず呟く。
その後、ノライに大きな変化は見られず、ガラス鉢の水が減る度に水を注入し満たす事は忘れなかった。不思議なのは、鉢の中に留まった水が濁らず嫌な臭いも発せず窓辺の小さなテーブルの上で静かに生きている。