04 深海 著 ハロウィン・猫 『迎えのシ者』
目の前は、まっ白――。
雪。雪。雪。
雪だ。雪しかない。
空は一面雪雲に覆われていてこれまた白い。むろん気温はぶっちぎりの氷点下。
屋根に分厚く雪が積もったレンガ積みの営舎から、スコップを肩に担いだいかつい毛皮男が白い息を吐きながら外に出てくる。
「騎士団長閣下、お疲れさまですっ」
建物のまん前の道でひたすらスコップで雪をかいている青年たちが、手を止めて挨拶する。
彼らは、北方銀枝騎士団の騎士たちだ。銀枝騎士団の営舎は、エティア王国の一番北の辺境に在る。一年の三分の二が雪に覆われる地ゆえに、十月からは毎日雪かき作業が欠かせない。いつでも騎馬が緊急出動できるよう、営舎前の入り口、訓練場、付近の街道にいたるまで奇麗な雪道を保持しておかねばならないのだ。
毎日降り続く雪の量ははんぱではなく、雪かきは騎士団員だけでなく馬丁や掃除夫、食堂の料理人に用務員など総員駆りだされての過酷な作業だったのだが……。
わおん わおん
「牙王、ここ踏み固めてくれ」
黄金の狼を先頭に、鉄の狼達が赤毛の青年の周囲をせわしなくいったりきたり。雪がのけられた道をまたたくまに犬足で固めている。
営舎食堂勤めのこの青年――通称「食堂のおばちゃん代理」が狼たちを手なずけたおかげで、今年の雪かき作業は大変楽になった。
「おばちゃん代理、ちょっと話があるんだが」
いかつい団長がスコップで肩を叩きながら赤毛の青年に近づいたそのとき。
「パパー♪」
もこもこの毛皮の服を着た小さな女の子が、いきなりひょいと木陰から姿を現して、えいと雪玉を投げてきた。
「おっと」
赤毛の青年がさっと身をかがめたので――「ぐは!」
雪玉は団長の額に直撃した。
「あ。団長閣下、大丈夫ですか?」
団長はぷるぷる肩を震わせて子供を一瞥してから、むっつり告げた。
「……子供の両親の身元が判ったぞ」
「ついに、ですか」
青年の顔がこわばる。
今せっせと雪玉を作っている女の子は、つい数週間前まで鉄の狼たちに育てられていた。女の子も狼もいまやこの営舎に住んでいる。まるで青年の家族のように。だが、根本的な問題は解決していない。その問題とは――
「殺した犯人はまだ分から……」
「パパー! だんちょおさまぁ!」
「う」「ぶほ」
雪玉が二つ飛んできて、見事に青年と団長の顔に当たった。
「うああカーリン! やめ! もうやめ!」
ぴくぴく引きつる団長を背に、苦笑顔の青年は明るい声をあげて逃げる女の子を追いかけた。
この子の親は、一体どんな人だったのだろうと思いながら。
『なるほど。それで団長さんは、昨日からお出かけなのですか』
「うん。カーリンの両親の家らしきところに行ってるよ」
翌日の夕刻。赤毛の青年は厨房で皿を洗いながら、発泡酒の樽にくくりつけられている剣にうなずいた。この剣は折れているが柄の宝石に精霊が宿っていてよく喋る。青年にとってはお守りのような存在だ。
「そんで、覚悟しとけっていわれちまった」
『ほう。覚悟?』
青年はちらと食堂をみやった。
食卓にカボチャをくりぬいたランタンが置かれた席で、女の子がパイをほおばっている。その足元には、ぴたりと寄り添う大きな黄金の狼。
「もしかしたら、両親の家に返さないといけないかも、だってさ。ケスデンって街の有力者で、由緒あるでかいお家らしい。シュヴァルツカッツェ家っていったかなぁ」
女の子が席を立ち、空の皿を頭に掲げてきた。
「パパー! おかわりい!」
「おいおい、何個目だよ」
「だってカボチャパイおいしーんだもーん。もっとちょぉだい」
「おなか壊すなよ?」
青年はカウンターの上の籠に山と盛られているパイを皿に乗せてやった。食堂の食卓にひとつずつ置かれているかぼちゃのランタンの中味で作ったものだ。
この一帯の村々では、年に一度、湖がすっかり凍る頃に先祖の霊が家に戻ってくると信じられている。ゆえに十月の終わりに霊を迎える宴を開く。
野菜のランタンを食卓の上に置くのは、夏季の収穫物を先祖の霊にふるまうためだ。なぜなら「御魂は光を食べる」と言い伝えられているからである。家人は野菜の中味でつくったごちそうを食べ、霊は野菜が放つ光を食べるのである。
「ママ! 半分こしよ」
黄金の狼とパイを分けあう女の子を見て、青年は目を細めて微笑んだ。
『なるほど。汗臭い男所帯の騎士団営舎より、大きなお家で教育を受けて貴婦人になった方がそりゃあ良いでしょうね。でも保護者としては複雑というところですか』
「うん。だって俺、言葉とか色々教えたし……かわいいし……心配だし」
『完全に父親になってますねえ。結婚もしてないのに』
「え。あ。その」
青年はがしゃがしゃと音をたてて挙動不審に皿を水切り籠に置いた。
「いずれは、したいけど……でも可能なのかな……」
『はあ?』
「いやなんでもないっ。あー忙しい。ほんと忙しい」
その夜、青年が女の子を寝かしつけて自分の寝室に入ると。
するりと、黄金の狼が一緒に中へ入ってきた。
「牙王も心配だよな」
『あの子は誰にもやらないわ』
黄金の狼の口からはっきり人語が飛び出したとたん――。
青年の目の前で狼の背がいきなりすらっと伸び。なんと黄金の光まとう美しい女の姿に変じた。
床まで届くほどの長い黄金の髪。まっ白い裸体。獣の耳と尻尾はあれど、ほとんど人間の体と変わらない。顔も鼻がひっこんで毛がなくなり、ほぼ人間の乙女のごとしだ。しかしその表情は憮然としている。
「お、怒らないで牙王」
『この姿の時は、ディーネって呼んでって言ったでしょ?』
「す、すみませんっ、ディーネさん」
『呼び捨てにして……』
青年はどんと寝台に押し倒された。黄金の乙女がまたがってきて、両肩をがっしり押さえつけてくる。
『あの子は、私達の子よ』
乙女は噛み付かんばかりの勢いで青年に顔を近づけた。
『だれにも渡しちゃだめ。いいわね?』
「は、はいっ」
獣の耳がもの欲しげにひくひく動く。薔薇色の唇が青年の唇に近づいてくる。
『おばちゃん代理、おまえなにやった?』
(団長閣下、俺は何も……)
心の中で青年は今日も言い訳した。
(何も……)
子供を保護しようと狼達のもとへ日参していたとき。
「子供もお前らも俺が守る! どーんと任せろ。毎日腸詰食わせてやる!」と説得しながら、怪我をした牙王を治療してやった。
やったことはそれだけだ。治療した時に牙王の体を優しく撫でてやって、子供と一緒に三人丸まって添い寝しただけ。
『兵器の私をこんな子供扱いするなんて失礼ね』としきりにいわれたから見下されていると思っていたのに、実は真逆の感情を抱かれていた。
ある日青年がけつまずいて不可抗力で乙女を押し倒してしまったことが引き金となって、狼乙女の感情が一気に発露したのだ。
そのとき青年は、お返しに押し倒された。今みたいに、強引に。
(結婚……できんのかな? できれば、し、したいけど)
「ディーネ、あの……」
『愛してるわ』
黄金の乙女の唇が青年の唇に重なったそのとき。
――「おい! おばちゃん代理! 起きてるか?」
バンバンバンと、廊下から寝室の扉が叩かれた。甘い睦み時を邪魔された黄金の乙女がギッと扉を睨む。しかし彼女はまたたく間に狼の姿に戻った。
「たった今、シュヴァルツカッツェ家から使者が来た!」
それは副団長の声で、由々しき事態を告げたからだった。
「子供を引き取りに来たと言っている!」
こんな夜更けに使者?
何だろう、この嫌な予感は。
青年は黄金の狼を子供の部屋に置いて守らせ、自身は厨房に走って樽から折れた剣を外し取った。
『盾を装着しなさい、我が主。先日手に入れた古代兵士の盾を』
剣はさっそく頼もしい助言をしてくる。
『異様な波動を感じます。ご注意を』
副団長は腹心の騎士を五人後ろに従え、玄関ホールで使者を迎えた。
他の騎士たちは待機状態で二階の踊り場からその様子を見守った。
入って来た使者は三人。黒のマントに目深なフード姿で、みな驚くほど細身だ。
真ん中の者がずいと進み出て、副団長に慇懃に言上した。
「夜分遅く失礼いたします。当家の姫をお迎えにあがりました。こちらの営舎に保護されたそうで、深く感謝申し上げます」
「すみませんが頭巾をとって顔を見せていただけますか?」
副団長の求めに、使者たちは大人しくフードを脱いだ。ごく普通の人間に見えるがひどく頬がこけており、肌が白い。
「うちの騎士団長が、そちらにお伺いしているはずですが」
「はい。団長閣下より、印章付きの書簡をお預かりしてまいりました」
使者が難しい顔をする副団長に小さな巻物を手渡す。巻物を拡げたとたん。副団長はサッと顔色を失い、突然大声で命じた。
「おばちゃん代理! 子供を使者殿らにお預けしろ!」
青年は唇を噛み、階段を駆け降りた。
「閣下、許して下さい。俺は……」
顔面蒼白の副団長は青年をホールの隅に引っ張り、大きな柱時計の陰で鋭く囁いた。
「言う通りにしろ。でないと、団長閣下が殺される」
「えっ……」
「見ろ。この書簡を」
皆元気か!
ついついご厚意に甘えてだらダらと
かえるべキ時刻を忘れてしまった。
まったりしテいるうちに今日も日が暮れてしまった。
つまり恐縮ながらも今夜もご当家にご厄介になるガ
たぶん明日には帰営する。もてなしのちャが大変美味で感動している。
シ者にこの伝言を託す。
ぬかりなく日々の日課をこなシ、銀枝の騎士の心得を全うするように。
団長より^▽^
「署名にニッコニコな顔の落書きが……」
「これは団長のSOSサインだ」
「えええ!?」
「この笑顔マークはやばい。縦読み以上にやばい。これは生命の危機にあるという暗号だ。いいかおばちゃん代理、いったん子供を奴らに渡せ。銀枝騎士団が子供を引き渡したという事実を作ってここから送り出すのだ。奴らは必ず目的のものを確保したという報告を主に飛ばすはず。そのあとで……」
黄金の狼を納得させるのは大変だった。
団長を助けるための苦肉の策だと言っても、牙王はうんと云わなかった。ここに住めて腸詰めを毎日食べられるのは団長のおかげなんだと何度も諭し、青年自身も子供に一緒についていくからと宥め、最後は泣き叫ぶ黄金の乙女の口を強引に口づけで塞いで、なんとか子供を連れ出すことを許してもらえた。
青年は寝ぼけまなこの子供を抱きかかえ、三人の使者に続いて営舎を出た。
彼らは黒馬でやってきており、黒塗りの馬車が一台外に待っていた。
馬車に乗り込めといわれたので言う通りにすると。背中の剣が恐ろしいことを囁いた。
『あやつら人間ではございませんね』
「なんだって?」
『生命反応がございません』
「パパ?」
子供が目をこすってここはどこかと問うてくる。青年は息を呑みつつも子供を怖がらせぬようぎゅうと抱き締めた。
「大丈夫だよカーリン。ほら、今日は精霊迎えの夜だろ? ちょっと夜のお散歩をしようと思ってさ」
「ママは?」
「後から来るよ」
雪がしんしんと降り出す。雪かきしてきれいに固めた雪道にみるみる雪が積もっていく。
森に入ったところで馬車が止まった。馬車の扉が開かれ、使者たちが外へ出るよう促してくる。雪が積もりすぎて、馬車が進まなくなったという。
使者の一人が空へ真っ黒いカラスを放った。足首に書簡がつけられた伝書鳥だ。主人に子供を確保したと報告を送ったのだろう。
これで「騎士団はシュヴァルツカッツェ家に協力した」という情報が届くだろうから、騎士団長は最悪な事態に陥らなくなる――かもしれない。
「我々の馬にお乗りください。あなたと姫様、別々に」
使者たちが馬から降りて近寄ってくる。青年はごくりと息を呑んだ。
白い雪に、三人の足跡がついていない……。
「お、俺とこの子を離さないでくれ」
ぎゅっと子供を抱いてあとずさる青年に、使者が穏やかに述べた。
「我が主人は孫であられる姫様の顔を見たいと仰せです。その時まではご一緒してよろしいですよ。ですが以前と変わらず姫様がやはり一族の印をお持ちではないとなれば、その後私達が住まう世界へお連れいたします」
足跡がつかぬ者どもの住処とは……きっとこの世ではない。
つまり当主の確認後、子供は殺される?
この子の家族は額に印のある一族らしいと以前ちらと聞いた。だが、この子供にはどこにも印がない。
印とは何だろうか? ただの痣ではないのか?
そんなことが、殺される理由?
「まさか……この子の両親は子供を守ろうとして家から逃げた……?」
「はい。ですが若様とて、当主に逆らってはならぬのです。裏切りは許されません」
「そんな! ひどすぎるっ」
使者の一人が手を突き出してくる。青年はとっさに左腕をかざし鏡の盾を展開した。
ばちり、と鈍い音がして盾が真っ黒い触手のようなものをはじく。使者の手からは今やぞわぞわと、闇色の蛇のような妖気が蠢いていた。
「おや、抵抗するとは。おまえはあの騎士団の騎士なのですか?」
「違う! 俺は騎士じゃない! この子の親だ! だから守るんだ!」
青年は子供をおんぶして折れた剣を構えた。
「折れた剣とはまた粗末な」
「たしかにこやつは騎士ではありますまい」
「あわれな使用人ですな。ほほほ」
青年がさらにじりりと後ずさったその時。剣の柄がカッと赤く輝いて空にひと筋光を放った。
直後。うおおおんと、狼たちの鳴き声が聞こえてきた。
牙王と鉄の狼たちだ。
狼たちはあっという間に使者の一団を取り囲み。黄金の牙王が青年に飛びかかり。
うおん!
雄たけび雄々しく、目にも留まらぬ速さで子供を奪い取っていった。
ごく普通の狼の群れを装い、襲撃の形をとって子供を救出に来たのである。
「うあー?! なんだこいつらはー!」
青年はわざと驚愕の声をあげ、子供が大喜びで「ママ!」と呼んだ叫び声をかき消した。それから雪道に転がり逃げの一手をとる。
一目散に逃げていく狼たちのあとを、青年も追いかけるそぶりでついていった。
「狼とは」「とんだ邪魔だが」「獣ごとき我らの敵ではない」
しかし使者たちは慌てることなくふわりと宙に浮いて両手を突き出し、あたりにどす黒い妖気を放った。彼らの背後にわさわさとおぞましいものが集まってくる。まるで鳥のようだがドロドロとした黒いひとつの煙にも見える。恐ろしくもそれは、ほんのり青や紫色に発光していた。
「ななな、なんだ後ろのあれっ」
『あらまあ、あれはこの世に残った怨念ですよ我が主。ここら一帯の瘴気をかき集めたんでしょう』
「まじかあそれええ。怖すぎて涙も出ねええ!」
森の奥へ逃げる狼たちを怨念の塊が追撃し始めた。
狼たちは空気のような怨念どもに噛み付いて振り払おうとしたが、実体のない相手は霧散するとすぐにまた集合し、絡み付いてきてきりがない。
きゃいん、きゃいんと狼たちから悲鳴が上がり、次々と地に転がされだした。先頭を切って逃げる牙王に、おそろしい勢いで魔の手が伸びていく……
「剣! 狩の時みたいな衝撃波でこいつらをっ」
『食べていいですか?』
青年が剣に命じようとすると、折れた剣は意外なことを乞うてきた。
『あの怨念、食べていいですか?』
青年は一瞬わが耳を疑った。
「食べる? あれを?」
『許可してくだされば、食べて消化いたします。英国紳士は、好き嫌いをいたしません』
「ま、まあいい、なんでもいいから怨念たちを退治してくれっ!」
『了解しました。それでは。いっただーきまーす!』
青年の命令にとても嬉しそうに答えた剣の柄が燦然と輝いたと思いきや。信じられぬことが起こった。
驚くことにしゅうしゅうと音を立てて、おそろしい怨念たちが剣の柄に吸い込まれ始めたのである。
宙に浮かんで追いかけてきた使者たちは何事かと首をかしげるも、事を悟ってたちまち怒気満ちた顔に変貌した。
「あの力はなんだ」「あれは浄化なのか?」「ありえぬ!」
無数に飛び回る暗い怨念たちが、みるみる剣の宝石に吸い込まれて消えていく。剣の舌鼓と共に、あっという間に――。
『うっはあああ! ひさしぶりの、ごちそうでえええす! うま! 激うま! そしてっ』
剣はげっぷをひとつかまして、燦燦と柄の宝石を輝かせた。
『エネルギー充填完了でえええっす! さっそくヘカトンガジェット起動ぉお! 第九十八機能安全装置解除! ただ今より必殺悪魔斬放ちマース。解除コードをどうぞ、我が主』
「へ? こーど?」
『刀身に私の名前が浮かび上がりますから、読み上げてください』
「お、おう。えっと……エクス、カリブルヌス、ノヴァ、ヘヴェス……」
青年が剣の刀身に煌々長々と浮かび上がった文字を読み終えた瞬間。
『たーまや~~~~~~!!』
その場に、すさまじい爆風が巻き起こった――
何が起こったのか。
眩しすぎて、始め全くわからなかった。
だが三人の使者――いや、死者たちが光の中で怒号をあげて消えていく姿は、はっきりと見えた。
爆発のように感じたのに、周囲は前とまったく変わらぬ宵に沈んだ暗い森のまま。木々は無傷で、ひと枝も雪の大地に落ちていなかった。
ただ、この世ならざるものだけが消えていた。
青年がまばゆさにチカチカした目をこすっていると。
「あ、あれ?!」
黒い森の向こうから、副団長が驚く声が聞こえてきた。ぞろぞろと騎士たちを従えているがみな私服で、盗賊団のごとき風体をしている。
騎士たちは全員がその手に水の入った小瓶を抱え、銀の矢を入れた矢筒を背負っていた。団長のために騎士団であることを隠し、狼たちの援護に来たのだ。
「おばちゃん代理、今ものすごい光の波が森中に広がっていったが……使者たちは?」
「はい、あの、剣が……なんか、退治しちゃいました」
何か特殊な剣なのかと、副団長や騎士たちは青年の手にある折れた剣を一斉に覗き込んだ。しかし力を出し切って疲れたのか、剣は柄の宝石の色を失いうんともすんとも云わなかった。
「こわれたのかなぁ……」
「ふむ、超文明だったといわれる、統一王国時代の武器なのかもな。まさかこんなものがうちの営舎にあったとは」
せっかく太陽神殿の聖処の聖水と銀の矢をごっそり用意して来たのにと副団長は苦笑した。
「聖水に銀って、副団長閣下、敵が亡霊だって気づいてたんですね」
「団長の書簡に書いてあっただろうが。カタカナ文字逆読みで、『シシャガテキダ!』って。それに銀枝の騎士の心得を全うせよとあったし」
「心得?」
きょとんとする青年の肩を、騎士たちが笑いながらばしりと叩いてきた。
「おばちゃん代理、うちの団訓を知らないのか? 『祈れ、戦え、死者の平安のために』だよ」
「そうそう、我が銀枝騎士団は悪魔払いの技に長けていた神殿騎士団がその前身だ。団訓と共にその手の技をちゃんと継承しとるんだぞ」
「しかし亡霊を使役するなんて、シュヴァルツカッツェの当主は恐ろしいな。相当の呪術師とみた。狼たちは大丈夫か?」
副団長の言葉にハッとして青年は走った。黄金の狼が率いる群れのもとへ。
群れの逃走は止まっていて、狼たちは森の中にある小さな平地に寄り集まっていた。
鉄の狼たちが何かを取り囲んでいるので、青年の心臓は凍りついた。
駆けつけてみれば牙王が倒れていて、女の子がわんわん泣いてすがっていた。
「ママ! ママ! ママあああああ!!」
まさか、怨念に捕らえられたのか。剣の力は間に合わなかったのか……。
青年は黄金の狼のもとに駆け寄り抱きかかえた。外傷はない。だが、狼の王は目を閉じたまま硬直し、息をしていなかった。
「そんな……牙王……ディ、ディーネ! ご、ごめん……ごめん俺が、無理言ったばっかりに……!」
「いやああああ! しんじゃやだあああ!!」
子供が大粒の涙をこぼし、悲痛な声で叫んだとき。
ふわりふわりと、天から何かが降りてきた。
それはふたつの淡い光の玉だった。
仄かに光る玉はくるくると子供の周りを蝶のように飛び回り、それからゆっくりすうっと黄金の狼の中に入り込んだ。
「だ……れ……?」
子供の言葉を聞いた青年はびっくりしてまじまじと牙王を見つめた。
だれ?
だれの?
だれの、魂?
ああそうだ。
今宵は、天から先祖の霊が戻って来る夜だ。
もしかしたら。もしかしたら……
「ママ? ママ? パパ! ママが……!」
魂が入っていった牙王の体が、ぽう、と仄かに光ったと思いきや。
黄金の狼が、うっすら目を開けた。生気を取り戻したその瞳の中には、誰かがいた。
牙王だけではなく。
子供を護ろうとする、複数の、誰かが――。
翌日。
黒い森に囲まれたシュヴァルツカッツェ家の屋敷門の前に、銀枝騎士団副団長が騎士たちを率いて姿を現し、団長を迎えにきた旨を告げた。
「当家のお望み通りにいたしましたその見返りを、頂戴したく存じます」
騎士団が当家に従ったという使者たちの報告は、ちゃんと届いたのだろう。
そして攻めも辞さぬと完全武装で訪問した意気も通じたのかもしれない。
団長とお付きの騎士たちは解放され、門の外に出された。
応対したのは黒服の執事一人と担架を運んできた使用人だけで、屋敷の者は誰一人出てこなかった。門に掲げられた黒い猫の紋がただただ不気味に騎士たちを見下ろすばかりであった。
囚われ人たちは、立てぬどころかほとんど昏睡状態だった。
「客人方は不幸にも病に倒れられた」
執事にはそう偽られたが、記憶を混濁させる薬を飲まされたらしく、騎士団長たちは当主に会って何を話してきたのか、数ヶ月間何も思い出せなかった。
その一方で――
『ぷはーっ! 久しぶりに大技使ったら意識とんじゃいましたよ。はー、すっきりした。って我が主、狼たちと一体どこへ?』
「南へ行く。ほとぼりがさめるまでね」
折れた剣を背負う青年と子供と牙王率いる鉄の狼たちは、営舎には戻らず北の辺境から避難した。
子供は野生の狼に連れ去られ、食い殺されたと見せかけて。
彼らは厳しい冬と恐ろしい暗殺者から逃げるために南下し続け、エティアの中央部を抜け、温暖な森に身を隠した。
青年はそこで子供と狼たちと幸せな数ヶ月間を過ごした後、再び騎士団営舎へと戻らざるを得なくなくなるのであるが。
それはまた別の、長い長い物語である。
――迎えのシ者・了――