8月9日 ~故郷の歴史は意外なものでした~
辰原図書館は、八十五万冊の蔵書数を誇る県内でも有数の図書館であり、平日の昼間であっても利用者は多い。
夏休み中とあって、午前であるにも拘らず、半分ほど席が埋まっており、読書感想文や自由研究などの影響か、棚に収められている本もまばらだった。
「随分と古いんだね……」
「未来じゃ建て直しされてるのか?」
「十年前に」
「つまり今から七十年も放置されてんのか……」
「そういうことだね。でも、もしかしたら建て直しをした時に、古い資料や新聞のいくつかが紛失したのかも」
「じゃあ、まだ建て直しされてない今なら、色々とあるかもしれないな」
辰原町について記された新聞やレポート、専門的な郷土資料などは、地下の保管スペースに収められている。
何十列ものスチール棚に積み上げられた資料の山から、二人が手掛かりになりそうな物を探していると、
「朱里。これどうだ?」
健太が一冊の論文を見つけた。
『辰原町における災害と復興の歴史』と題されている。
「どんな内容なの?」
「ちょっと待ってくれ……」
健太がページをめくっていくと、気になる記述を見つけた。
そこには、こう書かれている。
この土地に人が住み始めたのは、およそ千年前のことであったという。
人の寄り付かない痩せた土地だったが、ある日、天から一匹の光る龍が地上に降り立った。
現在残っている資料から推察すると、その正体は、落雷だったと考えるのが自然だが、当時の人々は、龍が地上に降り立ったのだと強く信奉していた。
龍の加護にあやかろうと人々は、落雷のあった近辺に住み始め、それが村となったのである。
本来痩せていた土地は、人の手が入ったことで肥沃となり、また不思議と作物の疫病もなく、村人も流行り病にかからない。
そのおかげか、大いなる龍神に守られた土地なのだと信じられ、村人たちの龍信仰に拍車を掛けた。
やがて龍の住む自らの村を龍神村や龍腹村と呼称し、時を経て、辰原になったとするのが定説である。
村は、長きにわたり平和に過ごしていたが、七百年程前に大きな災害に見舞われた。
突如巨大な龍が現れて村中を暴れ回り、以後数年にわたって疫病と不作が続いたのだ。
当時の文献を調べてみると、この暴れた龍とされるのは、巨大な龍巻であった可能性が高い。
この災害は、辰原の歴史の中でも特筆すべきもので、以後この災害を辰原の災と呼称するようになった。
読み終えた健太の口元は、無意識の内に笑んでいた。
「この辰原の災って……怪しくないか?」
「こんな資料、未来にはなかったよ」
「相当なもんが紛失したみたいだな。それに面白い」
「面白い?」
「ああ。面白いじゃんか。なんかこういう歴史を紐解く? テレビみたいでさ」
「視聴率じゃなくて、あなたの命がかかってるんだよ!?」
朱里の機嫌が途端に悪くなった。
露骨に怒りを見せるのは、初めてである。
「わ、悪い……でも、龍だよ、龍」
「龍?」
「朱里は、龍から力を貰ったって言ってたろ? ここにも龍について書いてある。なぁ、朱里の魔法をくれたっていう龍のこと、もっと詳しく教えてくれよ」
「ごめんね。それについてだけは言えないんだよ」
「どうしてだ?」
「約束だから」
「約束?」
真実に迫っている手応えはあるのに、朱里の反応は芳しくなかった。
どうにも朱里は、未来の事、特にこの時代へ来た経緯について語りたがらない。
ここにも重要な手掛かりがありそうに思えたが、朱里が何も言わないのなら、無理に聞こうとは思わなかった。
朱里の抱える事情は置いても、漠然としていた因果に関して、その輪郭を捉えられる段階に至ったのは大きい。
辰原の災というキーワードも、文字通りの鍵となるはずだ。
「とにかく、この辰原の災のことをもっと詳しく調べないとな」
「でも……難しいと思うよ」
「どうしてだ?」
「七百年も昔のことだよ? 詳細を知っている人は生きてないから」
「いやいや。案外いるかもしれないぜ」
「どこに?」
「まぁちょっと付いてこいよ」
七百年という悠久の時を超える心当たりが健太にはあった。
――――
健太と朱里が訪れた辰原神社は、町の北側の外れにある。
夏の日差しに蒸らされて、社殿へ続く階段を彩る木々の青さが一層香り、鳥居の朱色は、虹彩が焼けるように眩しい。
七百年前に建てられた、町で一番古い神社であり、健太にとっては、毎年の初詣にも訪れる見知った場所なのだが、朱里は、見知らぬ場所へ迷い込んだように困惑している。
「ここは?」
「辰原神社だよ。未来にはないのか?」
「そうだよ。別の場所に、違う名前の神社はあるよ。町の東に」
「町の東? あの辺って特に何もないよな……未来にないってことは、何かあったのか?」
どうして無くなってしまったのだろう?
後継ぎが居なくなってしまったのか?
それとも信仰が薄れてしまったのか?
見知った場所が八十年足らずで消えてしまう哀愁を噛み締めていると、
「おや。健太君じゃないですか」
柳がこすれ合うような、落ち着いた声音が鼓膜を揺らした。
「神主さん。お久しぶり」
神主の名は、朝倉源次と言う。
年の頃は、五十代の半ばで、優しさがのっぺりと張り付いたような面立ちをしている。
頭を丸め、作務衣を着ている姿は、神主というよりも寺の住職を思わせ、実際に町の外から来た人間は、辰原神社をお寺と勘違いすることも多い。
「彼女連れで来てもらっても、ここは縁結びのご利益はないのですよ」
いくら幼馴染という認知になっているとは言え、どうして誰も彼もが付き合っていることにしたいのだろうか。
「いえ。そうじゃなくて聞きたいことがあるんだ」
「僕、恋愛相談は苦手なんですよね。惚れた腫れたとか、大好きなあの人と思い出に残る初体験ですとか」
「ちょっとピンク色から離れてくんない?」
「思春期の悩みって全てに性欲と愛憎が絡んでますから」
「偏見だ! ただれた感じにしないでよ、十代の若者を!」
「じゃあ何を知りたいっていうんです?」
「この町のこと。辰原の災を」
ふんわりとしていた朝倉の表情に鋭さが混じった。
健太にとって、この変化は喜ばしい。
朝倉の持っている辰原の災に関する知識が、図書館で得られる以上の物だという証明だからだ。
そして朝倉の知る詳細には、尋常から外れた何がある。でなければ温厚な人柄に、こうも険しい目つきをさせないはずだ。
「具体的にはどういう――」
健太が答えるより速く、朱里が朝倉に一歩詰め寄った。
「真実を知りたいんです」
「真実ですか……本や論文を読んだりはしましたか?」
「ええ。でも詳細が分からないんです」
「詳細とは?」
「論文には書いていないことです」
朝倉は、顎先を人差し指で突きながら空を仰ぎ、目を細めた。
「うちで聞き伝わっていることは……土地には、それぞれの文化がありますが、この町のそれは、少々血生臭かったらしいですね」
朝倉の見解に、朱里は首を傾げた。
「どういうことですか?」
「実は……生贄の風習があったという話を聞いたことがあります」
思いもよらぬ単語の登場に、健太の声が上ずった。
「生贄!? なんでそんなこと?」
健太の問いに、朝倉は鼻から大きく息を吸い込むと、しばし言いよどんだ。
出来れば、これ以上話したくはない。そんな意思表示。
健太も負けじと、瞳に好奇心を宿した。
じっと見つめ続けると、朝倉は観念したように溜息を吐いた。
「辰原に龍神信仰があったという話は知っていますか?」
「図書館の資料で読んだよ」
「龍神に捧げものをするのは、よくある話です。そして災害を鎮めるために、この町でもそういうことが行われていた……かもしれないのです。あくまで口伝ですから、実際の所はあいまいですが」
「じゃあ辰原の災を鎮めるために生贄が捧げられたかもしれないってことか……」
「実際のところは分かりませんが。僕が知っているのはこれぐらいですね」
「本当ですか?」
朱里は、朝倉に詰め寄った。
「神主さん。本当にそれだけですか?」
朱里からは、微かながら敵意が伝わってくる。
しかし朝倉は、気にも留めていないのか、いつも通りの調子で口を開く。
「本当にそれ以上は知らないんですよ。ごめんなさい」
「……そうですか」
朱里は、納得していない様子を隠さなかった。
けれど朝倉がこれ以上何も語ってくれないのは、健太にも理解出来る。
頑なになっても、意味はないだろう。
「ありがとう朝倉さん。参考になった。朱里、帰るか」
「ちょ、ちょっと健太くん!?」
健太は朱里の手を強引に引いて、辰原神社を後にした。
――――
夕暮れ時の帰り道。
ずっと手を繋いでいた健太と朱里だったが、辰原橋の上でどちらともなく手を放した。
「どうして?」
朱里の声は、少し不機嫌そうだった。
「神主さん、ちゃんと聞いたら答えてくれたかもしれないんだよ?」
「無理だって。ああ見えて朝倉さんは、簡単に折れるタイプじゃねぇよ」
「でもあの人が何か隠してるのは、健太くんも気付いてたよね?」
「まぁな。だからこそ正面突破よりも回り道の方がいいってことだ」
「じゃあ、例えばどうするの?」
「……それは今から考える」
「わたしの魔法は、記憶だって改ざん出来たんだよ。上手く使えば聞き出せるかも――」
「朱里」
健太は、あえて声を強張らせた。
「俺を助けようとしてくれてるのは分かるんだ。でも闇雲に俺の知ってる人を操らないでくれ」
「でも……」
「助けようって気持ちは嬉しいんだ。けどさ、俺にとって町の人たちは大切なんだ。だからこれ以上は記憶を変えないでほしい。頼むよ」
朱里は、健太を救うことに懸命だ。
その気持ちはとても嬉しい。だけど同時に怖くもなる。
健太を救うためなら、朱里がどんなことでもしてしまうのではないかと。
現に健太を知る人たちの認知を朱里は改ざんした。
未来から来た朱里という異物が、自然な形で健太の傍にいるためには、仕方がなかったと納得している。
しかし今以上に変わってしまうのは、どうしても許容出来ない。
「なるべく魔法で人を操るとかせずに、俺たちで調べるんだ。俺のわがままだけど、付き合ってくれないか?」
「……分かったよ。わたしだって、自分のわがままに健太くんを付き合わせてるもん」
「悪い」
「ううん。わたしもごめんなさい。でもどうしょうもなくなったら、わたしは使うよ? 健太くんに嫌われても」
朱里の瞳は、固い決意で輝いているように見えた。
健太が何を言っても折れてくれそうにない。
朱里に譲歩してもらったのだから、ここは健太が譲るしかないだろう。
「ああ。分かった。まずは生贄のことを調べてみるか」
「図書館には、そういう資料はなかったよね?」
「さっき読んだ論文にも、生贄に関しては書かれてなかったしな……」
健太は、辰原橋の欄干に両肘を乗せて、下を流れる辰原川を覗き込んだ。
水の流れを見ていると、考えがまとまるような気がした。
何の情報もなかった昨日に比べればマシでも、朝倉から得られたのは抽象的な単語と断片的な情報に過ぎない。
朱里の言う通り、朝倉が何か隠しているのは間違いない。
その何かを掴めれば、朝倉の口を開かせることも出来るだろう。
誕生日まで今日を入れても、あと四日間。
もう日暮れだという事を考慮すれば、実質的にはあと三日だ。
明日にも致命不可避の試練が待ち受けているかもしれない。
それでも普段の暮らしを変えるような真似はしたくなかった。
確実に生き残れるという保証があるわけではない。
だから怯えて暮らしていては、最後の時、きっと後悔してしまう。
「……朱里、もみじに行っていいかな?」
「今朝も言ってたよね。もみじってなに?」
「デイケア施設だよ。母さんが雇われ施設長してるんだ」
「まっすぐ家に帰った方がいいと思うけど……」
健太だけの問題ではない。寄り道をするという事は、朱里にも負担を掛けるということだ。
それを理解出来ないほど、能天気な頭はしていない。
「負担かけるのは分かってる。でも母さんとの約束だし、普段通り過ごしたいんだ。これもわがままだけどな」
「うん。分かったよ。一緒に行こう」
きっと朱里なら、そう答えてくれると知っていて、卑怯な提案をしたのだ。
健太にとって日常は、この上なく大切なものだし、朱里にも健太がどういう日々を過ごしているのか知らせたかった。
もしも命を落とした時、桐嶋健太という人間を思い出してほしかったから。
たった一人、この世界で真実を知っている人に。