溶けては固まるチョコレイトのように
「バレンタインにチョコをあげる文化なんて滅べばいいと思うんですよ」
夕子は悪態を込めて小石を蹴飛ばす。蹴飛ばした小石は夕子の不満と一緒に側溝の中へと吸い込まれた。バレンタインに何か恨みでもあるのだろうか? 夕子は私と違ってモテそうなのに。
引き締まった体躯、大きくて勝気な目、すらりと伸びた鼻、小さくてへの字に曲がった唇、短めのボブに切り揃えられた髪には天使の輪が浮いていた。ボーイッシュなかっこよさと少女的な可愛さを持つ夕子は男性からも女性からも好意を寄せられているのを知っている。
「そうは言っても、チョコが貰える人は嬉しいんじゃないかな? イベントに便乗して好意を伝えられるのはいいと思うし」
私はバレンタインにそれほど興味はない。チョコをあげたい誰かもいないし、貰う予定もないからだ。それでも、周りの人たちが一喜一憂するのを見るのは嫌いではない。みんな幸せになればいいのにと心から思う。
「先輩はそう言いますけど、チョコが苦手な人はどうするんですか? 食べ物なら何でもいいとか、もっと幅を広げてくれてもいいと思うんですよ」
夕子は眼を細め、頬を膨らませる。彼女は女生徒からもモテるから、チョコを沢山貰うのだろう。飽きずに一つの食品を食べ続けるというのは酷なことかもしれない。
「それでも、あげる側からしたら真剣なのだし、気持ちを無碍にするのは可哀そうだと思うよ。少しずつでいいから食べてあげるのがいいんじゃないかな」
「先輩はチョコを貰ったら食べるんですか?」
「私は貰えないから考えたこともないよ」
「じゃあ、今すぐ考えてくださいよ」
夕子の真剣な眼差しが私を捉える。長い睫毛から覗く凛々しい瞳にときめいてしまいそうになる。考え事をするふりをして視線を外した。このまま見つめ合うのは何か良くないことが起きる気がしたからだ。
「私、どうしてもチョコは苦手なの。子供のころ食べ過ぎて鼻血が止まらなくなったことがあるから」
「それじゃあ、先輩は貰っても食べられないじゃないですか」
夕子は残念そうに肩を落とす。私のことを心配してくれているのだろう。食べたい気持ちはあるのだけれど、食べようとすると子供の頃の悪夢を思い出してしまうのだ。何か方法が無いか思考を巡らせる。
「そうだ! 食べられなくても飲むことは出来るんじゃないかな。湯銭して溶かしてホットチョコレートとして頂くの。これなら多分大丈夫だよ」
夕子は何かを考えるかのように首をかしげる。私達はそのまま、電信柱二本分の距離を歩いた。
「ねえ、夕子、上の空のままだと危ないよ。そろそろ、現実に戻って来てよ」
「それじゃあ、先輩。明日の放課後空いていますか?」
現実世界に帰って来た夕子は噛み合わない返事をしながら瞳を輝かせていた。
「うん? 明日も暇だから大丈夫だよ。私達、だいたい毎日一緒に帰っているよね?」
「そうだけど、だいだいだとダメなんです! 約束は大事ですからね」
「私はいいけれど、夕子はいいの? 明日は忙しいでしょう?」
「貰っても返せないですから。それなら、貰わないようにさっさと帰る方がいいと思いません?」
夕子らしい考えだと思った。好意は双方向で成り立てばいいけれど、一方通行だと送る方も貰う方も辛いのだ。それなら、いっそのこと、その機会を無くしたいということだろう。
「わかったよ。口実作りに私を使うんだね。報酬は何か期待してもいいのかな?」
「もちろん、ただとは言わないですよ。私、最近お菓子作りにはまっているんです。カップケーキとホットショコラをご馳走しましょう」
「それは楽しみだね。ありがたく頂戴するよ」
私がそういうと夕子は嬉しそうに頬を緩める。よっぽど自信作なのだろう。そんな顔をされると明日が余計に楽しみになる。私も夕子に何かプレゼントを買った方がいいのかな。チョコは沢山貰うのだろうから、何か別のものがいいかもしれない。
あくる日の放課後、チャイムが鳴ると同時に夕子がクラスに飛び込んできた。
「先輩! 一緒に帰りましょう!!」
「わかっているよ。そんなに急がなくても、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃありません! 時間は有限なんです!!」
「はいはい。それじゃあ、帰ろうか」
私はカバンを抱えると、夕子と一緒に教室を後にする。バレンタイン当日、廊下では告白合戦が開催されていた。頬を染める女の子。嬉しそうな男の子。ぶっきらぼうに渡す女の子。照れくさそうにしている男の子。人の恋愛を見ていると気分が上がるのは何故だろう。そういえば、嬉しいという気持ちは伝染すると聞いたことがある。きっと、恋するエネルギーのお裾分けを貰っているのだろう。私が足を止め、そんなやりとりを眺めていると、夕子が袖を引っ張る。
「先輩、他人の恋愛に気を取られている場合じゃないですよ」
「わかっているよ。みんなの幸せそうな顔を見ていると私まで嬉しくなるよね」
「ずるいですよ。そんな顔をしたら急かせないじゃないですか」
「そう言いながら袖をぐいぐいと引っ張っているけどね」
夕子ははぶてたのかそっぽを向く。これはそろそろ怒り出すパターンだ。私は諦めて引き摺られて行く。こうしていると手を繋いで歩いているように見えるのではないだろうか? でも、そんなことを口に出したら夕子はもっと不機嫌になるだろう。私は口を噤んで引っ張られるがままについて行くことにした。
夕子の家に到着した。三階建ての白くて大きな家だ。夕子はお金持ちなのにそういうのをおくびにも出さない性格だ。以前、尋ねたことがある。夕子の返答は「私の力じゃないものを自慢してどうするんですか。虎の威を借りる狐になんかなりたくないですよ」だった。彼女は何だって自分で頑張るのだ。そこがかっこよくて、でも、たまには頼って欲しいななんて思う。
「お邪魔します」
「先輩いらっしゃいませ~。それでは早速、一緒にカップケーキを作りましょう!」
「えっ、私も作るの? 料理苦手だよ? お菓子作ったことないし……」
「それなら、これを機会に覚えちゃいましょう! 簡単ですし、お菓子を作るもの楽しいですよ!」
荷物を置くと、夕子に背中を押されながらキッチンへと立った。既に調理器具は並んでいた。事前に準備をしてくれていたのだろう。夕子にエプロンを着せられながら、作り方の説明を聞く。
「今日は先輩が初めてということなのでシンプルなのにしましょう。ホットケーキミックス、お砂糖、牛乳、そして油を入れて混ぜるだけですね。ほら、簡単」
夕子はそういうと材料をボウルに入れ、泡立て器でシャカシャカと混ぜ始める。
「先輩もやってみてください。ほらっ」
「えっ、うん。失敗しても怒らないでね?」
「どうしようかな~? って、冗談ですよ。私、先輩のことを怒ったことなんてないじゃないですか」
「そう言われればそうかもしれない。夕子は心が広いんだね」
そんなんじゃないですよなんて言いながら、夕子の頬がほんのりと赤く染まる。感情が表情に出やすい性格なのだ。私は泡だて器でかき混ぜながら夕子の横顔を眺める。顔色が戻らないけれど、大丈夫なのだろうか?
「夕子、大丈夫? 体調が優れないのなら、私一人で作るよ?」
「大丈夫ですよ。少し暖房を利かせ過ぎたみたいです。それに、私が休んだら誰が作るんですか」
「カップケーキならもう完成でしょ? これを型に入れて焼くだけで……」
「ホットショコラも作るんですよ。先輩、昨日の約束忘れちゃったんですか?」
「そういえばそう言っていたね。飲み物だからインスタントなのかと思っていたよ」
夕子は不敵に笑うと冷蔵庫から牛乳とおしゃれな小箱を取り出す。
「それじゃあ、先輩にはこちらのものを刻んで貰いましょうか」
そう言っておしゃれな小箱を手渡される。中にはチョコレートが入っていた。
「私チョコレートは食べられないよ?」
「先輩、昨日、飲むのなら出来るとおっしゃいましたよね?」
「もしかして、ホットショコラって……」
「チョコレートもショコラも同じものなんですよ?」
「ココアのようなものだと思っていたよ……」
「ものは試しですよ。飲めなかったらその時に考えましょう!」
私は包丁でチョコレートを細かく刻んでいく。その間に夕子はカップケーキをレンジに入れ、牛乳を鍋で温めていた。
「先輩、そろそろいいですよー。鍋の中にチョコレートを入れちゃってください」
おそるおそるチョコレートを入れていく、しっかりと溶けるように、少し入れてはかき混ぜ、少し入れてはかき混ぜを繰り返していく。
「先輩」
「何?」
「こうやって、二人で料理を作っていると、初めての共同作業って感じですね」
「そういえば、夕子と何かを一緒に作るのは初めてだね」
夕子の目がそういう意味じゃないだろと訴えてくる。私にはどういう意味かはわからなかった。わからなかったけれど。頭に浮かんだ言葉はあった。
「初めてなのに呼吸が合っているから、私達は相性がいいからかもしれない」
夕子の目が嬉しそうに輝いた。どうやら、そういう意味だったのだろう。
「当り前じゃないですか。私、以上に先輩と相性がいい人なんていないですよ」
嬉しそうにホットショコラをかき混ぜる。その横顔を見ていると心がとても温かくなった。電子レンジが調理を完了した音を鳴らす。
「さて、完成ですね。それじゃあ、こっちもコップに移しましょう」
ドイツの高級ブランドのカップにホットショコラを注いでいく。部屋中に広がるカカオの香り、私には久しぶりに嗅ぐ懐かしい香りだった。
出来上がったものをテーブルに並べて、腰を下ろした。初めて作ったお菓子なのに、上手に出来ているのは、夕子のおかげだろう。喫茶店で出てきてもおかしくないような出来栄えに私は驚嘆する。
「それじゃあ、先輩。頂きましょう」
カップケーキをスプーンで掬い口に運ぶ。焼きたてほかほかのカップケーキは香りも良く、今まで食べたお菓子の中でも一番おいしい。私が目を瞬いていると、夕子は嬉しそうににんまりと笑う。
「ホットショコラも味をみて貰っていいですか?」
私は小さく頷き、カップを手に取った。食べるのではないから大丈夫。自分にそう言い聞かせ、恐る恐る口に含む。カカオの風味にミルクの滑らかさが加わり口の中で広がっていく。ほんのりウイスキーの味もする。体も心もぽかぽかと温かくなる味だった。
「美味しいよ、夕子。もしかして、私の苦手を克服するために作ってくれたの?」
「それもありますけれど、今日は何の日ですか?」
夕子はホットショコラを口に運んだ。
「バレンタインだね」
「そうです。私から先輩にチョコレートをプレゼントしたかったんですよ」
「ありがとう。友チョコってやつだね。嬉しいよ」
少しの間があった。私はその不自然な間が何を意味するのか理解していなかった。
「本命だって言ったら引きますか?」
驚いて夕子の表情を見る。真っすぐな眼差しが私を捉えていた。精一杯の勇気を振り絞って言っているのだ。震える夕子の頬に一筋の流星が零れ落ちる。
私にとって夕子は大事な後輩で仲の良い友達だ。それ以上のことは考えたことがなかったし、考えるつもりもなかった。
それでも、真剣な思いには真剣に答えないと失礼だ。私は夕子の手を握りしめる。
「せん……ぱい……?」
「夕子が私のことを好きになってくれてありがとう。私のどこに魅力があるのかわからないけれど、嬉しかったよ」
「その上で言うね。私は夕子の気持ちには応えられないよ。ずっと、友達として見ていたんだから、急に恋愛対象としてと言われても困るよ」
「急にじゃなければ考えてくれますか?」
「えっ」
「急がなくてもいいです、少しずつ好きになって貰えれば」
瞳を潤ませる夕子に組み伏せられた。触れ合っている体が震えているのがわかる。どうしよう。とても可愛く思えてくる。
「友達から恋人になるケースだって多いじゃないですか。だから、私待ちます」
待って、顔が近い。全然待ってない。夕子の吐息がくすぐったい。頭がおかしくなりそうだ。
「ねえ、それより少し離れて? 身動きが取れないんだけど……」
「嫌だって言ったらどうします?」
唇と唇が触れ合った。みずみずしい花の香りが口の中に流れ込む。私の微かな抵抗をあざ笑うかのように、花の香りが口内を満たしていく。なんだこれ、気持ちが良い。
弄ばれてぐったりとしていると、夕子は小悪魔のような表情を浮かべた。
「それじゃあ、先輩。もっと気持ちのいいことしましょうか?」
このあとめちゃめちゃにされました。
バレンタインの日にアップする予定がずれこんでホワイトデー直前になりました。
私からのバレンタインプレゼント、楽しんで貰えたら幸いです。