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自作小説倶楽部 第11冊/2015年下半期(第61-66集)  作者: 自作小説倶楽部
第63集(2015年09月)/「満月」&「鏡」
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09 ちょみ 著  鏡 『月灯』

 窓際に置かれた鏡台に向い、女は髪を梳る。片手に小さな手鏡を持ち、後ろの髪を入念に掻き分けながら、一本一本確かめるように。

 ふと、地肌に近い部分が揃って白くなっているのを見つけ、手を止める。

「あぁまた染めなければ」

 鏡台の引き出しから白髪染めの箱を取り出し、皺部会目尻を緩め笑む。

 鏡に映る黒い瞳は、笑むとまるで“娘”のようだった。

「母さんはまた髪を染めているのか」

 息子の武雄が背後から声をかけるが返事は無い。いつもの事とはいえ、無心に髪を染めている母の背を見て、溜息を漏らさずにいられない。

「仕方ないわ。お義父さんととても仲が良かったもの」

 そう。母、民恵の変化は夫、文雄の死から始まった。

 武雄の妻、美也も横から民恵の背中を見つめる。

 民恵が小さな手鏡を操り頭の隅々まで染め残しがないか探している。

「あの手鏡の中には、お義父さんが居るんですって。

 綺麗になったと褒めてくださるんですって」

「まったく、いい年をして……」

 民恵、齢八十二。離れてくらしているが曾孫も三人恵まれた。

「いいじゃない。お隣のお爺さんは徘徊が大変だそうよ。

 お母さんは外を出歩かないし、ご飯も自分で食べてくれるし。

 お義父さんの為に綺麗に装う気持ちがあるおかげよ。ありがたいことだわ」

「お前がそう言うなら……」

 美也に宥められ、武雄はようやく母の背から視線を外した。

 ―― あの鏡には父が居る、か ――

 赤い縁どりの丸い手鏡。

 武雄の記憶にとても懐かしく蘇る。

 まだ幼かった頃、両親と訪ねた旅先で、父が母へと買ったのだ。

 とても仲睦まじい両親は子供心に自慢であった。

 しかしその自慢も、友人の両親や周囲の夫婦と比べて、異様さを感じ始めた思春期の頃から変わってしまった。

 家のそこかしろに母の甘い色香が偲ばれる。抑えたような睦言の時折聞こえる両親の部屋。

 高校生にもなる子供が居る夫婦がこんなにも仲の良い様を秘めようともせず、漂わせるものだろうか。否。遊びに行く友人の家に、こんな香りは微塵も無い。

自分の家は何かが違う……出口の無い悩みが暗礁に乗り上げようとしている頃、それは起こった。

「民恵、背中を流してくれ」

 風呂場から聞こえた父の声に、軽やかな返事で廊下を小走りする母の足音を聞き、武雄は自分の洗濯物の中に父のシャツが混ざっているのを返そうとその背を追って脱衣所の扉を開けた。

 母はもう浴室に入っているようで、二人の声が湯煙の中で淡く響く。

「まぁいいか。着替えと一緒に置いておけば……」

 そう思ってふと着替えの籠を見て、手が止まる。

 父の脱ぎ置いた下着と一緒に、母の下着が寄り添い置かれていた。

 浴室で響く低めの声が、急に淫靡さを帯びる。言い様のない酸っぱさが喉の奥から込み上げた。

 やがて家の中の雰囲気に堪えかねて、武雄は大学を理由に家を出た。

 両親とは稀に連絡を取るだけの日々。やがて社会人になり、三十路も越えたが、武雄は女性を知らないままに時を過ごした。

 正しくは、まったく縁が無かったわけではない。が、親密になろうとすると必ずあの家の中の香が脳裏に蘇り嗚咽を覚えた。

 もういい。自分はそういう物に縁がないのだ。

 武雄は自分の抱えるトラウマから目を背けて生きてきた。

 そんな暮らしの中で、美也と巡り会えたのは、いったいどんな奇跡だったのか。

 会社の陸上部から数名が地元主催のマラソンに出るという事で、応援に連れ出された武雄の目の前を、颯爽と笑顔で走り抜けた新入社員、それが彼女だった。

打ち上げの呑み会で応援への感謝を、ひとりひとりに手を添えて回り美也の手は、武雄の苦手な生温かさは無く、さらりとしていた。近づいた時に嗅いだ香りに甘さは無く、その声は粘りも艶も無い。短い髪からは新緑の心地よい爽やかな香りが広がっていた。

 三年ほどの付き合いの後、二人は結婚に辿り着いた。

 相変わらず武雄は実家とは疎遠であったが、美也はやがて産まれた子供達を連れて、こまめにその家を訪れた。

 毎回、どんな話しをしているのか、嫌な思いをしてはいないか、気にはなったがどうしも一緒に行けない武雄に、美也は

「仲の良いご夫婦ね」

 と、変わらない朗らかさで微笑んだ。

 やがて子供達が自立する頃、父が病気で他界し、残された民恵の為に武雄夫婦は実家に入る決意をした。

 父はもう居ない。家の中に充満していたあの頃の匂いも薄まってゆく事だろう、と。

 事実、民恵は自分の放っていた全ての色艶を、徐々に呑みこみ自分の内側へと自身と共に潜って行った。それが、今の民恵である。

 朝からひたすらに腰まである髪を梳り、結い上げ、下ろしてまた梳る。

 白あものが僅かでも見えれば美也に頼み白髪染めを狩って来てもらい、また染める。

 鏡の前から動くのは、眠くなった時とトイレの時だけ。

 食事は部屋から出てこないので、疎かになってはと美也が気を配り、髪を梳きながらでも差障りなく食べられるおにぎりやサンドイッチなどを傍らに置いておくと、いつの間にか食べている。

「あんな髪切ってしまえばいいものを」

 吐き捨てる武雄を、

「あのおかげでお義母さんが穏やかに過ごせているのよ」

 美也が少しだけ眉を顰めながら宥めた。

 そして幾度目かの冬の訪れに、民恵は他界した。その手にしっかりと手鏡を携えたまま。

 いつもの鏡の前ではなく、家から少し離れた路上で側溝に足を踏み外し、倒れた際に頭を強く打ったのだ、と、警察は結論付けた。

 夫の思い出にしがみつき、決して家から出ようとしなかった彼女に似つかわしくない最後であった。

 何を思って何を求めて外に出たのか。

 けれど置いて心を閉ざし続けた民恵の死を追求する者は居なかった。

武雄は胸中複雑であったが、これで父と母の甘く生温かな匂いも完全に消え失せるだろう……ふっと息を吐きながら民恵の部屋をふと覗く。

 煌々と照らす満月が窓をすり抜け落ちてきた。

 照らされたのは、鏡台に添え置かれたあの手鏡。

 ぞくりと胸から喉にかけて駆け昇ってくる熱い息を感じて、思わず手鏡を手にすると、そこに若かりし頃の母が一瞬笑み、やがて消えた。

 武雄は喉元まで上がってきた熱い息をぐっと飲みこみ、目を閉じた。

 何故あんなにもこの家が嫌だったのだろう。

 何故あんなにも両親の睦まじさに嫌悪したのだろう。

 何故…………

「俺も親父と同じ血を持っていたんだ……」

 納得した。

 嫌だったのは、妖艶に笑む母の瞳が、父の物だったからだ。

 友人が皆「武雄の母さん美人でいいな」と羨む中、武雄が女性への今日もを持つ引き金を引いたのは、その艶やかな笑みと、父と低い声で交される睦言の甘い響き。

 それが血の繋がりのない女性なら、父という伴侶の居ない誰かなら、火を点け燃え上がる事も出来ただろうに。

 父という男のせいでマッチを擦る手前で呑みこまざるを得なかったのだと、思い出したように気付いてしまった。

 胸元に手鏡を押し付け、低く唸るように、武雄は、

「母さん……」

 甘く呟いた。

     つづく

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