EPISODEi-13
ピシッ―――
イチシの背に触れるか触れないかの瞬間、空間に亀裂が入り、見えない力で二人は弾き返された。
「―――やめな。あんたたちもドラセナの呪いを受けたいのかい」
いつの間にそこに立っていたのか、気が付けばマディラ=キャナリーがそこにいた。
「マディラ様―――どんな呪いを背負う事になろうと、オレはクレスト=シェトラをこの手に収めたいんですよ」
レアデスは特級捕縛士を相手にしても臆する事なく、かといって虚勢を張るわけでもなく、落ち着いた声で問う。
「アンタ―――クレストの息子だって?あいつに《家族》はいなかったはずだよ。受精バンクでクレストの精子が使用され、子供が産まれた。何十人、何百人と。アンタはその内の一人に過ぎない」
「何故マディラ様が知っているんです?あなたはクレスト=シェトラとどういう関係があるんですか?」
そう、全てを知りたいのならば、イチシではなくマディラ=キャナリーに聞くべきなのだ。
生きていたはずのクレスト=シェトラを知っているのだから。
「あたしとクレストはかつて同じ地で生きた。それだけの話さ」
「それだけ?それだけのはずがない。あなたは何かを隠している」
レアデスはマディラの次の言葉を待つ―――レアデスが必死なのは伝わった。
何故己の出生を追うのかは分からないが、彼にとっては全ての言動の中心にある目的なのだ。
「―――ハッ!!」
マディラは突然笑い出した。
「何がおかしいんです?」
「確かに―――しつこい所は、あいつ譲りかもしれないね」
(目が笑ってない―――)
マディラの表情はこわばったままだった。
再会してからのマディラは、感情を無理やり殺してしまったかのように、冷たく、誰もかもを突き放すような空気をまとっている。
ドラセナ=ロナス抹殺に懸けるマディラの強い想いの表れだろう。
リュクシーが初めて見たマディラはまだ人間だった。
強い意志を秘めた捕縛士なんだと思った。
シェイド体は皆、いつかはこうして《人》から外れてしまう末路しかないのだろうか?
カライのように、人に執着し、狂気に捕らわれ、魔人となるか。
マディラのように、感情も思い出も捨て、生ある時に成し遂げられなかった事を果たすか。
それともシェイド体の数だけの悲しい結末があるのだろうか―――
「クレストの息子。あんたがその肩書きで何かをしようと言うのなら―――この店の5階に行ってみな」
「5階へは紹介がないと入れないですよ。マディラ様がオレに招待状をくれるんですか?」
マディラはレアデスに握り拳を差し出した。
指を開くと、そこには1枚の紙切れを折り畳んだものがある。
「招待状じゃあないが―――あんたにはこれをやろう。《その時》が来るまで、肌身離さず大切に持っていろ」
レアデスはゆっくりと―――マディラの顔色を伺いながら右手を伸ばし、紙切れを受け取った。
「上に行くには、クレストの息子だと名乗ればいい。そしたら分かるだろう。あいつがどんな人間だったのか」
「……」
レアデスは一瞬しか考えなかった。
店の中心にある大階段へ駆けて行き―――従業員に向かって何かを話しているようだ。
レアデスの元に何人かの従業員が集まり、少し揉めていたようだったが、程なくしてレアデスは階段を昇り始めたのだった。
「クレスト=シェトラがDr.シュラウドなのか」
リュクシーも、当然の疑問をマディラにぶつけてみた。
まるで同じ造形の顔立ち―――異なるのは皮膚に刻まれた皺だけ。それは齢の差だ。
血縁者なのか―――?
一人は肉体を失いシェイドとなり、一人は今も生き永らえているのか?
それとも―――生きながらにして、自身のシェイド体を自在に操れる?
シェイド体の年齢さえも意思一つで変化させる事ができるのか?
「あたしの知るクレストは死んじまったはずさ」
「じゃあ、Dr.シュラウドは何者だ!!あの男は―――生きているのか……!?」
感情を持たず、冷たい―――冷え切った表情のDr.シュラウド。
確かに―――終わりの瞬間に捕らわれて現世を彷徨うシェイド体が、感情から逃れられるとは思えない。
―――生きているから?
だからこそ、感情を捨ててもそこに在る事ができるのか。
(感情を捨てて―――?)
感情を捨てるという事は、生きる意志を失うという事だ。
生きているという実感を持たないという事だ。
そんな者が、メダリアのトップに収まり、捕縛士を育成しようなどと思うだろうか?
目的を持ち、その実現に向けて行動する事ができるだろうか?
リュクシーにはどちらも不可能だと思えた。
だからこそ分からなくなる―――Dr.シュラウドとは何者なのだ。
「あたしにも分からないね。―――それにもう、どうでもいい事だ」
マディラの成すべきは、もはやドラセナと共に消滅する事だけだった。
マディラとドラセナが《死んだ》という事実の前に、裏に誰かの謀略があったかどうかなど、今となっては関係がない。
「これだけは断言する。今回の作戦にクレストは関係ない。―――クレストの事は忘れな」
「さっき同じ時を生きていたと言ったのに、『関係ない』のか?そんな都合の良い話があるものか」
姿を現してまで、クレストの記憶を呼び起こす事を阻止したマディラだ。
そこには知られて困る何かがあるに違いない。
「まずは生き延びなければ、その先にも辿り着けないという事さ」
「……それがイチシとした取引か?」
マディラが情報を制限する理由―――イチシが既に知っているはずの情報を、リュクシーから遠ざけようとする理由。
想像がついてしまうのだ―――望まない答えであっても。
―――マディラは応えなかった。
それが真実を物語っていた。
「お前達は皆、イチシが死ぬ事を前提に動いているが―――私は違う。絶対に死なせない」
イチシでさえも―――自分の命と引き換えに、リュクシーたちを守ろうとしている。
そんな事にはさせない。絶対に―――リュクシーこそが、命を懸けてイチシを守る。
無理なんだよ―――
だがマディラの瞳は、覆しようのない結末が既に見えているかのようだった。
リュクシーの放つ生を渇望する激しいシェイドも、マディラの深い悲しみに満ちた重苦しいシェイドとぶつかった瞬間に取り込まれてしまいそうになる。
不安に飲み込まれそうになってしまう―――
(―――ダメだ!!絶対に諦めては……!!)
リュクシーは両方の拳を握り締め、歯を強く食いしばった。
自分の中にある悪い気を発するものを、追い出したかった。
「う――――…ん……」
その時、死んだように眠っていたイチシが、声を漏らしながら動いた。
横でリュクシーが大声を張り上げたせいか、そろそろ覚醒するようだ。
「イチシ、起きろ。帰るぞ」
どちらにしろ、今日のイチシはもう使い物になるまい。
明日また出直そう―――そう思い、イチシを起こそうと手を伸ばし、恐る恐る背中を突付く。
ララック酒の誘引効果はもう影を潜めたようだった。
甘い香りも酒の臭気に姿を変え、そこにはただの酔っ払いがいるだけだ。
「おい、イチシ。起きろ―――今、水をもらってくるから」
上半身を引き起こし、ゆさゆさと揺さぶると、イチシは眉間に皺を寄せて唸るだけだった。
リュクシーが手を離すと、そのままゴツンと鈍い音を立てて固い木の机に額を打ち付ける。
「リュクシー」
「何だ。まだ何かあるのか」
足は止めたが、マディラに振り向く事はしなかった。
リュクシーの足首をつかみ、狂気に溺れかけるイチシから引き離そうとする者たちと真実が語り合えるとは思わない。
「あと数日で役者がそろう。その後、イチシには時計塔へ向かってもらう。アンタは―――アンタがその時に感じたままに行動しろ。それでいいはずだ」
マディラもかつて、煙に巻かれながら必死に階段を駆け上った―――その先にあるのは絶望しかないと知りながら。
在ったのはただ一つ。
ドラセナの元へ、自分を見つめるあの瞳を守るため―――
自分の中にあんなに熱い感情があったのなら、もっと早くに気付きたかった。
もっと―――ドラセナと向き合えば良かった。
だが、それでもマディラは幸せだったのだろう。
最後の最後に気付く事ができた。
ドラセナはまだ知らない―――今も暗闇の中でたった一人、泣きながら脅えているのだ。
「ドラセナは―――あたしの娘だ。だから、あたし自身の手で終わらせる」
リュクシーは振り向いた―――今マディラが口にした言葉は、真実であると思ったから。
「アンタなら―――分かるだろう。あたしがやらなくてはならない理由が」
その瞳に秘めた決意―――それはかつてリュクシーが抱いたものと同じ光だった。
「それでも……イチシは渡さない」
二人の視線は平行線だった―――どちらも譲れない理由があった。
成し遂げる意志も強さも。
だが願いが叶うのはどちらか一方なのだろう―――敗れた者は、大切なものを失うのだろう。
「後悔したくないからな」
マディラのように―――
母と娘の間に何があったのかは分からない―――だがマディラがひどく後悔しているのは感じ取れた。
悲しい結末を見たシェイド体―――結末を過ぎても、未だ終わる事のできない魂。
自分たちはそんな場所へは行かない。
なんとしても生き続けるのだ―――イチシと二人で。
「やれるだけやってみな」
視線を外したのはマディラが先だった。
この娘はきっと、強く生きる―――生き延びて、マディラには辿り着けなかった場所へと達するだろう。
捨て台詞のように吐き捨てたが、マディラの顔は笑っていた。
ゴデチヤの港で出逢った時のような―――人間らしい笑みだった。
「言われなくとも」
マディラが去る背中に向かって、リュクシーはつぶやいた。
ライトの光の届かない酒場の片隅まで行くと、マディラの姿は背景に溶け込んで見えなくなってしまった。
《人間らしく》在る事に、もはや重きを置いていないのだろう。
マディラは一瞬でどこにでも行けるし、姿を現すも消すも自由自在というわけだ。
(人間らしく―――意識しなければ、そんな当たり前の事でさえ、当たり前にできなくなる)
マディラを支えているものは―――カライとは違う。
彼女が死の瞬間に抱きかかえていたものは、絶望ではなく、我が子への愛情だったはずだ。
彼女ならば、再び訪れる死の瞬間の中でも―――《人間らしさ》を失わないでいられる気がした。
だが、それを再現するには―――新たな生贄が必要なのだ。
二度とドラセナ=ロナスを蘇らせないように―――彼、いやマディラは娘だと言った―――彼女に関わった人間全てを葬り去る。
(―――本当にそれで終わるのか?)
新たに奪われた命から、新たなドラセナ=ロナスが誕生しない保障などない。
人間が存在し続ける限り、それは断ち切る事のできない宿命なのではないか。
断ち切ろうとする事に意味があるのだろうか―――
リュクシーが葬ったシェイドたち―――彼らも再び、現世に蘇る事があるのだろうか?
新たな宿主を手に入れて。
―――――◆―――――◆―――――◆―――――
「目が覚めたか?」
イチシがようやくはっきりと目を覚ますと、リュクシーがテーブルの向こう側から呆れた顔をしてこちらを見ていた。
どうやら酒の飲み比べは負けたらしい―――イチシに勝つなんて、ジン以外には在り得ないと思っていたのに。
「あいつはどうした」
酒で声が潰れたか、イチシの声は低く濁っていて、聞き取り辛い。
リュクシーは吹き抜けの方に目をやり、階段を指差した。
「5階に用があるらしい」
頭痛がするらしく、イチシは頭を抱えたままだ。
リュクシーは水差しの水をコップに注いでイチシの前に置いた。
「これくらいでこんなに酔うはずがないんだが―――」
負けた言い訳をするのはみっともないと思いながらも、イチシは思わずつぶやいた。
「……レアデスが薬を入れていたのかもな。誘引効果が増す類を」
「なに?」
「最初から―――そのつもりだったんだ、レアデスは」
「あの野郎」
吐き出すように言うと、イチシは水を一気に飲み干した。
「だから挑発に乗るなと言ったのに。こんな事なら私が勝負すれば良かったな」
「何言ってる!―――あんたは酒はダメだ」
リュクシーの言葉に驚いたようにイチシが言う。
その剣幕に逆にリュクシーが驚いた。
「明日―――ちゃんと検査を受けろよ、いいな」
―――イチシが怒った理由が分かった。
自分の中にある可能性の事を心配しているのだ、イチシは。
ジンの娘、クレストの息子、マディラの娘―――リュクシーにもそういった繋がりが出来るかもしれないという事は分かっていたが、実感が沸かなかった。
リュクシーは複雑な気持ちだった。
今―――イチシの生を背負う事で精一杯な現状に、新たな命が負担となって圧し掛かるのではないか。
そう、負担となるのではないか―――イチシの為に使おうとしている力を、他に割かなくてはならなくなるのではないか。
極端な話、自分を取り巻く世界が変わってしまうような気さえしていた。
―――いや、違う。
変わってしまうのは自分自身だ。自分の自分に対する見方が変わってしまうのだ。
未知の自分を抱えて、この世界に挑まねばならないのだ。
想像も付かない―――それがリュクシーの本音だった。
「酔いは覚めたか?今日はもうホテルに戻ろう。これ以上変なシェイドに取り憑かれたら厄介だからな」
答えをはぐらかしたリュクシーに、イチシは何も言わなかった。
イチシはイチシで複雑な想いなのだろう。
そう、リュクシーだけの問題ではない。
もし子供が出来ていたら―――イチシはますます頑なに、自分を犠牲にして皆を助けようとするかもしれない。
店を出ようと席を立つと、上階から怒号が聞こえる。
「レアデスが暴れているらしいな―――」
「きゃああっ」
悲鳴が聞こえたかと思うと、吹き抜けの5階部分から大きなテーブルが落下して行くのが見えた。
ドガァァン――――ッッ!!
派手な音を立てて、木のテーブルは大破した。
1階の舞台で演奏していた者たちはちょうど休憩時間だったらしく、飛び散った破片で負傷した者はいなかったようだが――― 置いたままにされていた楽器が何点か被害にあったようだ。
「加勢しに行こうなんて思うなよ」
「そこまでお人好しじゃない」
それに、レアデス一人でも問題はないだろう。
生身の人間相手なら、よほどの事がない限り捕縛士が窮地に陥る事はない。
「レアデスは―――クレスト=シェトラの息子らしい」
そういえば、イチシは寝ていたから知らないのだった。
マディラ=キャナリーが現れた事も。
「―――あいつが?」
「そして―――ドラセナ=ロナスは、マディラ=キャナリーの娘らしい」
「……死んだオレの親父も出て来そうな勢いだな」
イチシが皮肉めいた事を言いたくなる気分も分かる。
全てが偶然のはずがない―――全てが誰かに仕組まれている。
「少し頭の中を整理しよう。―――ホテルに戻るぞ」
―――――◆―――――◆―――――◆―――――
マディラは一人、イーバエルジュの地を歩いていた。
カツン、カツン―――――
自分のヒールの音だけが、響く。
すれ違う人間たちは色褪せ、マディラは一人、別世界の中にいた。
かつて訪れた縁の土地―――まだ思い出せる。
マディラの中にはまだ人であった頃の記憶が残っている。
―――いや、逆かもしれない。マディラは思い出だけでこの姿を留めている危うい存在なのだ。
(あの時は―――クレストのせいで、散々な目に合わされたっけね……)
クレストの息子が、自分が誰の子であるかを知っている事には驚いた。
マディラの時は止まってしまっても、周りの時間は流れ続けているという事か。
クレストが遣り残した事は、息子が継ぐだろう。マディラが遣り残した事は、マディラがこの手で貫くだろう。
マディラにはどうしても信じられなかった―――Dr.シュラウドという男は、クレストとは別人だ。
(―――別人のはずだ)
だが、《入れ物》はクレストのものだと認めざるを得なかった。
ホクロや痣、傷跡に至るまで、あれはクレストの肉体だった。
人が自身のシェイドの特性を変える事は99%無理だとクレストは言っていた。
先天的に持っている傾向、育った環境によりその傾向は顕著になる。
自我が確立してしまえば、その時点でのシェイドがその者の特色として定着する。
クレストのシェイドを知っていたマディラには、あの二人が同一人物とは思えない。
(―――人格が2つに分裂した?だがあいつは多重人格ではなかったはずだ)
クレストとシュラウドが完全一致しない以上、シェイドが2つあるという結論しかない。
(あいつは―――自分が死んだ事を分かっていた。死んだと思っていた)
それは確かだ。
マディラはシェイド体となったクレストを、この目で確かに見ているのだから。
(―――あたし自身の瞳が、既に使い物にならないガラス玉って事か…)
マディラにだって、境界線は分からない。
自分はいつ死んだのか?
あの瞬間は、生きていたのか?死んでいたのか?
あの時の自分は生きていたのか?既にシェイド体となっていたのか―――?
「何考えてるの?マディ」
背後から、鈴を転がすような声が聞こえ、マディラは立ち止まった。
「また当ててみせようか?」
ゆっくりと振り向くと―――そこにはドラセナが立っていた。
「あたしが考えるのは―――あんたの事だけだよ、ドラセナ」
マディラは自分自身に確かめるように、ゆっくりと言葉を発した。
少年とも少女とも言えない無垢な子供の姿をした魔人は、大きな瞳をますます大きくさせて、マディラの方を見ている。
「そうだね―――マディの頭の中は僕の事で一杯だね」
虫も殺しそうにない無邪気で透明な笑顔―――この顔が歪む瞬間を、マディラは知っている。
「僕が作った駒たちをランドクレスに集めているみたいだけど―――本当に殺す気なの?僕を?」
ドラセナを前にして、最早偽りを述べる理由もない。
二人は今、魂だけの丸裸の存在なのだから。
全てはシェイドを感じれば、分かってしまう事だろう。
「あたしと一緒に逝こう」
「本当に殺せるの?マディに?―――僕の駒たちは、まだ生きているんだよ」
―――ドラセナも知っている。
向かい合う勇気がなく、目を閉じてしまった―――どうしようもなく弱かったマディラの心を。
ドラセナ一人の生を背負う覚悟のなかったマディラに、多くの命を犠牲にする事などできはしないと。
「それしか方法がないのなら―――あたしは選ぶよ。真っ先にあんたを」
マディラの本心を見定めるかのように、母の残骸を見据えていたドラセナだったが、またいつものように無邪気に微笑んだだけだった。
「そう。―――これでマディも僕と同じだね」
「同じ?」
「そう、同じ。人間たちは僕を見て恐怖を感じる。マディもそうなる」
ドラセナが各地で惨劇を繰り返す理由―――それは人間にドラセナを焼き付けるためだ。
共鳴する人間の目にしか触れないシェイド体が、人の意識の中を渡り、彼らのシェイドを呼び起こす。
人間たちのシェイドが共鳴し、より強く魔人を具現化する―――
存在し続ける為に、ドラセナは人間たちに刻み続ける―――自身が浴びた恐怖や苦痛を。
「ドラセナ―――もういい。これ以上、苦痛を味わい続ける事はないんだ」
「苦痛?おかしな事言うね。苦痛を感じるのは肉だよ。肉があるから、痛いんだ。僕らはもう、人間じゃない」
何度繰り返した会話だろう―――それでも、今回は違った。
これが二人の交わす最後の会話になる。
次に出逢う時は―――終わりの時だ。
二人が直視できなかった生と死の境目を、今度こそ見届ける。
「試してみるといいよ―――僕はもう、何も恐れない。何にも殺されない。マディが何をしようと無駄な事だよ」
ドラセナの笑みは崩れなかった―――生きている時には、笑う子供ではなかったのに。
籠に捕らわれ、誰にも愛されず、傷つけられる事に脅えていた。
「―――もう少しだけ……あの場所で待っていろ、ドラセナ。あたしは……」
目を閉じて、ドラセナと初めて出逢った時の事を思い出す―――
求められている事に恐怖を覚え、顔をそむけた。
ドラセナの瞳を見た瞬間、この子供と自分は避けられる絆があると知った。
必ずあんたを迎えに行くから
もう言葉はいらない―――同じ血を持つ我が子、マディラの娘……
全てを灼き尽くす業火の中で、今度こそ必ずドラセナを見つけ出してみせる。
「マディは来ないよ。―――いくら待っても来ない」
ドラセナの顔が凍ったように無表情になる―――ああ、この顔こそが本来のドラセナの顔だ。
「必ず行くさ。約束する」
あはっ――――――――――
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
ドラセナの顔は歪み、腹の底から絶叫した―――それほどまでに、マディラの言葉はおかしくて仕方なかったのだろう。
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
あはははははははははははは!!!!!!!!!!!!!
「―――……」
永遠に絶叫し続けるドラセナを前にして、マディラは自分の犯した罪から目を逸らさなかった。
「必ず行くよ―――最初で最後の約束だ」
笑い続けるドラセナを残したまま、マディラは踵を返し歩き出した。
一刻も早く―――ドラセナを救い出したかった。
この腕の中に、もう一度つかまえたかった。
(―――あと少しだ、ドラセナ。それまでに、あんたとの記憶を何度でも思い出す……幾千回も後悔する)
肉体を失えば痛みを感じないというのは嘘だ。
マディラの胸は裂けて朽ち落ちてしまいそうなほど、激しく痛んだ。
それが感傷を誘う―――まるで生きていたあの頃のようだったから。