54.魔法使い
魔法と思われていたことが魔法でなくなる日が、いずれやって来る。空を飛ぶとか、馬よりも速く走るとか、遠くにいる人に映像と音声を届けるとか、魔法でも使わない限り不可能と思われていたことが、現代では簡単に実現できるようになった。新聞の写真に写っている人が喋り出すのもちょっと前までは魔法と思われていたが、記事に紐づけられた動画がモニタで頻繁に再生されるようになってからは、そんなに不思議なことには思えなくなった。それからしばらくして生成AIが登場して、簡単な指示を与えるだけで、プログラムや画像が生成されるようになった。出来上がったプログラムをコンパイルして実行可能ファイルを作る。出来上がった画像を3Dに拡張して仮想世界に物体を作り出す。そうした世界では、プロンプトという呪文を唱えると何でも出来てしまう。宙に浮かんだ蝋燭が部屋を照らしてくれるし、豪華な食事がいくらでも出て来る。壮大な城の中で優雅な日々を過ごすことも出来る。そんな仮想世界にある日、本物の魔法使いが迷い込んだ。
「おい、謝れ」
初めて訪れた街の景色を物珍しく思いながら魔法使いは市場を歩いていた。注意力が散漫だったためか、前方から来た若い男とすれ違いざまに腕が接触した。男は肩を怒らせ、魔法使いを睨んでいた。魔法使いはその威圧するような目つきが気に入らなかった。ちょっと腕が振れただけだった。少し懲らしめてやろうと思って魔法使いは呪文を唱えた。吹き飛ばされた若い男は起き上がりながら何やら呟いていた。すると眩い光線が魔法使いの肩をかすめ、後ろにあったレンガを破壊した。それからどうなったかはよく覚えていない。分別を失くしてあちこち壊してしまったかもしれない。気が付けば取り調べを受けていた。
「あなたも随分と派手にやっちゃいましたね。やめてくださいよ。中学生じゃないんだし」
取り調べの警官は随分と優しい物腰だった。
「仮想世界ですからね。別に何か壊れた訳ではないですからね。アバターを傷つけても、すぐに元通りになりますからね」
そうか。手ひどくやってしまったと思っていたが、そうではなかったのか? この世界で魔法を使って何かを破壊したからといって、罪に問われることはないのだろう。本当に破壊したことにはならないようだから。
「もう少し大人の対応でお願いしますよ。ここはみんなが相応に楽しめる場所なんですから」
そう言われて彼は解放された。この街では彼は特別な存在ではなかった。自分だけが魔法を使える訳ではなかった。その場で彼は呪文を唱えて、水を生成してみた。水は玉のように丸くなって空中をしばらく静止していたが、やがて地面に落ち飛沫が辺りに広がった。
「これは魔法じゃないのか? 私はもう魔法使いではないのか?」
魔法と思われていたことが魔法でなくなる日が、いずれやって来る。魔法使いだけがそのことを知らない。