04 BEN.クー 著 満月 『月を斬る』
『月を斬れ』
今年二十歳になる次郎が兄と共に父から聞かされてきた言葉である。
関東の七剣家(七流)と呼ばれる卜部家に生まれ、気づいた時には木刀を握っていた次郎が縁戚の塚原家に養子出されて2年になるが、今でも父の言葉の真意は解けないでいた。
そんなある日、日課の大木叩きを終えた次郎は、いつものように夕闇の中で汲み上げた井戸水を頭からザブりとかぶっていた。大木叩きは千回以上行なうのが常で、多い時には三千回を超える時もあった。もちろん身体も意識もふらふらになる。そのため何杯も水をかぶって精気を取り戻すのである。
すると、何杯目かの水を汲み上げた時、次郎は桶の中に煌々と輝く月が映っているのに気付いた。さえぎる雲一つない見事な満月だった。
「月を斬れ…か」
ふと、父の言葉をつぶやいた次郎は、思わず桶の中で揺れている月の姿を注視した。
天の月は微動だにしない。だが、桶の中の月は指一つ触れただけで易々と揺れ動く。
「父は『月を斬れ』と言ったのだ。『月を消せ』と言ってるのではない……」
斬ると消す。斬ることは即ち相手を倒すことであり、決して殺すことではない。だが、消すことは即ち相手を殺すことであり、それこそ月を消すことなどできはしない。
「俺は斬ることを相手を殺すことと思っていたようだ……」
水に映る月は幻影。だが、幻影だから斬れる。剣における幻影とは即ち相手の剣技であり、それは武器の違いや剣の使い方による太刀筋の違いである。
ふいに、次郎は腰の真剣を抜き払うと桶の中で揺れる月を真っ向から斬り下ろした。桶は見事に切り裂かれ、瞬時ながら確かに水の中の月が斬れた。
この時次郎は、ついに父の真意を得たと身震いした。幻影に惑わされることなく、幻影ごと断ち切るためより深く相手に踏み込む。この踏み込む勇気が剣の極意であると悟ったのだ。
それから後、次郎は兄の身代わりとして卜部家の代表として関東七剣家との御前試合を勝ち抜き、父と兄から卜部家の剣技を伝える者として卜伝塚原と呼ばれるようになるのである。
―おしまい―




