阿佐ヶ谷
正月休みのTVで芸能人が昔住んでいた家を訪ねるという番組を見た。
ザッピングしていて偶然に見かけた番組だったけれど、意外に面白かった。
その影響で私も昔住んでいた場所が今どうなっているかが急に気になりだして、成人の日に阿佐ヶ谷に出かけた。
阿佐ヶ谷は私が大学に入学してから卒業するまでのちょうど4年間を過ごした街である。
入学が1975年(昭和50年)で卒業が1979年(昭和54年)なので、40年も昔のことである。
大学卒業後、就職してから現在に至るまで東京や横浜にずっと住んでいるけれど、
通勤路線が中央線とは無縁なこともあって、卒業後は阿佐ヶ谷とはすっかり疎遠になった。
私が大学4年間を過ごしたのは、阿佐ヶ谷駅から中杉通りを南下して青梅街道を渡り、都立杉並高校
から善福寺川を越えた先にある学生アパートだった。駅から徒歩20分ぐらいの距離である。
そのアパートは閑静な住宅街の中にある昔ながらの建物であった。
結構広い敷地の中には、大家さんで60歳すぎのおばさんが一人住む母屋があって、廊下で木造モルタル造りの2階建てアパート部分が繋がっている。部屋は全8室で男子学生限定。
風呂はなく、トイレは共同。一階の洗面所の横には、自炊用のガスコンロがあり、電話は呼び出し制。
今では想像もつかない低スペックであるが、当時はごく平均的な仕様であった。
庭も広く、運動不足解消のためバットの素振りなどをした覚えがある。
入学や卒業等の入れ替わりで住人の顔触れは毎年変わるものの、大体いつも満室であった。
当時既に20年以上の歴史のあったこの学生アパートの特徴は、入居してから卒業まで住み続ける者が多かったということである。
入学当初の私も、「阿佐ヶ谷は大学に通うには少し距離があるし、せっかく東京に出て来たのだから、色々な街に住んでやろう。」と考えていたものの、結局冒頭に書いた通り、卒業まで一度も引越しをしなかった。
「アパート」と書いたが、私たち住人は皆「下宿」と呼んでいた。その理由は、当時でも既に稀な「食事付き」であったからである。食事は朝晩の2食で毎日提供される。
食事が不要な日は予め申し出ることになっていた。
ここに住む学生たちは地方から上京して来て、ここで「同じ釜の飯を食った」者同士になるので、通う大学は様々であったがすぐ懇意になる。
私が住んでいた時には関西出身者が多く、大阪弁や河内弁が日常的に飛び交っていたので、私は東京で奇妙な混合関西弁のヒアリング能力を習得する羽目になった。
皆で一緒にボーリングをやったり、マージャンしたり、酒を飲んだりと本当に良く付き合った。
盛り上がりに欠け一度きりになったけれど、近くにあった女子大の寮生との合コンもあった。
ある夜、私が帰宅すると、私の部屋には3人の下宿生がいて、テレビのナイターを見ていた。
当時は誰も部屋のカギをかける習慣はなかったし、ここまでは別に構わないのだが、その時は私がアルバイトをして買ったサイフォンとコーヒーミルを使用し、秘蔵のコーヒー豆まで勝手に使って皆でコーヒーを飲んでいた。
私の部屋は割と綺麗にしていたし、当時の学生には贅沢品であったカラーTVもあったので、「サロン 沢木」と呼ばれ、よく人がたむろしていた。
また、たまには自慢のコーヒーを振舞うこともした。
だけど、無断でコーヒーを飲むのはさすがにやりすぎじゃないかと思って抗議しようとしたら、
「おかえり~」ととぼけたイントネーションの関西弁で機先を制せられて苦笑いするしかなかった。
この下宿では入居者は全員「女の子を連れ来てはダメよ」と大家さんから最初に釘を刺されていたが、そこは血気盛んな年ごろでもあり、多くの武勇伝があった。
また、恋愛面以外にも様々な伝説的なエピソードが毎年のように発生していた。
これらを書き出すときりがないので、今回は省略せざるを得ないのが残念である。
住人が引越しをしない理由は、ここでは東京での一人暮らしの「孤独感」に陥ることなく、住人同士のコミュニケーションが快適なのでわざわざ手間暇かけて引越しをする気にならないからだったと思う。
すっかり前置きが長くなってしまった。
1.阿佐ヶ谷駅界隈
朝11時に阿佐ヶ谷駅に到着。
相変わらず阿佐ヶ谷は休日には快速が通過してしまうので乗り換えが面倒である。
駅の北口は西友はそのままだったけれど、再開発でかなり雰囲気が変わっていた。
南口のロータリーは昔と大体同じ感じ。
一方で馴染みのあった駅付近の店は軒並み無くなっていた。
喫茶店の「茶居花」や「ポエム」、安くてボリュームのあった洋食屋の「チャンピオン」等など。
まあ、40年経過しているから仕方がないよね。
駅の東側にあった「ゴールド街」は既に取り壊されていたけど、西側のダイヤ街ともども「ビーンズ阿佐ヶ谷」という名前でリニューアルされていた。
アーケードのある「パールセンター」は今でも健在。だけどやはり店はかなり入れ替わっているようだ。
上京直後に、机や小さめな衣装ダンスを買った学生向けのお手頃価格の家具屋が当時は2~3軒あったが今はもう1軒も見当たらない。
パールセンターの中ほどにあるスーパーの「大丸ピーコック」は当時おしゃれなイメージが強かったが、今は若干くすんだ雰囲気になっていた。後で調べたら今はイオングループの傘下に入り、「ピーコックストア」という名前になったらしい。
近くにもう一軒、食料品以外に衣料品も販売するスーパーがあった。確か「阪急共栄ストアー」という名前だった。
当時のプロ野球は阪急の黄金期であったから、阪急が毎年のように日本シリーズで優勝し、それを受けて感謝セールが行われたので、冬物のセーターやコートを買った記憶があるが、今はもうなくなっていた。
2.中杉通りから下宿まで
阿佐ヶ谷と言えば中杉通りのイメージが強い。
南北に広い道路が一直線に伸びていて、南は青梅街道に接している。
道の両側は立派なケヤキ並木で、特に春は若葉の浅い緑色がとてもみずみずしく気持ちが良かった。
今は冬なので葉はすべて落ちており、東京独特の乾燥した冬晴れの空がよく見えた。
阿佐ヶ谷に住み始めたころは、ケヤキ並木なのになぜ中「杉」通りと呼ぶのか不思議に思っていたけれど、後日、中野区と杉並区を結ぶ道路なので単純に「中杉」通りと命名されたと聞いてやや拍子抜けしてしまった。
確か大学入学直後の4月中旬の夜8時ごろ、駅からから下宿に帰る途中、中杉通りで人だかりができていた。
何かなと思って立ち止まって見ていると、寺山修司がゲリラ的に市街劇を行っており、警察官ともめていた。
これを目の当たりにして、「さすが東京だなあ」と妙に感心した記憶がある。
中杉通りと青梅街道の交差点を南に渡ったすぐのところで、地下鉄丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅の近くのビルに「書原」という比較的大きめの本屋があったが、今はもうビル自体がなくなっていた。
この本屋は一寸変わった造作で半地下のような1階部分と中2階的な二層に分かれていて、品ぞろえもなかなか特徴があった。
大学の教科書や専門書は専ら大学生協で購入していたが、この本屋では「平凡パンチ」といった雑誌の他に高橋和巳やアラン・シリトーの小説全集を買った。
特にここでは阿佐ヶ谷在住の漫画家の永島慎二の本が多く並べられていて、私はアルバイト代をつぎ込んで青林堂版全集を奮発し、今でも大切に持っている。
ちなみに私は高校時代から永島慎二のファンであり、東京に出てきてまず阿佐ヶ谷に住むことに決めた理由の一つは、彼の代表作の「黄色い涙」の舞台が阿佐ヶ谷であったことにある。
「書原」の2階の隣には、電器屋があったと記憶している。
東京の住居が決まって引越荷物を自宅から搬出し、今度は阿佐ヶ谷の下宿で荷物を受け取って、いよいよ待望の東京生活を始める日には父親が同伴した。
私は照れくさいので「一人で大丈夫」と断ったのだけど、私が通うことになった大学を一度は見ておきたいということで押し切られた。
下宿で大家さんに挨拶したあとで、いったん大学に向かうために阿佐ヶ谷駅を目指して歩いていて、青梅街道の横断歩道で信号待ちをしていた時に父が「書原」の横の電器屋に気付き、急に「ちょっと寄っていくか」と言った。
そして特に頼みもしなかったのに、小型の冷蔵庫と当時の値段で10万円以上もしたソニーのカラーTVを買ってくれた。
電器屋のご主人はものの20分くらいで支払いまで完了したので、上機嫌だった。
息子が一人暮らしをするので、ハイテンションになった父が衝動買いをしたのではないかと思われる。
「書原」の横の細い道を南に少し進むと、良く利用していた銭湯と併設のコインランドリーがあったが、これも今では跡形もない。 まあ、今の杉並では銭湯の需要は少なくなったのだろう。
銭湯のあったあたりを右折して住宅街を西にだらだら下っていく。
この辺りはほとんど感じが変わっていない。数分歩くとまた左折して、都立の杉並高校を越えて善福寺川を渡るといよいよ目的地に到着する。
かつての下宿は杉並区役所の出張所の前にあり、近くには熊野神社や区立の小学校があったけれど今はどうなっているのだろうか。
実は下宿自体が今はないことは以前から承知していた。
私が卒業して3年後に、おばさんが高齢を理由に下宿をたたみ、故郷の山口県に引っ越したのだ。
その半年前には、かつてここでお世話になった者が集まって記念の謝恩会を開催した。
その時の写真を見ると、卒業後10年以上経た大先輩も含め、在京者を中心に20名以上が集合している。
下宿のあった場所は、土地が細分化され普通の住宅になっていた。
目の前の区役所の出張所は介護のデイケア施設になっている。
近所の家の庭にあった八重桜の大木が見当たらない。
この八重桜はとても見事な花を咲かせてるので、通学の途中に眺めるのが毎春の楽しみだった。
なくなっていたのがちょっと残念だった。
一方で区立小学校や熊野神社は健在であった。
この小学校は当時、選挙があると投票所になっており、私が人生初の投票に行ったのもこの小学校であった。
また、せっかく来たので熊野神社にお参り行こうと歩いていたら、神社の入り口のすぐ横手に昔ながらのたばこ屋の「安盛堂」が当時の佇まいのまま今でも存在しているのを見つけた。
ここでは下宿の学生がたばこや飲み物をよく買っていたが、コンビニ全盛の現在に至っても、昔ながらのたばこ屋さんが営業しているのを発見してすっかりうれしくなってしまった。
この辺りも一戸建てばかりの由緒ある住宅地のままで付近にはマンションがないため、緑の多い雰囲気は40年前とさほど変わっていなかった。
約40年ぶりの阿佐ヶ谷訪問は2時間半で終了した。
駅前界隈は大きく変貌していたけれど、青梅街道を越えたあたりからは昔の面影が十分残っており、とても懐かしかった。
当時はさほど感じなかったけれど、今になると大学時代の4年間は自由で楽しい人生の黄金期であったとつくづく思う。
その黄金期をこの街で過ごせたのは本当に幸運であった。