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8月12日 ~それぞれの役目~

「春さん!?」


 ――どうしてここに?


 春さんが不安げな表情を浮かべて、朱里を抱く健太に近付いてきた。


「朱里ちゃん!? 大丈夫?」

「春さん、どうして?」

「なんだか嫌な予感がしてね……ここに来なくちゃいけないって……」


 辰原に長く住んでいるから本能的な部分で町の危機を察知したのかもしれない。

 しかしこの増援は、健太にとっては、天上から降りてきた蜘蛛の糸だ。

 朱里を春さんに任せて、自分は灰色の煤を誘き寄せる。

 後手に回るジリ貧かもしれないが、今すぐこの場で殺されるよりもずっといい。


「春さん。朱里のことを――」

「ケンちゃん!!」


 春さんの悲鳴と同時に、健太の背筋を粘っこい嫌悪が撫でた。

 再生を終えた灰色の煤は、その一部を刃のように変じさせ、振り下してくる。

 切っ先が額へと迫り、健太の反射神経は、懸命にその機能を果たそうとしていた。 しかし抱きかかえている朱里の重量が、その迅速な行使を阻んでいる。

 朱里を見捨てなければ避けられない。

 見捨てることなど出来ないから、避けられない。

 健太の視界を紅が埋め尽くす。鮮血のぬくもりが頬を伝わり、死を実感させる。

 痛みもなく、苦しみもない、静かな時間だ。


「そうなのねー……」


 春さんが笑顔で健太を見つめている。

 煤の集合体で形成された刃に、背中から胸を貫かれながら。


「……春さん?」


 巨大な刃を、老いた小さな身体としわがれた両手で力強く受け止めて、健太に触れることを許さなかった。


「ケンちゃん……わかったわー……私、この日のために生きてきたのね……」


 ――なんで?


「春さん……待ってよ!! こんなの……夢だよね!?」


 ――嫌だよ!


「大好きよー」


 急速に温度を失っていく優しい手が健太の頬をそっと撫で、血を拭い取ってくれる。


「ケンちゃん――」


 一つ、いつもの微笑を浮かべると、春さんは地面に倒れ伏し、安息に墜ちていった。

 弔いの念を込めて健太が春さんに触れようとした時、再び刃を振り上げた灰色の煤が弾け飛んだ。

 健太の腕の中で朱里は、灰色の煤を睨み、右手を向けている。


「逃げ……よう」


 か細い声を絞り出しながら朱里は、立ち上がり、健太の手を引いた。

 しかし健太は、春さんの亡骸から視線を離せず、


「でも――」

「犠牲を……無駄にしないで!」


 そうだ。

 ここで健太が死んでしまったら、春さんは、一体何のために命を賭けたのだろうか。

 春さんにとって、健太を守ることが一世紀過ごした生の意味だったとするなら、意味を失わせてはならない。


 大好きだった人の頬に触れて、健太は、悲哀の情を噛み殺して立ち上がり、朱里と共に駆け出した。

 だが朱里の足取りはおぼつかず、歩いているのと、さして速度は変わらない。

 健太の不安を感じ取ったのか、朱里は笑顔を作ったが、激痛に歪んでいる。


「だいじょうぶ……だよ」

「大丈夫に見えねぇよ! それに顔色すごく悪いぞ!? 魔法使いすぎなんじゃ……」

「だい……じょう……ぶ――」


 朱里は、体内の力が気化して抜け出したかのように、その場に倒れ込んだ。

 健太が抱き起しても、首と腕がだらりと重力に逆らわず垂れている。

 街灯に照らされる朱里の顔は、半紙のように白かった。

 どうして朱里がここまで痛め付けられなければならないのか。

 どうして春さんを失うことになったのか。


「全部……俺のせいだ」


 春さんが死んでしまったのも。


 朱里が死にかけているのも。


 全ては健太を庇ってのことだ。


「俺が……」


 居なければ?


 違う。


 そうじゃない。


「俺が――」


 彼女たちの犠牲を踏み台にしてでも、健太には果たさなければならない使命がある。

 彼女たちが命を賭してまで守ろうとした自分を守ることだ。

 彼女たちが抱いた願いを叶えることだ。


「素直に生きたいって思わなかったから!!」


 辰原という町を守りたい。そんな大層な願いを抱いていた自分が恨めしい。

 桐嶋健太は、たった十五歳の少年だ。

 なんの力もない十五歳の少年だ。

 そんな矮小わいしょうな存在が抱く願いは、もっと自分本位でいい。


「俺は……生きたい!!」


 迫り来る灰色の煤を健太の怒声が貫いた。


「この先が見たい!!」


 心の内に浮かび上がる言葉のままに、ただ生きたいのだと。


「文句……あるかぁ!!」


 咆哮に応えるかのように、健太の肩へと触れる温度があった。


「それでええんだのう」

「ダンじいちゃん!?」


 微笑む団蔵が健太の傍らに立ち、灰色の煤を見つめていた。

 そして、団蔵の後に続くように辰原に住む老人たちが集まっている。

 倉島玄達、加島とめを始めとした、もみじの利用者。それ以外にも辰原に住む百歳を超える老人たち六十四人。亡くなった春を除く全員が一堂に会している。

 彼らは、健太を見やると皆が一様に微笑み、団蔵を除く六十三人の身体を羽衣のように揺蕩たゆたう光が包み込んでいく。

 光に包まれた彼らの姿は、やがて光球へと変じ、団蔵を中心として集っていった。

 六十三の光の玉が団蔵に吸い込まれると、六十四個目となる光の玉が健太の眼前で静止し、


『ケンちゃん――』

「……春さん?」


 いつもの優しい声で名前を呼んで、団蔵の中へと溶けていく。


「ああ。そうだったかのう。わしは愛するこの子のために……」


 団蔵は、健太を見つめながら満面の笑みを浮かべると、


「わしは、この時のために――」


 地上で落雷が起きたかの如く閃光が辰原を包み込むと、団蔵の姿は消え、巨大な黄金に輝く龍が姿を現した。

龍は、健太と朱里を囲い、守る盾になるかのように、とぐろを巻いた。

 迫り来る灰色の煤に、龍は咆哮を一つぶつけると、刃のように鋭い牙を光らせ、煤に食らいついた。

 微細な寄生生物の集合体であるはずの灰色の煤だが、まるで一匹の生物であるかのように龍の牙に咥えられている。

 灰色の煤の群れが一斉に身じろぐように震えた。煤の一部が寄り集まって、半月状の刃を十個形成し、龍に振り下す。刃を突き立てられた鱗が弾け、流血のように光がほとばしる。

 しかし龍は、怯まず牙を振るい、刃を一つ、また一つと食い千切っていく。

 だが所詮は個体ではなく群れの集合体。いくら千切っても寄り集まり、再び刃となる。

 一方の龍は、傷を増やしており、戦いぶりに衰えはなくとも劣勢に追い込まれていた。


「ダンじいちゃん……みんな……」


 見ていることしか出来ないのか?

 指をこまねいて無力感に苛まれる以外にないのか?


「ケンちゃん!!」


 力強い一声に振り返ると、そこには舞香と息を切らせた朝倉が居た。

 舞香の手には、古びた朱色しゅいろの弓と矢が握られている。


「舞香!?」


 朝倉の呼んだ助けとは舞香のことなのだろう。

 彼女は駆け寄ると、健太と変わるように朱里を抱き、代わりに弓矢を手渡した。


「これは?」

「七百年前、異国の男を射殺いころした時に使われた弓と矢よ」

「これなら殺せるのか?」

「過去に一度、灰色の煤を倒した代物よ。これなら、あるいは――」


 無垢な力。数多くの奇跡を可能にした力。それを収束し、放てるのならば、あの怪異すらも殺せて不思議はないが、肝心の母体がどこにあるのか健太には分からない。


「でも母体は、何処に?」


 健太が問うと、応えるように龍が灰色の煤に絡み付き、締め上げた。

 微細な生物の集合体であるはずの灰色の煤だが、龍の拘束を抜け出ることは叶わず、悶えるように身じろいでいる。

 すると、健太の瞳は、灰色の煤の中を移動する小さな青い光点を見つけた。


「あれか!」


 健太は、朱里を舞香に任せて、矢をつがえて弓を構えた。


 ――やめてくれ!!


 瞬間、込み上げる吐き気に、耐え兼ね、膝を付く。


「ケンちゃん!?」

 

 舞香が健太に駆け寄ろうとするが、朱里を抱きかかえているせいで動けず、代わりに朝倉が健太に肩を貸して立たせてくれる。


「どうしたんですか?」

「なんだこれ……」


 鮮烈な光景が数瞬健太の脳裏を支配した。

 端正な顔立ちの異国の男が怯え、乞う様。

 溢れそうになる罪の意識を殺して、矢を射る自分の姿。

 否、あれは桐嶋健太ではない。魂に刻まれた前世の記憶。


「……そっか」


 一緒に村で暮らしてきた人々の亡骸から生じた青い果実を喰らい、狂気に染まった振りをし、異国の男の命を奪う。


「だから喰われたのか……」


 おぞましいほどの贖罪しょくざいの念を、健太の前世の少年は抱いていた。

 村の人々を救うために、地獄を耐え続けて生き延びながら、異国の男から情報を引き出し、灰色の煤の生態を調べ上げたのである。

 そして憎き男への復讐の機会を得て、充足に満たされると期待していた心に去来したのは、虚無感と罪悪感だった。

 耐え切れなくなった少年は、異国の男の肉を喰らい、贄となることを選んだのだろう。


「辛いよな……そりゃあ」


 健太は、中学生のころから弓道をやっている。

 だが、弓を射る時、いつも肝心な場面で的を外し続けてきた。

 初めて理由を思い知らされる。魂に刻まれた前世の記憶が蘇り、そうさせたのだ。


「でもさ……負けらんねぇんだよ」


 罪の意識は、よく分かる。

 殺人というとがの重みは、健太とて背負えるモノではないだろう。

 でも、これだけ多くの人々が健太を救おうと命を賭してくれている。


「それでも死にたいなんて、おこがましいんだ!!」


 ――大丈夫だ。


「生きることを罪に思うなら……俺が背負ってやるからさ」


 ――だから。


「一緒に見ようぜ……未来を。明日を」


 健太が弓を構えなおし、弦を引いていく。

 引き絞る度、未知の何かが健太の中に流れ込み、指先を通して矢先に集まっていった。

 不快ではない。畏れもなく。迷いもなかった。

 あるのは、安堵だ。母に抱かれるような。父に背負われるような。安息が健太を包み込んでいく。


 ――これが辰原という町の力なんだ。


 健太が指から弦を放すと、矢は赤い閃光を伴って飛翔し、龍の蜷局とぐろをすり抜け、灰色の煤の中で暴れる青い光を撃ち抜いた。

 龍の蜷局に巻かれていた煤は崩れ落ちて、大気の中に溶けてゆく。

 煤が完全に消え失せると、龍は、健太を愛おしそうに一瞥いちべつして、空へと昇って行った。

 やがて龍の姿が見えなくなると、空から白い光が細雨のように降り注いだ。

 地面に落ちた光は、波紋のように伝番し、辰原全体へと広がっていく。

 そして光を浴びた朱里の傷は、まるで存在していなかったかのようにみるみると消えていき――。


「健太くん」

「ああ。終わったんだ」


 いつもの弾けるような元気に満ちた笑顔を取り戻していた。

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