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川崎という男

作者: 浅野純平

★川崎という男


チャプター1


スマートフォンが机の上で微かに震えた。二年間、沈黙を保っていた番号だ。画面に浮かんだ「川崎」の名前を見た瞬間、忘れかけていた記憶がゆっくりと甦る。


なぜこの番号を消さずにいたのか、思い出せない。ただ、一つだけ確かなことがある。それは、迷いだ。


封じたはずの過去が、たった一本の電話で目を覚ます。そして、気づけば僕の指は通話ボタンを押していた。まるで、それが決まっていたことのように。


電話がつながると、ぼんやりと過去の景色が浮かび上がる。夜の街のきらめき、クラブの重低音、湿った朝の空気。忘れたはずの世界が、再び目の前に広がる。だが、聞こえてきた声は、あの早口ではなかった。冷たく、沈んでいる。


「残暑見舞いです」と、川崎は言った。


どこか遠くから響くような、乾いた声。その言葉が、ゆっくりと心に染み込んでいく。長い間忘れていた、あの奇妙な感覚が、胸の奥底で静かに蘇る。



チャプター2


その夜、僕はベッドに横たわり、天井を見つめていた。呼吸をするたび、部屋の空気がじんわりと重くのしかかる。時が淀み、ゆっくりと沈んでいくような感覚があった。


過去の僕と今の僕が、見えない糸で繋がり、ゆっくりと絡まり合うのがわかる。

たった二年前、僕は別の世界にいた。夜ごと現実から逃げるように薬物に溺れ、白い粉が意識を支配していた。


今は何とか平穏を取り戻しつつある。それでも、過去の影は執拗に僕を追ってくる。スタンドの薄明かりが壁に揺れ、影がそこに滲んでいた。まるで、過去の亡霊が静かに潜んでいるかのように。


僕は、あの頃感じた奇妙な感覚が再び心の奥底でざわめくのを感じた。僕はいったいどこに行こうとしているのだろう。そんな問いが心の中で静かに渦巻いている。


翌朝、いつもより少し早く目が覚めた。足は自然と外へ向かい、かつての道を辿っていた。変わらない街並みが、変わった僕を迎える。心臓がわずかに早く鼓動し、過去がそっと手を伸ばすような感覚を覚えた。


昼過ぎ、川崎の顔がふいに浮かんだ。「今月末に番号が変わる」彼の言葉が頭の中で引っかかり、胸の奥に漠然とした不安が広がっていった。


カフェに入り、窓際の席に座った。外を眺めると、通りを行き交う人々が次々と僕の視界を横切っていく。彼らはそれぞれの目的に向かい、無言で自分の人生を進んでいるようだった。だが僕は、まるで遠くからその光景を眺めているだけのような感覚に囚われていた。


生活は安定しているし、友人もいる。それなのに、どうして心がこんなに空虚なんだろう。自分でもその理由が分からなかった。


薬物に手を出す理由はもうどこにもないはずだ。過去は遠ざけ、狂った連中とも縁を切った。リスクが大きすぎるし、今の僕には失うものが多すぎる。にもかかわらず、心の奥底にまだ小さな疼きが残っている。


毎日が同じように繰り返され、僕はその単調さから目を逸らしているのかもしれない。


けれど、ふとした瞬間、風が吹き抜けるような感覚がある。そのたび、胸の奥底に小さな疼きが生まれる。それは静かに波紋となり、心の深いところを揺らし始める。まるで、忘れたはずの何かが手招きしているかのように。



チャプター3


川崎から新しい電話番号の通知が届いた瞬間、胸の奥がざわめいた。画面に浮かぶ数字の羅列が、過去の影をゆっくりと引きずり出す。遠くで波の音が微かに響くような錯覚。指先が冷たくなり、無意識に握りしめたスマホが汗でじっとりと濡れる。だが、気づけば指が勝手に番号を押していた。


呼び出し音のあと、聞き覚えのある声が電話の向こうから響く。


「横浜駅に着いたら、もう一度連絡してください」


妙に明るい声だった。違和感を覚える。だが、それを掘り下げる間もなく、心臓が不規則に高鳴り始めた。電車に揺られながら、窓の外の景色を眺める。無機質な工業地帯の風景。二年前と変わらないはずなのに、今日は異様に重くのしかかる。


横浜駅に着くと、人々の波が行き交う中で足が止まった。手のひらがじっとりと汗ばんでいる。再び電話をかける。


「タクシーに乗って妙蓮寺まで来てください。防犯カメラはないから、心配しなくていいですよ」


その一言に、胸の奥で何かがざわめいた。


妙蓮院に着くと、彼はすぐに姿を現した。相変わらず、ネズミのような男だ。闇に溶け込むような風貌のせいか、疲労の影が一層濃く見える。無言のまま封筒を交換すると、「帰り道に気をつけて」とだけつぶやき、彼は背を向けた。そのまま夜の中へ消えていく。


タクシーを捕まえようとするが、一向に車は来ない。焦りがじわじわと膨れ上がり、胸の奥がざわつく。やっと駅に着いたとき、雑踏の中でふいに警官の声が降ってきた。


「すみません、どちらへ行かれるんですか? よかったらバッグを見せてもらえますか?」


瞬間、全身が凍りついた。


バッグの中には触れてはいけないもの――覚醒剤。


避けられない現実が、じわじわと迫ってくる。


なぜこんなことになったのか。理由はわからない。ただ、どこかで何かが狂い始めた。それだけは確かだった。


次に気づいたとき、僕は薄暗い取り調べ室にいた。壁の時計の針がゆっくりと音を刻む。刑事が机の上に小さな袋と注射器を置く。


「これは君のものか?」


喉がカラカラに乾いている。


「……そうです、僕のです。」



チャプター4


蛍光灯の冷たい光がゆっくりと揺れ、取り調べ室の壁に奇妙な影を落としていた。時間は水の中で揺らぐ音のように、不確かに流れていく。僕はただ、それを見ていた。


内側から何かがじわじわと侵食してくる。だが、それが何なのかはわからない。机の上の景色はぼやけ、思考は霧のように散らばっていく。世界が宙に浮かぶ。息が詰まり、喉が締めつけられ、心臓が不規則に跳ねる。破壊は、もう始まっている。


刑事の声が遠くで響いた。水の底で反響するような、くぐもった声。輪郭が滲んでいく。世界が静かに崩れ、音も色もすべてが沈黙に溶けていく。


目を開けたとき、僕は自分のベッドにいた。


「夢だったのか?」


声に出してみるが、返事はない。


薄暗い部屋。静寂が波紋のように広がり、ゆっくりと僕の内側へ浸透してくる。冷蔵庫のサーモスタットが低く唸っている。その微かな音だけが、この世界に僕をつなぎとめていた。でも、それすらも夢の残響かもしれない。


唯一、確かなのは、汗に濡れたシャツが肌に張りつく感触だけ。


それでも、特に失望はなかった。ただ、心の奥に小さな違和感が残っている。それが何なのかはわからない。無意識にベッドを抜け出し、シャワーを浴びる。冷たい水が肌を叩くたび、ぼやけていた世界がゆっくりと輪郭を取り戻していく。だが、それが「現実」だという確信は、まだ持てなかった。


僕は今、この狭い部屋にいる。それだけが、僕にとっての現実のすべてだ。外の世界は遠く霞んでいる。まるで手の届かない別の次元にあるかのように。


時計の針が静かに時を刻む音だけが、僕の孤独と共鳴していた。


川崎からの電話は、まだ鳴らない。


僕の中で何かが宙ぶらりんのまま揺れている。覚醒剤に手を伸ばすのか、それとも踏みとどまるのか。決断ができない。昔の僕なら、すぐに答えを見つけていただろう。もしかしたら、まだ未練があるのかもしれない。


一本の電話。それだけで、こんなにも心が揺れる。僕はいつから、こんなに脆くなったのか。


もし彼から連絡が来たら、僕はどうするのだろう。


答えはまだ出ていない。自分がどこへ向かうのかもはっきりしない。ただ、誰かが僕の選択を気にしているような気がする。それが今の僕にとって、唯一確かなことなのかもしれない。


でも、その「誰か」が本当にいるのか、何を考えているのかは、まだわからない。


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