08 かいじん著 満月 『月光』
(1)
昭和58年の小学4年の時の夏休み、8月初めの日中うだるような暑さが少しだけ薄らいで来た午後4時を過ぎた頃、その電話は何の前触れもなく、突然架かってきた。
祖母は買い物に出掛けていて、祖父は奥の部屋で休んでいたので、僕が暑気の篭った
廊下にある電話に出た。
「はい長谷倉ですが」
「あの……長谷倉 智樹クンのお宅はそちらでよろしいでしょうか?」
僕と同い年位か、少し年上位と思える聞き覚えの無い女の子の声が名前を言わずに、いきなり僕の名前を言った。
「長谷倉 智樹は僕ですが」
「アナタが長谷倉智樹クン?」
「はい」
その後、ほんの少しの間、電話の向こうで沈黙が流れた。
「あの、ウチの名前は那須 希美子言うんじゃけど……」
電話の向こうの彼女が言った。電話に出ているのが僕だとわかると何だか話す言葉や話し方がずいぶん変わった。
しかし僕には那須希美子と言う名前に全く聞き覚えが無かった。
「那須希美子さん……ですか?」
僕はそう答えて、彼女の返事を待った。
「やっぱし、アンタもウチの事を知らんかったんじゃなあ。……ウチもなあ、ホンマの事言うたら、今日、一人で家におってたまたまアンタの名前とそこの電話番号が書いとる紙があるん見つけて、ほいでわかったんじゃあ」
「そうなんですか」
よくわからないままに僕は答えた。
「……そんでぼっけえ迷うたけど思い切って電話してみたんじゃわあ」
「ええ……」
「アンタ今、小学校の何年生なん?」
「4年生ですけど……」
彼女に何だか訝しさを感じながら僕は答えた。
「4年生なん……ウチは6年じゃけえ2つ違いじゃなあ」
「そうですか」
その後、ほんの少しの間、彼女は何も言わなかった。
その間、彼女の微かな吐息の音が受話器から聞こえているだけだった。
僕は今日、突然電話をかけてきた那須希美子と言う、2つ年上の彼女が一体僕にどんな用件があるのか気になりながら、彼女が話し出すのを待っていた。
「今、家にアンタの他に誰かおる?」
彼女が言った。
「今、家には奥の部屋で祖父が寝ているだけですが」
僕は答えた。
その後、彼女はまた少し間を置いた。
「……ウチなあ、アンタのお姉さんなんよ」
彼女が言った。
「……」
僕はすぐには何も言えなかった。
「僕のお姉さん……なんですか?」
「うん、そうなんよ」
「あ……あの……ええと……アナタが僕のお姉さんだとしたら、僕はお姉さんの弟と言う事になるんでしょうか?」
僕は驚いたままとっさに何か言おうとしてひどく間の抜けた事をうわずった声で言ってしまった。
「うん、そうじゃなあ」
僕のお姉さん……那須希美子はそう言った後、クスクスと笑い出しその後あははと声を出して笑った。
「アンタ、何を言ょうるん。そんなん当たり前じゃろう?」
「いや、いきなりだったんでちょっとびっくりしちゃってその……」
「うん……そこは東京なんじゃろう?」
「ええ、そうです」
「ウチ、東京の人とお話するんはじめてじゃわぁ……東京のどの辺なん?」
「板橋区の……大山って所ですけど」
「ふうん」
「あの……そこはどこからかけてるんですか?」
「ウチ?ウチは倉敷に住んどるんよ」
「倉敷……」
倉敷と言う地名はテレビだか何かで聞いた事がある気がしたけれど、僕にはそれがどこだかはっきりわからなかった。何と無く大阪の近くか、それよりずっと向こうの本州の西の方か、九州の北の方だった気がした。
「倉敷って何県なんですか?」
僕は聞いた。
「岡山県」
僕の姉が答えた。
「ほいで、智樹クン……智樹……なあ、アンタの事、智ちゃんと呼んでもええかな?」
「いいですよ」
「アンタ、ぼっけえ馬鹿丁寧な喋り方するなあ……まあええんじゃけど」
僕の姉が笑いながら言った。
「ほいでな、ウチ、智ちゃんと話したい事がぎょうさんあるんじゃけど、電話代がぼっけえかかるけえ、あんまし長い事話が出来んのんじゃわぁ。……ほいじゃけぇ、ウチ、手紙書いてそこの家に送ってもええかな?……こっちの住所とウチの名前はわからん様にするけえ」
「いいですよ」
僕は祖父の眠っている奥の部屋の方をチラッと見てからそう答え、それからこの家の住所を彼女に教えた。
「ウチ、電話かける時、ホンマにアンタと話す事が出来るんかどうか、話をして貰えるんかどうかもわからんかったけど、ちゃんとアンタと話す事が出来たんでぼっけえ嬉しかったわあ。……ほいじゃぁ、これからすぐにアンタに手紙書くけえ」
そう言った後、突然かかって来た電話は唐突に切れた。
電話が切れて受話器を置くと真夏の午後の篭った熱気だけが廊下に残った。
僕は何だか落ち着かない気分のまま、自分の部屋に戻り、学習机の椅子に腰を降ろして大きなため息を吐いた。
僕の両親は僕が2歳になる少し前に離婚したので僕はずっと父親と父方の祖父祖母の元で暮らしている。
西武池袋線沿線の江古田で(夜の店)をやっている父親は去年の秋頃から、(別の帰る所)の方にずっと帰る様になっていて、今では1、2ヶ月に一度顔を会わすか会わさないかだ。
僕には母の方に引き取られた姉がいると言うのは祖母から一度か二度、あるいはずっと以前、父親からも一度聞いた事がある様な気がする。
僕はそれまで母と姉の事についてはそれ以上の事は全く何も知らなかった。
写真も見た事がないし、名前も知らない。どこに住んでいるのかなんてもちろん知らなかった。
だから、僕は時折、何かの拍子で自分の母親と姉について、すごく曖昧な漠然とした空想をしてみる事はあっても、実際には自分とは全く関係の無いどこかに存在している、もうずっと自分とは全く関わる事の無いであろう存在だと思っていた。
僕は机の上の地図帳を取り出して、広げてみた。
地図でみると大阪と広島の中間くらいの瀬戸内海沿いに岡山があって倉敷はそのすぐ西にあった。
僕は倉敷と言う殆ど何も知らない場所について考えてけど、ただ遠くにあると言う位の事しかわからなかった。
その後、長い事ぼんやりしている内に祖母が帰ってきて夕食の準備をはじめた。
僕は何もする事が無かったので、上板橋にいる高1の従兄弟の真ちゃんから、ダビングして貰ったYMOのテープを聴きながらしばらくの間、マンション6階にある、この部屋から見える窓の外を眺めていた。
夕闇の近付いて来た空はいつの間にかうっすらとした雲に覆われていて、その下の雑居ビルやマンション民家がびっしりと建ち並んでいるその先に池袋のサンシャインが薄灰色の空に聳えていた。
そのどことなく殺風景な光景を眺めていると子供心にも、何と無く都会と言うものに、殺伐とした空虚なものを感じた。
ラジカセから幻想的なシンセサイザーが聞こえて来る。
♪ Now the mask youre wearinng.
Is stony and staring.
(感情の無い顔が僕を見つめる)
Line and tears.
(僕はただ泣いている)
Age and fears.
(歳をとっていく事に不安を抱きながら)
Growig old.
Passions cold.
(やがて、老いさらばえて行く) ♪
3日後、姉から僕に手紙が届いた。
(2)
真夏の陽射しは午前中から雑多な建造物がひしめく都会に激しく降り注ぎ周辺の木々からは蝉の鳴き声が騒がしく聞こえた。
郵便配達のバイクが僕が住んでいるマンションの入り口の前に停まった時、僕はたまたまその20メートル手前をマンションに向かって歩いていた。
配達員がマンションから出て来て、バイクで走り去った後、僕がマンションの中に入ってみると僕の住んでいる605号の集合ポストに真四角に近い水色の封筒が1通投函されていた。
封筒の表には丁寧に書かれているけど、どこか子供っぽい字体で僕の住所と僕の名前が書かれている。
封筒の裏の差出人は 東京都板橋区板橋2-○○ー5 山本奈津絵となっていたけど表の切手の所には(児島)と言う2日前の消印が押されていた。
その封筒を持って、エレベーターで6階まで行き、自宅に戻った僕は奥の部屋にいる祖父母にただいまを言った後、自分の部屋に入ってその封筒を開封した。
中には封筒と同じ色の便箋で書かれた手紙と写真が一枚入っていた。
僕はその写真を見て、それから手紙の方を読んだ。
手紙の書き初めの方は標準語で始まっていたけど、途中からは少しだけ電話で話していた時の方言が混じる様になっていた。
智ちゃんへ
智ちゃんと初めて電話で話してその後すぐにこの手紙を書いています。
電話をかける前はいろいろなことを考えて、正直怖くて勇気もいったけど、かけてみたら、智ちゃんはふつうに話してくれたのでとてもうれしかったです。
思いきって電話して本当によかったと思っています。
でも電話ではほんの少ししかお話出来んかったです。
ワタシはいちおう、あなたのお姉ちゃんなので、智ちゃんのことをいろいろ知りたかったですし、ワタシも智ちゃんに話したいことがいっぱいあったです。
おかあさんのことについて書きます。
智ちゃんがおかあさんのことをどう思っているのか電話では聞けなかったので、今のワタシにはわからないですが、おかあさんは元気です。
このことはたぶん、わかってもらえるんじゃないかと思っているんだけど、大人のじじょうと言うか、なんかむつかしい事があるので、いろいろ考えたけど、ワタシは智ちゃんのことはとりあえずはおかあさんにはだまっていようと思っています。
ワタシは智ちゃんがとても小さかった時のことを少しだけおぼえています。
でもあんまりよくおぼえてなくてよく泣いてた事ぐらいしか思い出せません。
それに大阪におった時のこととか、こっちに来たばっかりのころの事はあんまり、よくおぼえてないのにあんましいい記おくがありません。
はじめて書いた手紙なのになんか暗い事を書いてしまいました。
智ちゃんはどのような夏休みをすごしていますか?
もうどこかに行ってきたりしたでしょうか?
ワタシは外が暑いのでほとんど家の中にいる事のほうが多いです。
昼のあいだは家にはワタシひとりしかいない事が多いのでけっこうタイクツしていたりします。
今までまだ作った事なかった料理を作ってみたり、ときたまエサをもらいに来るネコにエサをやったりしてすごしています。
そういえば思い出したけどさ来週の24日から3日間おかあさんはお友達と旅行に行ってしまうので、そのあいだはずっとワタシひとりですごす事になってしまいます。
でも、まあ、るす番はなれているので大じょうぶです。
あと何を書けばいいのかな
音楽はサザンオールスターズとか好きです。長渕剛も好きでよく聞いています。
マンガを読むのが大好きです。
……まだいろいろ書きたいけど今日はこのくらいにします。
智ちゃんはワタシにとってたった一人の弟なのに今はどんな顔をしているのかすらもわからない。
ほんとうはすぐにでも会ってみたいんじゃけど、東京はとても遠いので今はまだ。
手紙を書くか電話で声を聞くかぐらいしか出来ません。
いつになるんかわからないけど出来るだけ早く何とかして一度会いに行きたいとか
思ったりします。
ワタシの写真を1枚いっしょに入れておきます。
どんな事でもいいのでお返事書いてくれたらものすごくうれしいです。
智ちゃんの写真も一緒に送ってほしいです。
ただ、おかあさんにはナイショにしているので住所はこっちの住所にして田中恵子とか女の子の名前で書いてください。
ワタシら、本当のキョウダイなのに、こんなふうにして手紙出すの変じゃと思うけど……。
今日はワタシにとってとてもとてもうれしかった1日でした。
のこりの夏休み体こわしたりせんように元気ですごしてください。
では。
姉より
ワタシの住所
710-09○○ 岡山県倉敷市児島○○ ○ー○ー○
那須希美子
電話 0864 ○○ー○○○○
最後に……今日の電話で1回もお姉ちゃんと呼んでもらえなかったのが残ねんでした。
手紙を読み終わった時、僕の感情はすごく昂ぶっていた。
それは3日前に突如として電話越しに接した、実の姉から受け取った、生まれて初め読んだ、僕宛の手紙だった。
今、おじいちゃんはあまり体がよくないけれど、おじいちゃんとおばあちゃんには、これまでずっと優しく大切にしてもらって来た。
だけどおじいちゃんとおばあちゃんとは僕に物心がつく前からずっと一緒に暮らしている。
だから誰かが僕の事を強く思っていると言う事で、僕の心がこれほど大きく揺さぶられて同じ思いを相手に抱くなんて事は今まで経験した事がなかったし、そんな事を考えてみた事もなかった。
僕は便箋を机に置いて、同封されていた写真を取り上げてもう一度眺めてみる。
姉は体操着姿をして一人で写っている。
去年の運動会の時に撮ったものらしく5-2とマジックで書いたゼッケンをつけている。
後ろの方に座ってグランドの方を向いている他の何人かの生徒の背中が見えた。
肩ぐらいの長さの髪に白い鉢巻をした姉がはにかむ様な微笑を浮かべている。
ものすごく美人とは言えないまでも健康的で綺麗な顔をしていたのではじめ見た時、胸が少し痛くなって動悸がしたほどだった。
僕はこの写真に写っている、まだ実際には会った事のない姉が3日前、自宅の電話で、(どんな家なのかはわからないけど)僕に電話してはしゃぐ様に話していた姿とその後、一人机に向かって今読んだ手紙を書いていた姿とを想像してみてなんだか、複雑な気持ちになった。
僕は返事を書く事を考えてみて、僕はこれまで手紙なんて一度も書いた事がない事に気付いた。
そんな事を考えながらふと机の上にあった、何かの付録で付いていた今月の月齢表を何気なく手にとって眺めてみる。
そう言えば姉は24日から家で一人きりになると言っていたが24日の夜は満月だ。
だからこの日、姉が夜に満月を眺める事があったとしたらその時は一人きりなのだろう。
机か何かに頬杖ついてか、組んだ両手に顎を乗せてか、あるいは窓際に立って
写真の姉が月を見上げている。
僕はその姿を想像してみる。
もしその同じ時間にたまたま僕も月を眺めていたら、姉と僕は遠くに離れて住んでいるけど同じ月を眺めている事になる。
その時、僕らがお互いの事を考えて思っていたとしたら、僕と姉はそんなには遠く離れていない気がした。
了




