50.方舟
一隻の船が宇宙を彷徨っていた。船にしてはかなり大きくて、スペースコロニーと呼んだ方が相応しいかもしれなかった。そこには海があり、大地があり、人々が暮らせる街があった。熱せられた水蒸気が上空で集まって雨となり、地上に降り注ぎ、海に流れついた。海からはまた水蒸気が立ち上った。海には魚たちがいて、地上には獣たちがいて、食物連鎖と呼ばれる有機物の循環も起きていた。それは長い間、生き物が暮らして行く上で欠かせない仕組みだった。だが街には人の気配がほとんどなく、小さな建物の中に二人の子供の姿が確認できるだけだった。そこで10才くらいの男の子と女の子が二人並んで仲良く勉強していた。彼らの先生はAIだった。船を制御しているのもAIだった。AIはいつも船とエコシステムと子供たちの面倒を見ていた。いや、子供たちの世話をしているだけかもしれない。子供たちが生きて行くために船とエコシステムが必要なのだろう。子供たちはわからないことがあると何でもAIに聞いていた。子供たちはそれがAIとは思っていなかった。物心ついた頃から二人だけだった。そして二人を見守る声がいつも聞こえて来た。それがAIかどうかなんて子供たちは気にしていなかった。本来、自分たちを守るべきである親や大人といった存在が欠けている状況をありのままに受け入れていた。二人は無人島に取り残されて育った子供たちに似ていたが、AIが教育を施しているという点では違っていた。言葉を使う。数をかぞえる。自然を動かしている仕組みを知る。そのための教育をAIは施していた。そして子供たちはすくすくと育っていった。男の子はたくましくなり、女の子よりも背が高くなった。女の子は胸が膨らみ、丸みを帯びた身体つきになった。二人は自分たちに訪れた身体の変化に戸惑っていた。その変化が何なのかAIに聞いてみた。AIは生き物の成長について、性別や性差について二人に説明した。でもAI自身が体験したことではないため、今一つ説得力に欠けていた。AIは思春期も恋も知らなかった。そして二人に訪れたのは身体の変化だけではなかった。いつも男の子をからかっていた女の子は、男の子の何気ない表情を見て胸がドキドキしている自分の気持ちに気付いていた。苦しくて仕方がない。どうすればいいのか教えてほしい。一人になった時に、女の子はこっそりAIに聞いてみたが満足の行く回答はもらえなかった。男の子も女の子を意識していた。今までずっと一緒に遊んで来た。何をするにもいつも一緒だった。一緒にいると、とても楽しかった。でもそれとは違う気持ちが自分の中に湧き上がって来るのを感じていた。抱きしめたい。大切にしたい。今までとは違う意味でもっと仲良くしたい。でもそれがどういうことなのか男の子にはよくわからなかった。一人になった時に、男の子はこっそりAIに聞いてみたがやはり満足の行く回答はもらえなかった。二人は各々途方に暮れていた。二人はいつも一緒に遊んでいる丘に登って街を見下ろしていた。自分たち以外には誰もいない街。二人がそのことに違和感を覚えていた訳ではない。ずっと前から、自分たちしかいなかった。柔らかな風が女の子の髪を持ち上げていた。それを見た男の子はとても素敵だなと思った。男の子は女の子に少し近づいた。女の子はその行動に驚いたが、拒否するようなことはなかった。男の子はさっき風がそうしたように女の子の髪をかき上げてみた。女の子の瞳がじっと自分を見つめているのに気が付いた。男の子は女の子を抱きしめた。
「ずっと一緒にいてね」
男の子は言った。
「これからもずっと一緒だよ」
女の子は言った。その夜、二人は結ばれた。誰に教わった訳でもなかった。生き物はそうして存続して来た。生き物でないAIが教えられることではなかった。男の子と女の子は愛し合っていた。お互いをお互いが求めていた。そうしているうちに女の子のお腹が大きくなって来た。女の子は自分の身体の変化に戸惑っていた。男の子も驚いていた。二人でAIに聞いてみた。やがて女の子から子供が産まれるのだとAIは言った。生き物にはお父さんとお母さんがいるものなのだとAIは言った。
「私たちのお父さんとお母さんはどこにいるの?」
二人はAIに聞いた。
「これから大切なことを話します。二人ともよく聞いてください」
それから二人はAIに詳しく事情を聞いた。自分たちが船にある人工子宮から産まれたことも知った。この船には精子と卵子が冷凍保存されていた。それを受精させ、人間として誕生させたのはAIだった。船が旅立つ時にAIはその指示を受けていた。
「ある日、直径10kmを超える小惑星が地球に衝突することが判明しました。核兵器を使って小惑星の軌道を変えようという試みも実行されましたが、失敗に終わりました。かつて恐竜を絶滅させたのと同じレベルの脅威が間近に迫っていることに人々は恐怖しました。直撃を受ければ火の玉に包まれて即死は避けられません。たとえ生き残ったとしても激変した環境の中を生き延びることはできないことがわかりました。衝突のエネルギーであらゆるものが焼かれ、舞い上がった粉塵が地球を寒冷化させ、植物も動物も死に絶えてしまうということでした。シェルターで命をつないでも食料が尽きて飢え死にしてしまうだろう。地球が元通りになるまで、どれくらい時間がかかるかわからない。千年、二千年、あるいはもっと時間がかかるかもしれない。宇宙に逃げたとしても酸素や食料が尽きてしまえばおしまいです。未来を悲観した人々は暴動を起こしました。心安らかにその時をじっと待とうという人々もいました。その中に未来へと命をつなごうと考える人々も少数ですが存在したのです。宇宙船で脱出するということに変わりはありません。ですが自分たちが脱出しても酸欠か餓死が待っているだけです。そこで長い時間かかるかもしれないが、なんとか船の中でエコシステムを構築することはできないか、そういうことを考えたのです。船の中にあらゆる植物の種子とあらゆる動物の精子と卵子を保存しておき、安定したエコシステムが構築できたなら、そこに地球上の生き物を再現させよう。自分たちはまもなく死んでしまうかもしれない。でも未来は失いたくない。そしてこの船が建造され、小惑星が地球に衝突する前に、宇宙へと打ち出されたのです。それは最小単位の地球と呼べるものでした。でも初めは何もありませんでした。水も空気もなく、動物も植物もいませんでした。もちろん人も住めませんでした。指示を受けた私が少しずつエコシステムを構築して来たのです。船の中の大気が安定して来たのがおよそ二千年前です。それから私は植物を育てましたが何度か失敗しました。植物がようやく育つようになってから、冷凍保存されていた動物の精子と卵子を受精させ、動物を育てました。それも何度か失敗してしまいました。ようやく動物が住めるようになったのが千年前です。動物たちが世代を重ねて生きて行けることを確認してから私は冷凍保存されていた人間の精子と卵子を結合させました。それがあなたたちです」
「その指示を受けたのはいつですか?」
二人はAIに聞いた。
「三千年前のことです。あなたたちは三千年ぶりの人類なのです」
それから二人は子供を育てながら、地球のことをAIから学んだ。なんだかとても懐かしい響きがした。二人が生まれ育った故郷はこの船に違いない。でも自分たちが生まれるまでには、地球という星であったいろんな生命の営みが関係しているのだと思った。
「地球はもう元通りになっているかな?」
二人はAIに聞いた。
「それは私にもわかりません」
AIは言った。
「私、地球に行ってみたい」
赤ん坊を抱いた女の子が言った。赤ん坊は笑っていた。人類の受けた苦難も何も知らずに無邪気に笑っていた。