プロローグ
「おつかれさまです、秀次くん。お茶を煎れましたので、よかったらどうぞ」
仕事を片付けた俺――山吹秀次がリビングダイニングのダイニングテーブルについたところ、フランス人ハーフの母から受け継いだらしい、ゴールデンブロンドのロングヘアと、サファイアのごとき碧眼を持つ、モデル体型の美少女クラスメイト――月見里蓮華がマグカップを差し出してきた。
マグカップには黄金色の液体が注がれており、心が穏やかになるような香りを漂わせている。
「リラックス効果があるジャスミンティーです。お仕事で神経が張り詰めているかと思いまして」
「ああ。悪いな」
蓮華からマグカップを受け取り、口を付ける。ジャスミンティーをすすると、優しい温もりとホッとする香りが、体に染みこんでいくような感覚を味わった。自分で思う以上に俺は疲れていたらしい。
ふぅ、と息をつくと、俺を労るように蓮華が微笑んだ。
「いつも大変ですね。秀次くんはまだ高校二年生だというのに、大人がする仕事を任されているのですから」
「俺が望んだことだ。文句なんてない」
マグカップから唇を離し、俺は続ける。
「俺は山吹グループを継ぐんだ。いまから仕事を振ってもらえるのは、かえってありがたいくらいだよ」
俺は、日本を代表する企業グループ『山吹グループ』の後継ぎだ。会長である父さんは、後を継ぐならいまのうちから仕事に慣れておいたほうがいいと、山吹グループの仕事の一部を俺に回してくれている。
グループの会長の座を継ぐと決めたのは俺だ。自分で選んだ道なのだから、音を上げてなどいられない。
「むしろ」と、俺は蓮華のほうを見やる。
「大変というならきみのほうじゃないか?」
「わたしが、ですか?」
「ああ」
コテン、と首を傾げる蓮華に、俺はリビングダイニングにあるソファを指し示した。そこには、キレイにたたまれた洗濯物が積まれている。アイロンがけをしてくれたらしく、衣類にはシワひとつない。
「きみは日々、家事のすべてをひとりでこなしているんだ。俺よりもきみのほうが苦労しているんじゃないか?」
「気にかけていただいてありがとうございます。ですが、わたしは全然平気ですよ?」
蓮華がニコリと笑った。
「なにしろ、わたしは秀次くんの妻なのですから」
「仮の、な。まだ婚約しただけだ」
俺はジト目で付け足す。
俺と蓮華は婚約している。ふたりともが一八歳になれば、正式に夫婦になる予定だ。蓮華が家事を厭わないのはそのためらしいが、それでも俺は納得できない。
なぜならば――
「たしかに婚約しているけど、あくまでも政略結婚じゃないか」
そう。俺と蓮華が婚約したのは恋愛感情があったからではない。それぞれの親の決定に従ったからだ。
山吹グループと同じく、世界的に名の知れた企業グループ『月見里グループ』。蓮華は、その会長の孫にあたる。
山吹グループと月見里グループは、数年以内に合併する予定になっている。俺と蓮華の婚約は、その合併を円滑に進めるために行われたものなのだ。
俺たちの関係は、一般的な夫婦のそれとは根本的に違う。互いに好き合った結果ではないし、望んで婚約したわけでもない。同棲こそしているが、俺に尽くす義理など蓮華にはないだろう。
だというのに、蓮華の笑みは崩れなかった。
「秀次くんに尽くしたいからわたしは家事をしているんです。政略結婚であろうと関係ありませんよ」
「酔狂だな、きみは。俺みたいにひねくれたやつに尽くして楽しいか?」
「秀次くんがひねくれていることは否定しません」
「オブラートって知ってる?」
「けれど、心根は優しいじゃないですか。わたしは無理して尽くしているわけではありません。ちゃんと楽しんでいますよ」
そう言い切った蓮華の瞳は澄んでいて、彼女の言葉が心からのものであることを、一片の嘘も混じっていないことを示している。
こっぱずかしい発言を平然と……!
自分の頬が熱を帯びるのを感じて、俺は顔を背けた。
「勝手に勘違いしてろ」
「では、そうしましょう」
俺の照れ隠しなどお見通しとばかりに、蓮華がクスクスと笑みをこぼした。内心を見透かされた気分になり、ますます頬が熱くなる。
居心地の悪さを感じながらジャスミンティーをすすっていると、不意に蓮華が立ち上がり、壁際にあるキャビネットの上に置かれた、トートバッグを手にした。
「出かけるのか?」
「はい。晩ご飯の買い出しに向かおうかと」
「それなら俺もついていこう」
俺はジャスミンティーを飲み干して席を立った。そんな俺の言動に対し、蓮華が申し訳なさそうに眉を下げる。
「そんな……悪いですよ。秀次くんはお仕事で疲れているんですから、わたしひとりで行ってきます」
「ダメだ」
遠慮する蓮華に、俺は首を横に振ってみせた。
「もうすぐ日が暮れる。帰る頃には暗くなっているだろう。きみをひとりで歩かせるのは危険だ」
「ほぇ?」
蓮華がポカンとして、間の抜けた声を漏らした。
照れくささに視線を逸らしながら、俺はぶっきらぼうに告げる。
「女性を夜道でひとり歩きさせるわけにはいかないだろ。そのくらいの良識は俺にだってある」
蓮華が目をパチクリとさせて――処女雪のように白い頬をリンゴ色に染めた。
「……ほら、言ったとおりじゃないですか」
「なにがだ?」
拗ねたように唇を尖らせて、蓮華がどこか悔しそうに言う。
「やっぱり優しいじゃないですか、秀次くん」
「……言ってろ」
赤くなっているだろう顔を隠すため、俺はふいとそっぽを向いた。
これは、政略結婚した俺と蓮華が、本物の夫婦になるまでの物語だ。