1
私と彼女との華麗なる関係はおよそ1週間を乗り越えた。炭酸飲料のCMのような爽やかな恋愛はおおよそ無かったが、それはそれで意地らしくて堪らないものであった。
「結花? もう、結花ったら。聞いてるの?」
「へっ?あっ、ごめんごめん。で、何の話だっけ」
「今週の土曜日に映画観に行こうって話。私達デートしたことないなって……」
「行こう! 私はどこまでもついて行くよ。たとえそれが山奥だろうと宇宙の果てだろうとね!」
「やった! まあ、私は映画館でいいんだけどね……」
チャイムが鳴ると同時に教室を飛び出した私達は、最寄駅までの道のりでの会話に花を咲かせていた。他愛もない、けれど、私達が関係を認識する為の必要な行為。傍から見れば、仲の良い学生かもしれない。でも、私達は大人になるための階段を共に上る、良きパートナーである。少なくとも私はそう思っているし、隣で赤面しながら顔を蕩けさせる彼女もきっとそう。
浮かれた調子で話している内、私達は駅に着いていた。ほんのりと新しさを残してはいるが、タイルの剥がれやツバメの巣が街との調和を感じさせる。普段通りの笑顔を送りながら駅の中に消えて行く彼女を見届け、私はバス停へ向かった。
薄汚れた緑色が表面の大半を占めているバスは、ロータリーに差し掛かると歩調を緩め、煙を吐き出すと、やがて客に乗るように催促した。鞄から定期券を取り出し、ステップに片足を掛けると共にイヤホンを装着した。最奥かつ窓際の席に腰掛け、駅から発つ鉄の箱を眺めていた。建物からその半身が見えた頃、私は顔を歪める事となった。
それは眩い閃光と耳を疑うような轟音に包まれ、その場に吹き荒れた暴風によって周囲の物は揺れた。周辺で待機していたバスも例外ではなく、私は窓に頭を打ち付けられると、隣の席へ倒れ込んだ。急いで通話画面を開いたが、彼女との連絡は取れなかった。普段通りなら、あの燃える列車の中に彼女がいることとなる。現場を横目にバスは動き出した。赤く燃え上がる電車の一部を紅く滴る血液が彩っていた。私は為す術もなくその場に蹲っていた。四方八方から聞こえる困惑の声や携帯電話の震え、鳴り響く着信音を、私の身体は一切聞き入れなかった。
「またか……」
「この間のK国での爆破と同様の手口ですかね」
「炎上部分だけ見るなら、そうなるな」
「まさか、あの事件の犯人がS国にも来てるっていうのか?」
数人の若者が発した言葉は周囲に飛び火し、会話の輪は、やがて車内中、興味の無い者以外のにも広がっていった。私もまた無関心な1人であったが、飛び交う推測に耳を傾けている内に止めてしまった。急激なストレスによるものなのか、はたまた疲労によるものなのか、聞き慣れたバス停の名前を搭載された機械が告げるまで、私は寝てしまっていた。
反射的に目を覚ました私が降車後、最初に見た景色は、灰がかった雲が満遍なく広がり覆う、薄暗い街並みだった。周囲の建物には目もくれず進み、やがて、田園の中央に敷かれた人気のない道に出た。慣れた身体は家への道を無意識に辿っていた。見栄えのしない山嶺、普段よりも凹凸の激しい道路。そして見慣れた玄関。
「あっ、鍵忘れた……」
試しに手を掛けると、ドアは私を歓迎するかのように、スゥと開いた。脱ぎ散らかされた靴からは妹の面影を感じる。その割にはやけに静かで、不意に家族の身を案じたが、リビングへ繋がるドアが開き、私の思考は停止した。
「ただいま」と言い終わる前に、一人の男性と目が合った。絵の具でも、食品でもない、独特な赤色に染まった包丁。コンパクトなサイズにも関わらず、その存在は私の中では次第に大きくなって、迫り来るソレにただ呆然とせざるを得なかった。胸元へ滑り込む刃を間一髪のところで身を逸らし、避けたが、後ろへ倒れ込んだところに更に振りかざされた。
再び目を開けると、長い間眠っていた気がし始めた。体を動かそうにも、頭に強い衝撃が与えられたのか、立つことさえ儘ならなかった。記憶の整理の過程で男性のことが脳裏を過ぎり、それなりに身構えたが、直ぐに無駄だと悟った。
包丁を彩った血とは比較にならない程、周囲は赤く染まっていた。依然、包丁は男性の手元にある。首元には親指大程の、それでいて丸くはない穴が空き、液体の奔流はダムを思わせるのに十分なくらいだった。眼球に黒い円形は無く、白い部分の強調が激しすぎる程、目を見開いていた。
やがて赤の侵食が収まると、彼女は手の中にある刃物に気づく。包丁やナイフとは似ても似つかない、西洋の剣に近いものであった。刃はギザギザとして、真っ直ぐにするどころか、整えようとする気配さえないような乱雑さを帯びていた。赤い素材で出来ているようだが、何かは分からなかった。彼女が見つめている内、やけに透き通ったその剣は、役目を終えたかのように液体となって、手から溢れ、溢れた。
制服に視線を遣ると、所々に染みをつくっていたことに気づく。スカートの紺藍の痕跡はすでに掠れていた。
リビングにある人の形をしたモノは既に声一つ発さない。悲哀の底深さを知らない彼女にとって、この事象を受け止める事は容易ではなかった。
「人を殺したのは人。その仇を取ったのも人。そんな人を罰するのも人……やっぱり、人は悪だ。殺生を行わせる方にも罪はあるんだよ……じゃあ……生きる意味って、あるのかな……」
彼女は呟きながら遺体を後にした。寝転がる男性には目もくれず、ただ、現実から逃げようと必死だった。外から差し込む微かな光に誘われ、紅い海をかき分け、進み、家を出る。
左右には畑、その奥には山々が連なっている。普段通り、長閑な景色が延々と続いていた。
母と妹を失ったこの世界は至って普通であった。彼女は憤りと失望を憶えた。
「これが、死……他者の認知がないと、『死』たり得ないってワケ……」
彼女は薄らと笑みを浮かべながら、祖父母が経営する神社へ向かった。それは、彼女なりに助けを求める行為だった。
道中、周囲は無論、遠目に見える国道にも通行の気配がない。不意に感じた孤独感から、改めて友人の死に気を引かれ、全ての景色は意識の外で処理されていった。
……それ故に、彼女は背後の気配に気づく事が出来なかった。薄気味悪く笑っている風な空を見上げた瞬間、左脇腹に引き裂くような激痛が走った。視線を遣ると、そこには突き出している鋭利な刃物が在った。触れようとするとそれは引っ込み、不意に目眩を感じた私の身体は崩れ落ちた。
ジリジリと焼けるアスファルトに垂れ落ちた涙は染みることなく、私を嘲笑うようにしてそこに留まっていた。意識を戻し振り返ると、視界には光を反射しながら迫り来る刃があった。最後に見た景色は、加害者の顔が写り込んだ凶器であった。紅く照らされた銀色は左目を貫き、足元を再び血で艶かしく飾り付けた。凶器を所持する者(ここでは通り魔と仮称しよう)は腕を下へ払って、その凶器に付着した血液を周囲に散らした。すると同時に、上半身を屈め右手の得物を素早く突き出した。私は気力のみで立ち上がり、よろめきながら後ずさることで回避した。同様の局面は数回繰り返されたが、万全な状態の通り魔には敵わず、最後には私が尻餅を着くことで事態は落ち着いた。
「あ、あなたは一体、誰なの? どうして……ッ!……こんなことをするの? 教えて。ねぇ、教えて……!」
「……あなたが知る必要はない」
「くっ……」
振り下ろされた刃物に対して私は為す術がなかったと、そう思っていた。実際、何が起こったのか分かっていなかった。ただ、致命傷を逃れようと腕を上げただけだった。
左目の在った箇所から流れている血液が、包丁の輪郭を描く様に集中し始めた。やがて、顔の前で形を成すと、銀色の刃を取り除いた。強い衝撃が相手の得物をアスファルトの上に横たわらせた頃、真紅の刃物が液体となって私の腕を伝っていた。肩より幾分か高い位置から肘まで伝って地に落ちた血液は、やはり私を嘲笑うようで、私の顔を苦痛に歪ませるのを愉しんでいるようでいて……私には、それらが本当に意思のあるもののように感ぜられた。
「能力の発現……!」
「えっ……」
「なれば、この凄惨たる作業も一段落か。しかし、これで私達の悲願にも一歩近づくというもの……だが、世界はこの娘に何を望むというのか……」
私だけが、互いが怯んでいることにいち早く気づいていた。立ち去ろうと、脚に力を入れた瞬間から記憶はない。急激に朦朧としいていく、霞のような意識が脳内を覆っていた。
「……瑞葉。冴娜だ……ああ、『覚醒者』を見つけた。本部へ行くんだが……ああ頼んだ。いつも助かる。じゃあ___」
その日、人類のおよそ9割は地球から消えた。人類の繁栄は減速の一途を辿り始め、ヒトを超えし『新人類』による理想郷形成が開始された。




