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AI百景  作者: 古数母守
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41.パスワード

 オンラインで研修を受ける日は、なるべく在宅勤務にしてくださいと課長からメールがあった。詳細な理由は知らないが、在宅勤務の利用状況が管理職を評価する基準の一つになっているらしい。今日は八時半から十七時までずっとセキュリティ技術講座を受けることになっているのでお達しの通り在宅勤務にした。通勤時間の分だけゆっくりできる。朝食を終え、コーヒーの入ったコップを机に置く。一口飲んでから、パソコンを起動する。しばらくするとログイン画面が表示される。半ば機械的にパスワードを入力してENTERキーを押す。

<パスワードが違います>

えっ?と思った。いつもならすんなりとデスクトップ画面に移行するのだが、どうしたことだろう? パスワードは簡単なものだと破られてしまうということで、英文字と数字と記号を組み合わせた十五文字以上のものにしなさいと言われている。人名を含むものも禁止されている。そんな他人が類推できないパスワードは必然的に自分でも覚えにくいものになるが、毎日入力していると自然と身体が覚えてしまうので、間違いはそうそう起きないはずだった。仕方なく私はスマートフォンを取り出してメモを開き、画面をスクロールする。そして忘れてしまった時のために書き留めて置いたパスワードを確認する。何か思い違いをしていないかと思ったが、そこにある文字はさっき入力したものと同じだった。もしかしたらタイプミスがあったのかもしれない。そう思った私は、入力した文字が見えるように表示を変更し、メモにある文字と見比べながら慎重に入力した。そしてもう一度ENTERキーを押した。

<パスワードが違います>

また、残念な表示が出てしまった。何を間違えてしまったのだろう? 大文字と小文字を間違えてしまったのだろうか? 今更そんなありがちな間違いをするものだろうか? パスワードの入力を三回間違えるとロックアウトされてしまう。そうすると情報システム部門に連絡してロックアウトを解除してもらうことになるが、それは在宅勤務では無理そうだった。とにかくあと一回間違えるとロックアウトになってしまう。そう思った私は出社することにした。


 地下鉄を降りて会社まで歩く。朝の通勤時間帯から外れているので、歩いている人は少ない。会社の敷地内に入り、入門ゲートに社員証をかざす。いつもなら軽快な電子音がしてゲートが開くのだが、ゲートは固く閉ざされたままだった。守衛が不信な目で私を見ていた。

「すみません。今日は在宅勤務にするつもりでしたが、パソコンの調子が悪いので出社することにしました。今、社員証をかざしたのですがゲートが反応しなくて・・・」

守衛にそう説明したが、なんだか自分が本当に不審人物であるような気がした。パソコンにログインできなくて、おまけに会社の入門ゲートをくぐれないでいる。どう考えても怪しいじゃないか? そんな気がした。

「ここに所属と氏名と内線を記入してください」

守衛から渡された用紙に私は記入した。守衛はそれを見て電話をかけていた。しばらくしてから戻って来た。

「あなた本当に前田一郎さんですか?」

守衛は私に言った。

「本当にって、どういう意味ですか?」

私は反射的に答えた。

「前田さんはすでに出社されているそうです」

「そんなバカな?」

守衛の言葉に私は耳を疑った。守衛は益々疑惑の目で私を見ていた。

「バカなって? バカなことを言っているのはあなたの方じゃないですか? いい加減にしてくださいよ。警察を呼びますよ」

警察と聞いて私はびっくりした。私が偽物なのか? 私がスパイか何かのように思われているのか? だが客観的に考えてみて、私がこの会社の社員であることを証明できるものは何もなかった。私が持っているのは、ログインできないパソコンと入門ゲートをくぐれない社員証だった。そして私を名乗る何者かがすでに出社しているということだった。そいつが偽物だと大きな声で言いたかったが、すでに職場にいるということは周りの人間が本物の私であることを認めているということに違いなかった。咄嗟にそう思った私は分が悪いと考えていったん引き下がることにした。警察沙汰になるのが嫌というのもあった。

「どうもすみませんでした」

私はそう言って、その場を立ち去った。


 喫茶店に入り、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけながら、これからどうすれば良いのか考えていた。今、会社に私の偽者がいるのなら、そいつと話をつけるしかないだろう。どうしてこんなことをしているのか、目的を聞き出さなければならない。相手が話してくれるとは限らないが、パスワードも社員証も、私がこの会社の社員であることを証明する手段がすべて通用しない現在の状況では、他にどうすることもできないような気がしていた。そして私は会社の正門で待ち伏せすることにした。向かい側の建物の影に隠れて、私は定刻になるのを待った。何時に出て来るのかはわからない。定刻前に退社することはないだろう。そう思っただけだった。そいつが出てきたのは、十九時を少し過ぎた頃だった。私にそっくりの姿をしていた。職場の同僚が私と思うのは不思議ではないと思った。

「ちょっとお話できませんか?」

門を出てきたそいつに向かって私は言った。相手はしげしげと私を見ていた。特に驚いた様子はなかった。

「もうそろそろ現れる頃だと思っていました」

そいつは言った。

「あなたは何者ですか? 何がしたいのですか?」

「私ですか? 私はあなたですよ。そしてあなたは私の偽者です」

「あなたが偽者じゃないですか?」

頭に来て私は言った。許せないと思った。

「あなたが本物である証拠はありますか?」

そいつは言った。本物である証拠って何だ? 私が本物に決まっているじゃないか。そう思った。

「あなたはパソコンにログインできないし、入門ゲートも通れないじゃないですか? そんなの偽者に決まっています」

そいつは言った。

「私は身分証明書を持っています。運転免許証とか」

私がそう言うと、そいつは自分の運転免許証を出して私に見せた。それは私の運転免許証と同じものだった。

「運転免許証まで偽造したのですか?」

私は言った。

「あなたが偽造したのでしょう?」

そいつは言った。そいつは私が私であることを証明するものをすべて持っているようだった。

そいつは私のいた場所を占領していた。認証が通らない分、ゲートを通れない分、私の方が不利だった。もしかしたら、本当に私が偽物かもしれなかった。


 それから何度か、私は私に戻ろうと試みてみたが、状況をひっくり返すことはできなかった。しばらくして戸籍も住所も奪われてしまったことに気付いた。私が私であることの一切はすべてあの男に奪われてしまっていた。そして私はこの社会に存在しない人間として生き続けている。あれからどれくらいの月日が流れたのかはよくわからない。そして今では、私は本当に前田一郎だったのだろうかと考えている。ずっとそういう名で呼ばれていたような気がする。でも別に前田一郎でなくても良かったのではないか? そんなことを考えるようになった。もしかしたら私の所属していたあの世界の方が本当は作り物だったかもしれない。何かを証明しなければならない世界、誰かに自分であることを証明してもらわなければならない世界、そんな世界が本当の世界であるはずがない。私が私であると言えば、それで十分なはずではないだろうか? ずっと長い間、名前を呼ばれることも含めて、私であることを証明していたのは私でない誰かであり、何かであった。今、ようやくそんな偽りの世界を逃れて、私は私だと言える世界にいる。それはとても素晴らしいことに思えた。


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