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犬墓守

 大阪府東大阪市と奈良県をつなぐ府道沿いに伊和田いわたという地名がある。昭和二十年の終戦までは周辺に人家はなかった。埋葬時だけ死体を入れた樽を担いだ人々がやってくる、いわば地の果てだった。先ぶれが持つ提灯と不祝儀用の白衣の衿元の家紋でどこの誰が死んだかわかったという。現在ではその名残はない。この伊和田墓地、墓石用の土地が千家分もあると聞けば、広いように思える。しかし、周囲に一戸建てやアパートが隙間なく隣接して、狭く感じる。

 駐車場も入り口近くの三角地を利用者同士が譲り合って使っている状態だ。その上、居住する人々の中に、苦情をよこしてくる者がいる。墓の光景が嫌でも目に入ることと、線香の匂いが出るのは承知のうえで入居したはずだが、そのたびに墓地管理人である森守総司もりもりそうじは素直に謝罪する。特に黒期くろきという男性は、たばこの吸殻をバルコニーから墓地内に捨てる人物でもある。巡回中の総司の目の前でこれみよがしに捨てられたこともある。総司はそのたびに黙って拾い上げる。利用者から預かっている先祖代々の墓、いずれ利用者自身も入る墓、精神的なよりどころでもある場所を破壊されることを思えば、万事腰の低い態度を保ち、黙って吸殻を拾う方がよいと思っている。

 総司はこの伊和田墓地の何代目の管理人だろうか。代々の利用者たちから構成される墓地管理委員会という組織があり、嘱託という形で働いている。年は五十五才で妻子はいない。二年前の暮れまでは総司の父親がまだ生きて墓地に勤務していた。いわば親子二代で勤務していることになる。総司の以前の職場はチェーンホテルのフロント受付だった。立仕事だが、クレーマー客が多く精神的にはきつかった。また生来の腰痛が年を重ねるにつれてひどくなってきたこともあって、父親の死後に転職して後を継いだのだ。管理人としての給料は安いものの、地代が少々入り、家も建売だが墓地から徒歩三分の一戸建てだ。母親もとうに他界し、現在一人暮らしもあって十分食べていける。

 総司は平日の朝の八時に管理事務所に出勤する。休日明け、特に彼岸明けは供花等のゴミが多く清掃に時間がかかる。しかし昨日は仏滅の日曜日だった。墓の方も特に汚れもないだろう。門の施錠を解き、事務室を開けてストーブをつけてコートを脱ぎ、作業服に着替える。ポットのお湯をわかしてほうじ茶を入れる。その香りを嗅ぎながらラジオの天気予報を聞く。年明けの松も取れたし春の彼岸まで墓参りの人出も多くなかろう、雪も積もれば人は来ない。しばらくゆっくりできそうだと思った。

 総司は持参した朝刊を広げながら先週から大皿にあけたままのかりんとうをかじる。もう一人の同僚である辰爺が事務室の木製のドアを引いて大きな顔をぬっと見せた。とたんに冷たい空気が入ってきた。手には外回り用の竹ほうきがある。彼は墓地門前の清掃をしてから事務所に出勤する。もう八十才になるが元気だ。自称民俗学者で、墓地のすぐ門前の家に居住している。辰爺は四代続けて墓守をしていたので、どこの墓にどこの誰がいるなどという話をよく知っている。この仕事には、昔のしきたりの知識が要求されることもあって、二年弱のキャリアしかない総司は辰爺を頼っている。

 また辰爺には五年前に罹患した脳こうそくの後遺症がある。総司も腰痛をかばいつつ、力仕事である納骨時の香炉の開け閉めなどをやる。切り花のゴミ出しや墓地内の清掃は仕事の基本だ。葬儀場や各寺との連絡、墓地総会や地蔵祭の準備と実施、帳簿つけなどやることは多い。二人は互いに助け合って仕事をしていた。時には事件もおきる。辰爺や亡父から聞いた話では、十数年前の夏に酒に酔った学生が墓石を倒したことがあった。奥の無縁仏の墓の後ろに小さな倉庫があるが、その中にいじめられっ子が閉じ込められたこともある。また遺産相続でもめ、その腹いせに亡父母の墓を荒らした人もいる。

 あとは周辺の住民とのトラブルだろう。先に書いた黒期の言い分はこうだ。

「線香の匂いを我慢して暮らしているから、吸殻をすてるぐらい、好きにさせろ」

 常識が通じないのは明らかだが、ホテルマンの経験もある総司はこういったやからとの対応も仕事のうちだと割り切っている。


「辰爺さん、おはようございます」

 総司から先に声をかけると、辰爺は右足をひきずりながら中に入り、入れていたほうじ茶を飲んだ。お茶のしずくがあごを伝う。辰爺は口元をぬぐいながら「変な犬がおるで」 と言った。

 総司は眉をひそめた。

「犬ですか?」

 そういいつつ総司は新たに熱い茶を入れてやった。辰爺は右側の口をゆがめて話した。

「東の十六区あたりや。二階から望遠鏡で見たさかい、間違いない。さ、行こか」

 野犬だろうと思いつつ、総司は作業服の上に防寒ジャンパーを着た。墓前に供えるものとして花はもちろん許可をしているが、食物は禁止している。封切られていない缶入りの飲み物も。それにも関わらず墓に食べ物を備える遺族がいる。それをされると野犬、野良猫、時にはカラスがやってきて食い散らかす。過去それは何度かあって総司は犬でも猫でも見かけると首輪の有無にかかわらず、管理事務所の前につなぎ、飼い主が不明ならば保健所に電話して引き取ってもらう。カラスは威嚇して追い払い、周囲を徹底的に清掃する。今は寒い季節なのでいいが、夏場は匂いもつくので大変だ。

 東の十六区の墓の建立は昭和の三十年代ぐらいか、まだ新しい部類に入る。ただ近年、いかに旧家であろうと少子化の世相を反映して誰も来ない墓も多い。どちらにせよ、墓参り客の有無にかかわらず、墓に対して粗相がないようにしないといけない。

 時計を見ると八時半。墓参りに来る時間ではないが、開門と同時に墓地内の散歩をする人もいる。だが寒さもあってまだ誰も来ていないようだ。

 数多い墓石の間を縫い、辰爺が足をひきずって歩く。まだ犬が見えぬ位置なのに人差し指を伸ばしている。十六区にさしかかると視界に何やら黒い物体が入った。狭い通路なのに姿勢よく座っているのがわかる。それが薄い朝日を浴びている。辰爺は振り返らずに「しっぽを振ってやがるぜ」 と笑った。

 彼の家の二階からはこの東区は見渡せる。墓地を出入りするとしたら辰爺の家の前の正門しかない。そして防犯カメラはない。墓地管理委員会は裕福ではないのだ。

 二人で犬を囲む。犬はここを追い出されるとは考えもしていないようだ。しっぽはまだ、ゆっくりと左右に揺れている。毛並みは豊かだが薄汚れている。中型犬だ。耳周りが黒に近い焦茶色で顔と背中は茶色、首から胸元まで泥がついているが元々は白かったようだ。犬は二人の人間に囲まれても落ち着いて座っている。

 総司はふと思い出して声をかけた。

「この墓、確か師走前に納骨がありましたね」

 辰爺は顔をあげてすぐ横の墓を見た。

「ああ、見尾屋の島本さんのや。死んだのは一人息子の学生さんやった」

「確か、ひき逃げされた子でしたね」

 三回忌をすませたので年内に納骨したいとの申し出だった。ご先祖と一緒に眠らせ、営んでいた菓子屋をたたみ、奥さんの実家、鳥取に引っ越すという話だった。総司たちは墓の横にある名前を見る。島本家先祖代々の墓、横には戒名が数行にわたり刻まれている。向かって左側の一番新しい刻みには幼妙院大輔信士とある。すぐ横に小さく俗名島本大輔、十七才とあった。納骨時に総司は石屋と一緒に墓の下を開けるのを手伝ったのでよく覚えている。辰爺は肩をすくめた。

「まさか島本さんの犬ではなかろう」

 

 そこへ明るい声が飛んできた。

「総司さん、辰爺、おはようさん。こんなところで、どないしはったん?」

 小柄な女性が手袋をはめた手を振っている。墓地内散歩の常連の石田の婆さんだ。

「あれえ、この犬、なんやの」

 石田が着ぶくれした体をゆすりながら、近づいてきた。犬は再びしっぽを振る。石田は顔中をしわだらけにして笑った。

「行儀のよい犬やね、シェパードかな」

 辰爺が反論した。

「違うな、シェパードやったらこんな襟巻きみたいな毛皮はしてへん」

 総司も会話に入った。

「多分、コリーという名前ではないでしょうか」 

「そうやろね、シェパードに劣らず賢い犬やで」

「子供の頃に読んだ本に名犬ラッシーという題名があった。あれと一緒でしょうか」

 辰爺が声を張り上げた。

「待て。名犬ジョリーというのもなかったか? あれもコリーやったな」

 石田が口を尖らせた。

「違う。名犬ジョリーはもっと大きな犬やったで」

 総司も子供の頃に見たアニメ番組の犬を思い出した。

「いや、あれはグレート・ピレニーズという大型犬でしたよ」

 三人は懐かしくなって、名犬ラッシーと名犬ジョリーの話をした。犬は座ったままだ。のどがかわいているのか舌を出している。石田がぽつりと言った。

「ここの墓参りにきたのかな」

 辰爺が同意する。

「だとしたらこいつ、忠犬ハチ公の墓地型タイプやな」

 あの骨納めの際、島本の奥さんは坊主の読経の間、泣きむせていた。しかし犬はいなかった。

 その後、夫婦は鳥取に行ったはずだ。犬だけ大阪に置いていったのだろうか。総司は先に一人で事務所に戻り帳簿をめくる。そこには携帯電話番号が記載されている。

 総司からの連絡で島本は大変驚いていた。島本によると亡くなった子供と一緒に育ったオスのコリーがいたが、年末からいなくなったそうだ。もちろんそれがくだんの犬かどうかは半信半疑だった。島本は電話口で言った。

「管理人さん、常識的に考えて鳥取の家から大阪の、それも亡くなった子供の墓へはたどり着けないでしょう。それはコリーであっても我が家の犬ではないでしょう。でも念のためジョンと呼びかけてみてください。その呼びかけに反応があれば我が家の犬でしょう。できれば画像も送れますか? 本物のジョンであればもちろん迎えに行きます」

 島本は鳥取に引っ越してから飼い犬のジョンが行方不明になり、近隣にチラシを配って探していたそうだ。総司はすぐに現場に戻った。そして神妙に「ジョン」 と呼びかけると犬は「ワン」 と返事をした。辰爺と石田は「まさか」 と驚いている。これで決まりだ。さらに犬の画像を首輪が見えるようにデジカメで数枚撮り、事務所のパソコンで画像を島本のそれへ送信する。五分もたたないうちに島本から事務所の電話がかかった。今週末に迎えに行くのでそれまで預かってくれという返答だった。

 総司は再度現場に戻り、ジョンの前に出て、腰をかばいながらしゃみこむ。そして人間相手であるかのように飼い主が迎えにくることを説明した。それまで事務所まで来たら水とえさをやるからついてきなさいと。ジョンは驚くべきことに素直に腰をあげて後をついてきた。人間の言葉を理解した犬に、辰爺と石田は再度目を丸くする。

 事務所に行くと苦情申し立ての常連、黒期がいた。総司は身構えた。バルコニーでの会話を聞いて「朝からうるさい」 と言いにきたのかと思ったのだ。黒期は薄いジャージを着ているだけで髪はぼさぼさで無精ひげをはやしている。たばこは持っていない。ジョンをじっと見ている。いつもより表情が柔らかい。黒期は水を飲んでいるジョンを前にしゃがみこんだ。そのまま、じっとしている。辰爺が言った。

「なんや、お前、今日は犬を見にきただけか、モンクは、ないんやな?」

 黙ってうなずく黒期の細い首筋に若さと奇妙な素直さを感じた。ジョンは黒期にもしっぽを振っていた。以後、ジョンは、糞便も決めた場所にし、朝夕の食事の時間になると管理事務所前のエサの皿の前にきちんと座って待っている。それ以外は島本家の墓の横に警備員よろしく存在している。ただ座っているだけで何もしない。近寄れば悪意がない証拠にどういう相手でもゆるくしっぽを振る。

「ほんまに賢い犬やなあ」

 総司、辰爺、石田はジョンのファンになった。黒期もそのようだ。たばこの吸殻を総司の目の前でこれみよがしに捨てることはなくなった。それどころか、二日後には髪を短く切り、きちんとした服装で事務所に来た。そしてよかったらどうぞと、ドッグフードを一袋くれた。黒期だけではない。総司が墓に異変がないか巡回に行くと、墓地に面した近隣の家から、数人にバルコニーや窓越しに「良い犬ですね」 と話しかけられるようになった。今までになかったことがおきつつあった。種々の年齢層がジョンを見ている。子供たちがジョンをじっと見つめている。東側の住居からだと犬の背面しか見えぬはずだが、ジョンの名前が知られ、呼びかけると振り返らなくともゆるくしっぽをふる。たった数日で、近隣の家との墓地にまつわる確執はジョンの存在で解消したかに思えた。


 予定通り週末に島本夫妻は、ワゴン車でジョンを迎えにきた。感動の再会だった。

 島本たちは総司へのあいさつもそこそこに、墓に向かって走って行った。ほどなく「ジョン」 という叫び声と同時に「ワンワン」 という吠え声が重なった。狭い墓地と墓地の通り道に犬と夫妻が重なって抱き合っている。ジョンはやはり鳥取から大阪まで走って来たということか。

 あとから追いついた総司たちは「よかったぁ」 と頭を縦に振っている。辰爺は足をひきずりながら島本夫婦に近寄って話しかけた

「よう迷子にも野犬がりにもあわないで来たなぁ、犬でもヒッチハイクで旅行ができるねんなぁ」

 総司は思わず「犬が運転手相手にハッチハイクで大阪まで連れていけとか、どないして話すのだろうか」 とつぶやく。いきなり拍手が聞こえた。黒期だった。だがこれでお別れなので、さみしそうな顔をしていた。総司たちとかわるがわるジョンの頭を撫でてやる。

「なあ、ジョン、またここの墓参りに来いよな」

 今にも雪が降るような灰色の雲の下で島本夫妻は鳥取の海辺から取ってきた松葉を墓に飾り拝む。一緒にいるジョンはそれを見て満足そうだった。島本は総司たちを振り返った。墓が林立しているので総司たちとの間には五つほどの墓があるが寒空に声はよく通った。

「息子の骨納めが終わると人生のやり直しのつもりで、引っ越しました。もちろんこのジョンも一緒でした。鳥取の方が家も庭も広いのでジョンは喜ぶかと思ったのですが」

 奥さんはジョンの首に両手をかけて話しかけている。

「もう大輔はいてへんで。ここにあるのは骨だけや、あの子は天国におる」

 ジョンは舌を出して奥さんの頬を舐めた。大輔少年が亡くなった日、ジョンはエサを食べず悲しげに小さく遠吠えをしていたという。以後三年間、ジョンは仏壇が安置している部屋に面した庭で寝起きしていた。それ以外は墓に骨を納めた時も引っ越しの時も、特に変化はなかったのでこのたびのジョンの墓参りには驚いていた。もちろん場所を教えたつもりはない。 

 ジョンは嗅覚だけで一か月かけて鳥取の家から死んだ飼い主の墓を探し当てたのか。鳥取からこちらまでは約二百キロの距離がある。中国自動車道を車で行くと三時間弱かかるが、犬の足ではどうか。健脚な人間ならば休みながらでも二日はかかるだろうが、犬の知能でどうやってこの場所を知り得たのだろう。

 気が付くと東の一面の家やアパートのバルコニーや窓から人の顔がのぞいていた。今日も皆、穏やかで優しい顔をしていた。一週間足らずのあいだにジョンが亡くなった飼い主のために長距離を移動してたどり着いたことを皆が知っている。そして今、まさに今。飼い主の親が遠方から迎えに来たことも。

黒期は片手でスマホをいじっていたが、顔をあげて言った。

「あの~検索をかけてみたら、よその国のワンコの話っすけど、そういう話ってあるらしいっす」

 石田は間髪入れずに注意をした。

「なあ、あんた。意味わかるように話してくれへん?」

 黒期が黙ってスマートフォンを差し出してきた。読めというのだ。しかし総司をはじめ辰爺も石田も老眼のため小さい文字が読めぬ。島本の主人が読み上げてくれた。

「……アルゼンチンのカピタンという犬が、自宅から数百キロも離れた亡くなった飼い主の墓を探し当てた。カピタンは、そこで寝起きして天寿を全うした……ふむ、我が家のジョンはこの日本版になるのかな」

 またまた石田が墓地の主のように許可を出した。

「ジョン、お前は好きなだけここにいなさい」

 島本夫妻が「それは困ります」 と言った。石田も負けてない。新たな提案までする。

「この話を新聞に投書したら? ドラマにでもなったらエサ代を稼げるよ」

 総司は夢のような話を笑顔で続ける石田に「このへんでやめましょう」 と抑えた。黒期は低い声でずっと笑っていた。万が一にでもジョンが新聞記事になったら、見物客という招かざる客が増えるだろう。辰爺も言った。

「ジョンがエサ代を稼ぐことなんぞ、あれへんで」 

 ジョンは数秒足を踏ん張って抵抗していたが、首輪を取られるとすぐにおとなしくなり島本のワゴン車に乗り、鳥取に帰っていった。


 ところが、二週間もたたないうちに、ジョンは墓地に戻って来た。二月に入ったばかりの小雪の降る朝だ。今度は大ケガをしていた。朝夕に墓地を眺めていた黒期は総司よりも先にその事実を知った。そして総司の出勤を門の前で待ち構えていた。

「管理人さん、早く開けてください。墓地にジョンがいます。けがをしています」 

 総司が急いでカギを取り出したがそこで手が止まった。黒期も声をあげた。門の前に血の跡があった。面積が広い場所があり、そこで門と地面の隙間から身体を平らにしてすり抜けたのだろう。白い雪と赤い血とすぐ下の黒い泥水がまざり、まがまがしい色になっている。

 総司は門前に建っている辰爺の家に向かって「ジョンがいます」 と叫んだ。

「なんやて」

 辰爺の声を後ろに総司と黒期は開錠後、事務所を素通りして現場に急行した。黒期のほうが走るのが早い。しかし墓地内も凍結していて何度も滑りそうになっていた。血のしたたりがしるべになっている。そのためジョンが危ないことが容易にわかる。果たして島本家の墓の横にひらべったいものがあった。犬には見えぬ。二階で寝起きする辰爺が見落としたのも無理はない。黒期の呼びかけ声がかすれている。

 力なく伏せた姿勢のジョンに総司も息をのんだ。後ろ足がつぶれていた。両耳がつぶされ、目玉も片方がなくなっていた。それなのに匂いや足音で総司がわかるのかしっぽをゆっくりと振る。黒期が嗚咽しながら声を出した。

「お、おまえ、そんな恰好で、よう戻ってきたなあ……」

 辰爺が「ジョォン」 と足を引きずりながらやってきた。ジョンが瀕死なのは明らかだった。

 三人はかわるがわるジョンを撫でてやった。ジョンも苦しいはずなのに総司の手を舐めてくる。背後で異変を知った石田の悲鳴のような声がした。

「ジョンか? いつ戻ってきたん? 何、この血ィは? どないしたん? せっかく戻ってきたのに、かわいそうにぃ」

 ジョンは荒い息を吐いて墓を仰ぎ見る。総司は声をかけた。

「そうか。主人の墓か。でも今は事務所に行こう。手当したるからな」

 黒期は鼻水をたらしたまま泣いている。

「ジョン、何をされたんやぁ、早く医者に……」

 すると東の家のどこかから声が飛んだ。

「医者ならここにおる。今そっちへ行く」

 声の主はだれかわからない。顔がすぐにひっこんだからだ。また別の方向から女の声がした。

「あたしは看護師や。今からあたしもそっちへ行くから」

 セーラー服を着た女の子が二階の窓を全開にして大声を出した。

「あの、何か手伝えること、ないですか」

 赤ちゃんの喃語と共に「しっかり、ジョン」 という声もあがった。見上げると墓地に面する世帯のすべての窓やバルコニーから顔が出ていた。二度目の状況だ。

 人間用の医者と看護師が応急手当てをしている。パジャマを着たままの女が自宅から大きな救急箱を持ってやってきた。二人の男性が担架を持ってきた。タオルとマフラーを持ってきた母子もいた。ジョンはまた戻されるとわかったのか抵抗する。最後に獣医だという男が往診用バッグをもってやってきた。獣医の家はここから十分ほどあるが誰かが車を出して連れてきたらしい。雪の中、皆どうでもジョンを助けたい思いで行動が一致していた。雪が本降りになってきたが、誰も気にしない。

 黒期はずっと嗚咽しながらそばについている。ふてくされた顔で、吸殻を投げ捨てていた面影は一切なかった。総司はじめ周辺の家の窓がまるで舞台を見るように診察を見守る。

 獣医によると数か所の複雑骨折と腹の一部に切り傷とやけどのあとがあり、前足の力だけで来たのではないかという。総司たちが、何とか助けてやってくれと懇願すると獣医は首を振った。

「このケガはいたずらで、手足を抑えられてカッターナイフでやられたのだと思いますよ……内臓まで傷がありますし……誠に残念ですが時間の問題です」


 総司はそれを聞くと小走りで事務所に戻り島本に連絡を入れた。電話の向こうで島本は絶句していた。

「ほ、ほんまですか……また逃げたのですが、二日しかたっていません。二日で鳥取から大阪まで……」

「これは推測ですがもしかしたら車で連れ去れられて、面白半分にけがをさせられ放り出された。そこからジョンは自力で墓地まで来たのかもしれませんね」

「そんなにひどいケガなのですか、画像を送信してもらえますか」

「いや、あの状態で撮影はしたくないです。それに、亡くなるのも時間の問題だと……」

 電話口で悲鳴がした。島本の奥さんだろう。

「大輔だけではなくジョンまで死ぬの、嫌だぁ」

 とたんに電話は切れた。総司は暗澹たる思いだった。島本夫婦にしては一人息子をひき逃げ事故で殺され、心の整理に数年かかったが納骨をきっかけに転居した。それなのにまたこの凶事だ。気の毒で言葉もない。

 総司はうなだれたまま、現場に戻る。前にいる皆がさらにうなだれて首筋をみせている。窓やバルコニーにいる人々もみな顔を下に向けていた。もしや、と思いかけよると辰爺と石田が顔をぐしゃぐしゃにして「死んだで」 と言った。総司も涙を落した。黒期はジョンの前で直に四つん這いになって泣いていた。皆の背中に雪が積もっていく。


 その日の夕方、島本夫妻は遺体を引き取りに来た。辺りはすでに暗くなっていた。ジョンは大輔少年の墓のところに安置していた。背には毛布をかけている。命がけで遠距離を移動し、大輔少年の墓守にきたのだからそうしてあげるべきだと思った。しばらく島本夫婦とジョンだけにしておく。今度の見物人は誰もいない。伊和田墓地は住宅街にあっても、古来のように人気のない場所に戻ったのだ。

 総司と辰爺、石田は事務所にいて冷えたお茶を前に座っていた。かりんとうは減らない。事務所に黒ずくめの服を着た黒期がやってきた。目のまわりがまだ腫れている。こうして黒期をみるとまだ若い。改めて年をきくと、二十歳だという。黒期は言った。

「ぼく、ジョンを見て昔飼っていた犬を思い出したんや。同じコリーやった。ケンという名前やった。でもケンは交通事故で死んだ。その後両親も事故で死んで借金が残り叔父が家を売った。ぼくには何もない。仕事もない。金もない。人生どうでもいい。でもジョンを見てケンを思い出した。両親も思い出した。それから、もう一度がんばろうって思った……」

 黒期は総司と辰爺に神妙な顔で頭を下げた。

「ぼくはすべてにいらいらして、吸殻を捨て、いろいろなクレームをつけました……あの、すみません」

 辰爺は手を振った。総司は亡くなった大輔少年を思うジョンのひたむきな行動がこの若い男の人生を変えたのだと思った。

 やがて島本夫妻がジョンを抱いてやってきた。二人とも目が真っ赤だった。

「私たちは今夜このまま大阪のホテルに宿を取り、ペット霊園に連絡を取ってジョンを火葬にします。ペットはこちらの墓には入れられませんがせめて大阪で眠らせてやろうと思っています」

 総司は大きく頷いた。黒期が島本夫妻におずおずと声をかけた。

「あの、ぼくは息子さんの墓のすぐ近くに住む黒期といいます。短い間でしたが、ジョンを見ると心が和んで……それで、昔の犬を思い出して、がんばろうって思えてきました。言いたいのはありがとうって言葉、それだけです」

 島本夫妻は黒い服を着た黒期を黙って見ていた。と、石田がまた余計なことをいう。

「この子ハタチやて。おたくの息子さんと生きていれば同じ年やな」

 総司はあわてて石田を止めたが奥さんがわっと泣き出した。辰爺が石田を睨みつける。

「おめえとは幼馴染やが、わし、おめえのそういうところが嫌や」

 ジョンはご主人に抱かれたままでぐらぐらと揺れている。死後硬直が始まっているのか硬い感じがする。奥さんがジョンのはみでた足にタオルを優しくかけなおした。主人も愛おしむようにぎゅっと抱きしめなおす。まるで赤ちゃんを連れて行くように。黒期はそれを食い入るように見つめている。

 総司と黒期はジョンと夫妻を駐車場まで見送る。朝から降っていた雪がさらに積もりつつある。

「次に来るのはお彼岸になりますが、よろしくお願いします」

 奥さんは車に乗り込んだあと、窓を開けた。そして黒期に声をかけた。

「これも何かの縁でしょう。あなたはうちの子の分まで元気でいてくださいね」

 黒期は奥さんを見た。

「お、お母さん……いや、あ、ありがとうございます。ぼく、がんばります」

 奥さんと黒期の手がふれた。奥さんの顔にまた涙が伝う。


 車が去った後、総司は黒期に「熱いお茶でも飲んでいきますか」 と誘った。黒期は「いえ、これから仕事の面接を受けに行きます。駅前のコンビニです」 と言った。黒期は雪を仰いだ。白い息が上に向かって舞う。

「ジョンのことでみなが動いているのに、ぼくは泣くことしかできなかった。こんなぼくでも変わっていきたいです」

 黒期は、背中を丸めて駅の方へ向かっていく。総司は事務所に戻った。総司自身にもし子供がいたらまた違った感覚を持ったかもしれぬと考えながら。

 事務所では仲直りしたのか辰爺と石田がかりんとうをしゃぶっていた。

「ジョンは名犬いや、名墓守や。この話も伊和田墓地史に入れておこう。わしがそれを執筆するんや」

 辰爺が民俗学者らしくそういって締めくくった。

                            

                                 了


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