8月8日 ~今日出来た幼馴染に命を救われました~
健太の暮らす辰原町は、東京都へ向かう主要本線が通っており、ベットタウンとしての人気が高い。
最大の特徴は、長寿国と言われる日本でも、百歳以上の高齢者が多く住んでいることだ。
町の人口三万人に対して百歳超の高齢者が六十五人居り、その全員が介護認定を受けておらず、自立した生活を送っている。
辰原町で最高齢の龍宮団蔵は、辰原町の南東に位置する辰原山に家を建て、一人で暮らしていた。
縁側から辰原町を一望出来る絶景は、健太のお気に入りの場所である。
一番の友人である団蔵に会うためもあり、健太は毎日のように、この場所を訪れていた。
「――ってわけなんだ。ダンじいちゃん」
健太は親しみを込めて団蔵をそう呼ぶ。
団蔵も気に入っているらしく、健太が付けたあだ名は、いつの間にか町中に広まっていた。
「この奇怪な事件をどう思う?」
今朝の幼馴染事件のことを相談に来たのだが、団蔵は、からからと笑うばかりだ。
「よかったのう。妄想以外で恋人が出来て」
「全然良くない!! ていうか失礼だ!」
「かわいいのかのう?」
「いや……そこは問題じゃないっつーか」
「かわいいようだのう」
またからからと団蔵は笑っている。
「ダンじいちゃんは、いじわるだ」
「すねるな、すねるな」
健太が唇を尖らせると、
「居た!」
明朗ながら鈴のような愛くるしい音色の声が健太を射抜いた。
今日出来た幼馴染の朱里。
自宅を出る時、全速力で撒いたつもりだったが、どうやってこの場所を嗅ぎつけたのだろう。
「ほう。彼女がそうかのう……」
「健太くん。早く学校いかないと、だよ」
「こんな調子なんだ、ダンじいちゃん。セリフも含めて清々しいまでの幼馴染っぷりだろ?」
「だって幼馴染だよ?」
「幼馴染って、サンタのプレゼントみたいに、朝起きたら突然出来てるようなもんじゃないと思うんだ」
「何言ってるの? 健太くん寝ぼけてるのかな?」
「寝ぼけて見てる幻覚なら、どれだけ幸せかって話だ」
皮肉っぽく笑いながら健太が縁側から立つと、団蔵から訝しんだ声が上がった。
「今は夏休みじゃないのかのう?」
「夏期講習なんだ。行きたくないけどさ」
「勉学をしたくないというのは、贅沢に暮らしとる証拠じゃ。昔の人間は勉強したくても出来なんだよ」
「分かってるよ。だから行ってきます」
「気を付けてのう」
「おじいさん。健太くんのことなら任せてください」
「ああ。頼むのう」
「って、やっぱお前もついてくんのか!!」
「当たり前だよ。だって同じクラスなんだから」
「なんだとぉ!?」
「ほら。早くしないと遅刻だよ」
健太は、朱里に手を引かれて、団蔵の暮らす山を下り、県立辰原高校へ向かった。
――――
通学路の傍らに生える夏草の群れが、アスファルトの熱に蒸され、青く香っている。
ただでさえ面倒な夏期講習。
暑さだけでもイヤになるのに、今日は正体不明の美少女までついてくる。
健太の足取りは、鉛のように重かった。
一方の朱里は、健太の隣が定位置であるかのようにぴったりとくっついており、足取りは高級羽毛のように軽い。
健太と朱里が並んで辰原橋を渡っていると、
「おや、まぁ」
団蔵の次に長寿の新川春と出会い、彼女は亀のような歩みで健太に近寄ってくる。
「おはよう。ケンちゃんに朱里ちゃん。相変わらず仲がいいわねー」
「はい。今日も仲良しです」
「いやいや違うんだ春さん。一方的に懐かれてるんだ……っていうかこいつのこと知ってるんだ?」
「いやだわー。あたしゃ、まだぼけてないんだから。ケンちゃんの幼馴染で……将来を誓い合った中でしょう?」
「春さん冗談きついって……まじで?」
「ええ、ええ。ずっと昔から大きくなったら朱里ちゃんと結婚するんだーって……あたしゃもうその日が待ち遠して待ち遠しくて」
「わたしたち、まだ高校一年生ですから……三年生にならないと結婚は……」
「まぁまぁ。じゃあもう少し頑張って長生きしないとだわー」
「結婚式には必ず呼びますからね」
「あらー。長生きする楽しみが一つ増えたわー。ありがとう朱里ちゃん」
朱里の春さんのやり取りは、気心知れた仲のようだ。
大事な人を取られたみたいで腹立たしい。
この少女は、一体何者なんだ?
目的は?
そして健太の両親と春さんを洗脳した手段は?
「ケンちゃん? どうかしたのかしらー?」
春さんは、健太を見つめて怪訝そうな顔をしている。
「なんでもない。多分暑さのせいかな? 脳細胞が溶けて、耳の穴から半分流れ出たのかもしれない」
「あらー! 大変だわー! お医者さんに行かなくちゃ」
「そうだね。そうしようかな。もう医者以外に頼れないかも」
健太は、苦笑しながらごまかして、足早に春さんから離れた。
学校への近道である辰原商店街を通ると、店の人たちの視線が健太と朱里に注がれた。
古くから二人の関係を見知っているような親しみの視線。
おかしくなったのは、家族だけかもしれないという期待は、完全に打ち砕かれた。
「なにがどうなってんだ……」
「どうかした?」
朱里は、そう尋ねながら健太との距離を縮めてくる。
互いの肩が触れ合いそうな距離感。
美少女と一緒に居られる喜びは皆無で、嫌悪感と拒否反応が心を埋め尽くした。
「くっつくなよ」
「中学生じゃないんだからさ。隣歩いてるだけで意識しすぎだよ」
「うるさい!!」
美人で、初対面で、健太の日常を壊した存在。
意識するなという注文は、あらゆる意味で理不尽だ。
「あんた催眠術でも使えんのか?」
素直に答えるとは思えないが、突破口はこれしかない。
――どう出る?
健太が身構えていると、朱里はすんなりと口を開いた。
「魔法は、少し使えるよ」
「なんだそりゃ?」
「魔法って知らない?」
「言葉の意味は、知ってる。でも魔法を使えるって言ったやつは、初めてだ」
「確かに。わたしも会ったことないかも」
「わけわかんねぇ」
口ではそう言いつつも、健太は内心である種の確信を覚えていた。
これが夢か、町ぐるみのドッキリでもない限り、彼女のやったことを事実として認めるしかない。
昨日まで、いつも通りだった町の人々の認知が一夜にして変化したなら、不可思議な力が働いているとしか思えなかった。
なにより不可解なのは、朱里の目的だ。
健太の幼馴染を名乗り、その嘘を町の人々に信じ込ませることで生じる利益はなにか?
推理に没頭しながら歩いていると、いつの間にか、辰原高校前の歩道に差しかかった。
信号を見ると赤である。
通学路最後の信号にして、ここの赤信号は捕まると一番長く待たされてしまう。
立ち止まっていると、余計に朱里の存在を意識させられた。
気まずい。
意識すればするだけ、気まずさが増していく。
黙っていても気まずいのなら、疑問をぶつけてやろう。
「今回の幼馴染騒動……新手の洗脳か? それとも詐欺師か?」
すると朱里は困ったような微笑を浮かべて、小首を傾げて見せた。
「どうして信じてくれないの?」
「何をどうやって……」
信号が青に変わり、
「信じるんだよ」
歩道を渡ろうと足を踏み出した瞬間、健太の身体は、後方に強く引っ張られる。
思わぬ奇襲にしりもちをついた。
「何すんだ――」
健太の鼻先を重い風圧がかすめていく。
風の正体を目で追うと、それは大型の貨物トラックだ。
急いでいるのか、明らかに法定速度をオーバーしている。
あんなのに轢かれたら、ひとたまりもなかった。
「健太くんがわたしを信じる理由は、わたしが健太くんの命の恩人だからだよ」
頭上から降り注いだ朱里の声。彼女の手が健太の制服の襟を掴んでいる。
「だからわたしを信じてほしい。健太くんを守ってあげたいんだよ」
襟を掴んでいる手を払いのけて、健太は立ち上がった。
「守るって……な、なにから……なにからだ!!」
「運命からだよ」
「運命?」
普段であれば妄言と切り捨ててしまえる。
しかし、咄嗟にかばってくれたにしては、朱里の行動は冷静で余裕があった。
まるでこうなることを予知していたかのように。
「わたし、変人みたいなこと言ってるけど、感謝するよ」
変人など通り越して、もはや朱里という人物は、健太にとって畏怖の対象となっていた。
車道の左右を見て、何も来ていないことを確認してから健太は駆け出した。
これは察知出来なかったのか、朱里は慌てた様子で後を追ってくる。
「待ってよ!」
「変人って自覚あるならついてくんな!」
「同じ学校に通ってるんだから」
「お前みたいな生徒見たことないな!!」
確かに朱里は、健太と同じ辰原高校の制服だ。
しかし、彼女のような生徒と会ったことは一度もない。
そのはずなのに――。
「おはよう阿澄さん」
「朱里おはよう」
「おはよう朱里ちゃん!」
「また二人一緒かよ」
「早く付き合っちゃえよ」
「もう夜に二人で――」
教室に入ってきた朱里を歓迎するクラスメイトたち。
全員朱里に洗脳されているのか。
あるいは猛暑のせいで、教室に居る全員の脳が焼き切れたのか。
それともおかしいのは自分なのか。
混迷した意識の海をさまよう健太を引き上げたのは、
「健太、どうかしたの?」
佐久間舞香の声だった。
腰まで伸びた艶のある黒髪が印象的であり、朱里と見比べても、その容貌は見劣りしない。
成績も優秀であり、古い言い方をするとクラスのマドンナだ。
健太とは幼い頃からの付き合いで、彼女こそが本当の幼馴染である。
「面白い……顔してるわ」
滅多に人をからかわない舞香が、こういう反応をするあたり、今の健太は実に愉快な顔をしているのだろう。
「あのさ。佐久間」
「なにかしら?」
「この子知ってる?」
朱里を指差すと、舞香は戸惑いがちにうなづいた。
「もちろんよ」
「名前は?」
「……知ってるわ。変なこと聞くのね」
「どうなってんだよ……うちの馬鹿な家族ならともかく……学年で一番賢い佐久間まで」
家族だけなら催眠術で片が付く。
だが町の人々やクラスメイトも、朱里のことを健太の幼馴染と認識している。
たかだか催眠術が、数百人規模の認識を改変出来るわけがない。
ならば、おかしくなったのは、健太の記憶の方ではないか?
「うそだろ……」
ありえるのだろうか。
幼馴染がもう一人居て、彼女の全てが記憶から消え去ってしまうことが。
「どうなってんだ」
困惑したまま健太が教室の窓際、一番後ろにある自分の席に座ると、
「ここ私の席だよ」
朱里がそう言った。
いつもの目の前にある友人の広瀬幸助の机の間と、健太が座っている机の間に、もう一つ机が置かれている。
自分の席まで、今日出来た幼馴染に奪われたようだ。
「俺の……何がどうなってんだよ」
一つ前の席に移動しながら健太は、今朝から起きている不可思議な現象について、あらゆる可能性を模索する。
だが一番現実的な解答は、周りではなく、自分がおかしくなったということ。
例えば記憶喪失になったのではないかと。
「なぁ広瀬」
「なにか用? もしかして朱里ちゃんと舞香ちゃんのどっちのおっぱいがでかいかの話? 断然朱里ちゃんじゃん? でも舞香ちゃんは形がいいじゃん! 悩むじゃん!」
前の席に座る広瀬のもちもちとした背中を指でなぞると、うっとうしそうに身体をくねらせた。
大福のように、ほんわりとした顔立ちには、無愛想が張り付いている。
「広瀬怒ってる?」
「だからさ、背中は弱いって言ってるじゃん? それで用はなに?」
「俺って変になったか?」
「お前はいつも変じゃん」
「広瀬に言われるぐらいじゃ相当だ……」
「どういう意味!」
「馬鹿に変って言われたんだ。落ち込むだろ普通」
「辛辣じゃん……」
「あいつのことを知ってる?」
健太が朱里を指差すと、やはり広瀬も訝しんだ表情を見せた。
「阿澄さんだろ。お前の幼馴染じゃん」
「やっぱな……そうなんだな」
「ほんとに変じゃん。阿澄さんのこと忘れた?」
「うん。みたい」
「あんな美人を忘れるとか!! 罰当たりじゃん!! もったいないじゃん!!」
「じゃあお前にやるって言ったら貰ってくれる?」
「いただきじゃーん!」
広瀬は、椅子から飛び上がって朱里に駆け寄った。
「じゃあ朱里ちゃん、チューしようじゃん!!」
「ごめんなさい。心に決めた人が居るので」
「だよなぁ……だってよ健太……このリア充!! よかったじゃん……」
「心に決まってる人、俺前提かよ」
まるで日常であるかのように、健太の世界は、阿澄朱里という異物を受け入れていた。