8月11日 ~選択~
団蔵は、小屋の縁側で胡坐をかきながら、薄雲の向こうで輝き始めた満月を見上げていた。
健太と朱里の姿を見つけると、
「全てを知ったかのう」
月から健太に視線を移して、愛おしそうに破顔した。
「俺の前世は、自ら食われた。化け物からこの町を救うために」
そしてこの身体は、灰色の煤を呼び寄せた異国の男の血を引いている。
「ダンじいちゃんは知ってたんだ。俺の魂のことも。御先祖のことも」
「自らを喰らわせることで人々を『あれ』から救い、残った骨と血が穢れた大地を癒し、豊穣をもたらしたのじゃ。以後、その魂は、自らを因果に縛り、この町の大地に血を注ぎ、安寧を与えておる。この町が長寿の街と言われておるのも――」
「健太くんの血肉が町とそこに住む人々に、繁栄を与えるからですよね?」
朱里が言うと、団蔵は、後悔に押し潰されそうな顔で頷いた。
「ダンじいちゃん。一つ聞きたいんだ」
団蔵も健太の行く末を知っていた。
全ての真実を抱えてなお、実の孫のように可愛がってくれたのだ。
「ダンじいちゃんの役割は何?」
ずっと傍にしてくれた。
血の繋がった孫のように愛してくれた。
これまで過ごしてきた時間は、本物のはずだ。
「俺の監視役?」
違うと分かっていたけど、試すつもりでそう聞いた。
ただ、愛していると言ってほしかった。
「わしはのう――」
団蔵は、自嘲の念を浮かべた。
「あの辰原の災で肉を喰ろうた最後の一人じゃ」
嘘偽りを口にしているのではない。
奇跡や怪異と、この数日でうんざりするほど出会っている。
それでも団蔵の言葉は、健太にとって容易く受け入れられるものではなかった。
朱里も団蔵の話を訝しんでいるようだった。
「あなたは……辰原の災のあった七百年前から、生きてるってことですか?」
「いや。とっくに死んどるよ」
「じゃあ今の居るあなたは、幽霊ですか?」
「そうでもない。肉体はちゃんとある」
団蔵は、自分の胸を親指で突き、心臓を囲うように円を描いた。
「死とは概念。輪廻とは法則。わしは、そのどちらからも外れてしまったのじゃ。生きながらに死んでおる。わしは肉を喰ろうた最後の一人。しかし最初の一人でもあるからのう」
「最初ってなんだよ?」
健太が首を傾げると、団蔵は健太の顔を酷く懐かしそうに見つめた。
「あの人に、わしは弟のように可愛がられておってな。だが、わしの身体にも奴らは巣食うた」
辰原の災の元凶、灰色の煤。
辰原に災いをもたらした悪意の正体。
団蔵は、見ていたのだ。
健太と朱里が空想でしか出会えない怪物に。
狂気と触れ合い生じた恐怖の念は、七百年経っても消えないのだと、団蔵の強張った表情が物語っていた。
「あの人は、わしらを救おうと動いておった。煤の宿主に成りすますため、わしらが求める青い果実を自ら喰ろうた。そして気が付いた。あの青い果実が肉の味がすることをのう」
「肉の味?」
「あの人は、気付いたのじゃ。青い果実の肥料となったのは人の亡骸。そして何らかの肉の味の果実。となれば、その味とは――」
「人の……肉ってことかよ……」
「灰色の煤は、青い果実を与え、永久の従属を約束させる。あれはそういう生き物なのだと、後の佐久間の者がわしに教えてくれてのう」
団蔵は、縁側から立ち上がり、健太に歩み寄りながら続ける。
「あの人は、生き延びるためとは言え、浅ましい行為をした。間接的にではあるが、村人の肉を喰ろうたも同じ。その罪滅ぼしをしたかったのかものう」
「罪滅ぼし?」
健太の元へ辿り着いた団蔵は、健太の頭に掌を乗せた。
「あれに巣食われるとな。肉の味が何よりも至上の物となり、逆らうことは出来ないのじゃ。だからわしらには、どうすることも出来なかったのだのう」
団蔵の温度が髪を通して、地肌に伝わってくる。それと同時にうねるような悲哀の念も染みわたってきた。
「血のような味も、脂のような果汁も、あの繊維を噛み締める触感も、全てが……全てが愛おしかった。そんなわしらを助けるために、あの人は、王を名乗る異邦人を殺し、その肉を喰らったのじゃ。そしてわしらに自分の肉を……」
「食べたの?」
健太の問いに団蔵は目を背け、縁側に引き返した。
「するとわしの体内から煤は飛び出してきたのだろう。王と名乗る男の体内にも巣食う者は居った。それは奴らの母体。統率者。それを喰ろうた人間の肉を喰らうは、母体の一部を身体に入れることじゃ。故に子は居られぬ。そして細分化された母体も恐らくは……。その上に奴らの栄養源足る青い果実も同時に失われたからのう」
「そして辰原の災は終わって、村の人たちは救われたんですね」
「故にあの人の兄弟たちは、その後佐久間を名乗るようになったのじゃ。魔を裂き殺した……『裂く魔』とのう。そして残ったあの人の血と骨は、辰原に豊穣をもたらした。それは何故か?」
問うような団蔵の声に、健太も朱里も答えを出すことは出来なかった。
しばし待ってから団蔵は、羽衣のような輝きを届ける満月を見上げて、微笑した。
「きっとあの人は、あの瞬間、神に近い何かになっておったのじゃろう」
「神? 俺の前世が?」
「この国では信仰で神が生まれる。わしらのあの人への想いが、神とは言わずとも、およそ、それに近い存在へと、あの人を昇華したのかもしれんのう。わしらの集合的無意識があの人に力を与えたのじゃ」
「そして俺の魂は――」
七百年続く因果に囚われた。
けれど、もしかしたら健太の前世は、望んでいたのかもしれない。
因果で自らを縛り、辰原という町に安寧をもたらすことを。
「わしも辰原も因果に囚われたのじゃ。恐らくは無垢な力の影響だろう。あの人の加護か。我らの意識かのう。あるいはあの化け物が今でもどこかに潜んでおるのか。どちらにせよ、この町を特異な物にしてしまったのじゃ」
「潜んでるって、どういう意味?」
「わしは見たんだのう。あの日、大虚に灰色の煤が逃げ込んでいくのを確かに見たんじゃ」
「じゃあ、煤は生きてるの?」
「分からぬのう。確かなのは、恐らくあの人の血肉の加護によって、この辰原がもはや奴等に住める場所ではなくなったということじゃ。そうでなければ逃げ帰りはせんだろうのう」
「だけど、煤が居なくなっても、この町は変わってしまった?」
「全てが因果に囚われた町。その結果が今の辰原という町の抱える全てだのう」
団蔵は、大きなため息を付き、呼吸を整えてから、朱里を見つめた。
「わしからも聞きたいことがあるんだがのう。御嬢さんは、何処から来たのじゃ?」
「……未来から来ました」
「健太の魂を助けるためにかのう?」
「はい。私は、龍と出会って過去に来ました。恐らくは無垢な力が龍の形を成したんです」
「そうかのう……きっと辰原に揺蕩う皆の集合的無意識があんたに力を授けてくれたんだのう。健太を救うために」
団蔵は、重い荷を下ろした時のように微笑んだ。
これほど幸福そうな笑顔を健太は見たことがない。
健太の頭を、団蔵の手が撫でた。
固くごつごつと岩のようで、ひときわ温もりの籠った手。
健太が大好きな手。
「そうかぁ。そうかぁ。そうか……よかったのう、健太。よかった……」
団蔵は、何度もそう言いながら至福を噛み締めている。
理解者を新たに得た朱里の表情も綻んでいた。
だが健太だけは、頭の中にたれ込めた暗雲が払われることなく、むしろより厚みを増して渦巻いていく。
「俺が……因果から解き放たれたら――」
健太の前世は、その血肉で辰原に繁栄を与えてきた。
もしもその因果が途絶えたら?
もしも健太が生き続けたら?
加護を亡くした辰原という町は、どのような変貌を遂げるのだろうか。
「この町は――」
「それでいいんだよ!!」
健太が懸念を吐き出そうとした時、朱里の一声がそれを制した。
悲痛で、悲壮で、怒りにも似た声が健太を圧倒し、二の句を紡がせまいとしてくる。
「もうみんながそう思ってるんだよ! もういいよって! 苦しまないでって!」
きっと朱里の言う通りなのだろう。
もう犠牲になる必要はない。
だから、この救済を甘んじて受け入れればいい。
理屈では理解出来る。
しかし感情が甘言を拒絶した。
「でも……それが俺の役目なら……俺は死ぬべきだと――」
「駄目だよ!! 絶対に死なせない! 健太くんは絶対死なせない!!」
「でも、俺が生きていたら、この町は枯れるんじゃないか?」
不安なのだ。
今まで守ろうとしていたのは、自分と朱里の命だけだった。
自分と朱里のことだけを考えていればよかった。
だが全ての真実を知った今、健太が思い浮かべるのは、辰原に住む人々だ。
「そうなったら俺は……」
健太の前世たちが命を捧げて得られた安寧ならば、それを自分の代で壊す権利があるのだろうか?
辰原の繁栄を断ち切る権利は、あるのだろうか?
三万人という膨大な数。
自問すればするほど、同じ答えが浮かんでくる。
今までの『自分たち』と同じ答えに。
「俺……この町が好きなんだ。別に都会でもないし、かと言って特別素晴らしい自然があるわけでもない。でも好きなんだよ。この町の空とか、空気とか、雰囲気とか。そういうの」
「そのために、健太くんが犠牲になるの?」
「犠牲っていうかさ。俺は……」
「わたしは、どうなるの?」
八十年前の過去にやって来て、健太を守るために文字通り命を賭した結果は、守りたかった人が死の因果を受け入れること。
納得出来るはずもない。健太が彼女の立場でも、声を荒げて怒り狂うだろう。
「無責任だよ!!」
それでも――。
「本当を知っちまったら、生きることが罪な気がしてきたんだ」
この魂はずっと――。
「大切なものを守るためだったんだ」
七百年経っても、辰原への愛を忘れなかった。
愛し続けてきたからこそ因果が生まれ、自らそれに縛られた。
そこに最早、辰原を滅ぼそうとした異国の男の血脈なぞ、介在する余地はない。
或いは、運命に抗う行為そのものが、異国の男の血がそうさせているのでは?
もしもそうなら灰色の煤から町を守る加護はどうなってしまうのだろうか?
異国の男の血を受け継ぐ器に、辰原を守り続ける魂が入ったことが偶然ではないのなら?
生きる決断が怖い。
もしもを考えると、後から後から、最悪の可能性が湧いて出てくる。
「だから俺の魂は……」
きっと自分だけの、桐嶋健太の意志だけで決めていいことではない。
「それを俺が解き放つなんて罪だと思う」
――だから俺は。
言おうとした時、朱里が健太の右手を、両手で強く握り締めてきた。
健太が何を言おうとしているか分かったから。
きっと朱里は、それを言わせたくなかったから。
「生きることから、逃げちゃだめだよ!」
「役目からも逃げたくない」
「これは役目じゃないんだよ! 自分で呪いをかけて、後のことも考えず……勝手に全部七百年前に決めて……こんなの自己満足だよ!!」
「この町が長寿の町なのは有名だ。もしもそれが俺の死で維持されるものなら。あの人たちを……少しでも長く生きさせてやれるなら」
「生きさせてやれる?」
朱里の声音が暗く沈みこんだ。
手を包んでいた温もりは離れ、変わりに平手が健太の頬を打ち付けた。
チリチリと熱が広がって、心に堪えがたい痛みを刻みつけてくる。
「……神様にでもなったつもり?」
咎人を前にしたかのように、朱里の声は冷たく、拒絶を色濃く浮き立たせている。
「あなたは神様じゃない。人間だよ」
――分かってるよ。
自分を神などと思うほど、おこがましくはない。
それでも知ってしまった。
「でも俺の魂の器が十六になる前に死に続けているのなら、やっぱりそうすることで、この町が繁栄してきたんじゃないのか?」
目の前に居る美しい少女が教えてくれた。
誰かのために、命を賭けることがどれほど尊いか。
「自分を神様なんて思わねぇよ」
輝く君が教えてくれた。
ほんの僅かな奇跡の残滓でも、それが大切な人のためならば、例え己の命が対価でも躊躇なく振るえるのだと。
「それでも俺は、たくさんの人のためになるなら……」
「もういいんじゃよ」
団蔵は、顔を両手で覆い隠した。
指の隙間から澄んだ雫が零れ落ちている。
「この娘が過去に来たのは、きっと辰原に住む人々の集合的無意識によるものじゃ。それが龍の姿を借りて、彼女の前に姿を現したのじゃ」
団蔵の姿は、まるで健太に許しを乞う童のようだった。
「わしとて救う手だてがないかと思っておった。だがそれは、わし一人の手では、どうにも出来なんだ」
団蔵の声に交じるのは、懇願ようで、赤子の癇癪のようでもあった。
「若さを贄に老いさらばえるなど、人の道理ではない。みんなは十分生きた。わしは生き過ぎた。もうええんだ。これでええんだ」
健太の前世が紡いできたのは、身勝手な救済なのだろうか。
大切な人の想いを踏みにじってまで、辰原の糧となり続けている。
誰よりも健太が自覚しているのだ。
この流れは、どこかで断ち切らねばならないことを。
真実を知るまでは、生き残ることを望んでいた。
そうしても、きっと罪にはならない。
けれど健太には、その決断をする勇気が持てなかった。
自分の代で断ち切る勇気が持てなかった。
「ごめん、ダンじいちゃん。簡単にそうするとは言えない」
「お前自身がこの因果を断ち切りたいと思わねば、わしらに出来ることはないんじゃよ」
「分かってる。でも――」
「もういい!!」
朱里の悲鳴が夜空を揺らし、健太の前から走り去ってしまった。
――追いかけなくちゃ。
「追わんのか?」
――追いたいよ。
「追った方がいいのは、分かるけど……」
――もうよく分からないや。
「もう自分のことで頭がいっぱいだ。他を考える余裕がないよ」
あんなに親身になってくれたのに。
命を懸けてくれたのに。
どんな時でも傍に居てくれたのに。
だけど考えてしまう。
健太が贄とならないことで、辰原の加護や繁栄が失われてしまったら?
未来の辰原はどのように変じてしまうのだろうか?
辰原という町は、存続出来るのだろうか?
もしかしたら辰原で生まれ育った朱里が生まれない末来が出来てしまうかもしれない。
そうでなくとも未来にどのような影響が出るか、未知数だ。
真実や未来を知らなければ、自分のことだけを考えて、自分本位に動けたかもしれない。
けれど今では、安易に生き残る道を選択出来そうになかった。
「……ダンじいちゃん。俺が決めていいんだよね?」
「ああ。だが、わしの想いは伝えたからのう。あとはお前の選択だのう」
「俺が死ぬことを選んだら……ダンじいちゃんは、俺のこと嫌いになる?」
「いや。ただ健太にそうさせてしまったら、わしは自分が許せんだけだのう」
決めなくてはならないのだ。
生きるにしても、死ぬにしても、どっちの選択もわがままだ。
どっちのわがままを取るべきか、健太は、満月に問いながら、朱里を追って駆け出した。




