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humanism of Blattaria  作者: 田中 スアマ
最終話
35/38

人間になりたい

 残された体力からして、一発当てるのが限界だろう。だがその一発で彼を止められなければ、俺はまた多くの命を失ってしまう。これは俺達だけでなく、人間の未来も懸けた戦いなのだ。


 俺は一つ息を吐くと、顔は自然と笑みを浮かべていた。その日暮らしで生きていただけの俺が、まさか人類とゴキブリ両者の命運を賭けた戦いに繰り出されるとは思わなかった。不変の現状維持を嫌っていた俺の願いは、この身体では乗せられない程の命運と共に叶ってしまったようだ。


 だが今は、それも悪くない気分だ。それは恐らく俺の背後に、誰かの未来があるからだろう。ニコやアグニ、マスターにクロイにコギタ。リヴィング・フォシルの連中に加えて、人間の子供達も俺の後ろに控えている。


 それが俺には嬉しかった。誰かの為に命を懸けられる喜びは、何と勇気を奮わせてくれるものか。これこそが俺が愛し、俺の求めていた意志なのだ。


「これで最後だ、アグイ」


「ああ」


 俺達は互いに合図するでもなく、同時に走り出した。チャンスは一度きりだが、出し惜しみするつもりはない。


 俺は背中からアグニの針を取り出すと、アグイの顔面に向かって突き立てた。速力をつければいかに堅牢であろうとも、勢いで貫ける。俺はその一点に賭けた。


 だがアグイはそれを察知したかの如く避け、腹を軽く掠めてから俺の腹に強烈なタックルを食らわせた。


「ゲフッ……」


「お前がそれを隠し持っている事は、さっきの嚙み付きで分かっていたよ」


「クソ、折角預かって来たのに……」


「終わりだベルム。俺はお前を越えて、先に行く」


 身体が内側から崩壊しているかのような感触がし、生涯で二番目の苦しみがやってきた。呼吸がは荒れて上手く空気を掴めず、意識も朦朧としてきた。


 このまま俺はここで死ぬのだろう。それを確かに感じさせる程に、アグイの顔は覚悟を決めていた。


 だがそれでも()()()だ。一番すら越さない俺にはまだ、安らぎの時間は訪れない。


 見ればアグイの顔も、徐々に俺と同じ表情を浮かべた。


「グフッ……。何だこれは? お前、一体何をした!」


「後ろを見てみろ。俺の目の先だ」


「目の先……。お前まさか!」


「ああ、そうだよ」


 俺が伸ばした針の先には、殺虫剤の入った器があった。針は器を完全に貫き、徐々に気化し始めている。


「あんな少量でも、至近距離ならゴキブリ一匹くらい簡単に麻痺させる効力はある。希釈されていない原液なら尚更だ。……折角彼女から借りて来たのに、こんな事に使うとわな」


「最初からこれが狙いだったのか! 毒を散らし、俺に擦り付ける事が……」


「いや。俺の目的は毒を霧散し、お前の動きを止める事だけだった。……お前の身体に毒液が伝っていくとは思わなかった」


「クッ……」


 俺は急いで針を放り投げると、倒れ込むアグイの身体に寄り添った。


「今ならまだ間に合うかもしれない。地下に帰るぞ」


「いや、俺はもう帰らない。誇り高いヤマトは生き恥を晒しはしない。生き恥を晒すくらいなら、このまま死なせてくれ」


 俺はアグイの言葉を無視すると、背中に彼を載せて歩き出した。


「おい、ベルム……」


「俺はワモンゴキブリだ。ヤマトの誇りなど知った事か」


 這うようにして地下への入口へと向かって行くが、限界を超えた俺の体力ではあまりに遠い距離だった。


 俺は何度かアグイを落としそうになりながらも、必死で地下へと向かう。


「ベルム、もういい。止めろ」


「お前に死なれると寝覚めが悪いんだよ。俺はそろそろ幸せな夢を見てみたい」


「お前……」


 アグイは少し黙った後に言った。


「……なあベルム、俺の言った事覚えているか?」


「ああ?」


 突然の言葉に、俺は思わず立ち止まる。


「改めて訊くよ。お前、人間をどう思う?」


「俺は……」


 俺は少し考えた後、静かに言った。


「俺は人間を憎んでいない。人間もまた、この世界に必要な存在だと思っている」


「そうか……、お前らしいな。俺には出来ない考えだ」


「人間の掌の感触を知れば、お前だって嫌でも変わるさ。お前も昔は、人間が羨ましかったんだろう?」


「ハハ、そういやそうだったな」


 入り口まで半分を過ぎた所で、俺はとうとう力を失った。その場に倒れ込んで、煌々と燃える日射を浴び続けた。


「ベルム。俺は生まれ変わったら、人間になりたいよ。人間になって、この空を一日中眺めていたい」


「今でも叶えられるさ」


「そうかもな。……お前はどうだ? お前は生まれ変わったら、何になりたい?」


「俺は……」


 そう言われて俺は気付いた。苦難な日々を歩みゴキブリである事に嫌気が差していても、俺はゴキブリでは無い自分など今まで考えた事も無かったのだ。


 改めて考えてみると、俺は幾つもの生物に美点を見出した。例えばトンボやセミやホタルの様に、美しい身体と音色で空高く飛ぶのも悪くはない。


 あるいは昆虫ではなく、動物も悪くないかもしれない。イヌやウサギ、天敵であるネコやネズミでも成ってしまえば楽しい日々を過ごせそうだ。正直に言うが、奴らのふわふわな体毛には少しだけ憧れもある。


 そして最後に思い浮かぶのは、やはり人間だ。あの子と同じように産まれ、あの子の様な優しい人々に囲まれて30000の日々を生きたなら、それはどれだけ幸せな事だろうか。


 でもその時俺は、ゴキブリを殺すのだろうか。それともあの子のように、慈しみの心を以って接する事が出来るのだろうか? そればかりは分からない。


 幾つも候補は上がったが、それでも一度大きく息を吐いてみると、浮かんだのは一つだけだった。


「俺はまたゴキブリでいい。何の生物だろうと、俺は俺らしく生きていければそれでいい」


「……お前は、やっぱり変わってるな」


 そう言ってアグイは力尽きると、俺の身体に大きく圧し掛かった。


 もう駄目だ。俺達はこのまま死んでしまうのだろうと思った。このまま死に、いつかやって来た人間によってゴミとして捨てられるのだろう。


 目の前の景色が、ゆっくりと歪んでいく感触がした。流れる雲、鉄柵に伝う滴、風にはためくシーツ。全ての光景が遅れていくのが分かった。


 これはアグイの死の覚悟なのだろうか。それとも俺が生み出しているのか分からない。俺の意志はまだ生きていたいと願っても、身体はもう休みたいと思っているのかもしれない。


 駄目だ。もう一歩とて動けそうにない。このまま俺は力尽き、ケープやあの子のように踏み潰されて死ぬのだろうか。


 まあいい。やるべき事はやった。後はもう、全てを覚悟する以外に無い。


 少なくとも俺は、誰かの未来を護る事が出来た。ここで死んでもその誇りを胸に、ケープ達に会いに行けると思う。


「後は神のみぞ知る、か……」


 俺は最後の脚の一本の力を抜き、その場に倒れ込んだ。

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