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コーヒーとペン先

作者: 空色大福

「……ありがとうございましたー……」

閉店間際に訪れたお客さんは、少年漫画雑誌を抱えると嬉しそうな足取りで帰られました。この時間までお仕事をなさっていたのでしょうか、スーツの襟ぐりが少し疲れているようです

地域密着型古書店兼新刊書店である当店。売り上げのほとんどは定期発行物の新刊によって支えられ、カウンターの奥に居並ぶ書架まで足を進めるお客さんはあまりいません。

搬入のトラックが近づくだけで洪水をおこしそうな野放図な配置も原因の一つでしょうか。一応五十音順にはしているのですが……。

 祖父から受け継いだ、と言えば聞こえがいいものの、商店街にこれ以上駐車場や更地、シャッターを締め切った店舗跡が増えることを嫌った自治会と、まっとうな会社でスーツを着て働けないと親戚中から太鼓判を押された私サイドとの思惑の一致もしくは妥協の産物により、大学卒業早々私が経営者となった古書店。

返本や搬入等私の体力ではこなせない仕事や、法律や会計等私の知識が及ばない業務については親戚や商店街の方々のお力を無賃拝借しているため、漢字を使えば店舗環境維持業務、つまるところの店番とお掃除係の経営者ごっこというのが実情です。

「さて、閉店時間ですね」

誰に向けるでもない営業終了を告げると、ハードカバー本にしおりを挟みカウンターを立ち伸びを一つ

「うあー」

午後の掃除を終えてからほとんど座りっぱなしだったためか目の前が暗くなります。ゆっくりと息を吸って―、はいてー。

「あー、血が巡るぅ」

じんわりと頭の頭の先まで暖かくなっていくのを感じます。ああ、私は今生きているんだ。血流がなじんだところで店先に出していたワゴンを仕舞います。毎週各ジャンルから適当に選び(選考基準は私の長年の経験による勘と最近になって磨かれた勘)お客様に値段をつけていただこうというものです。稀覯本が混ざっていたりすれば大損をこうむってしまいますが、この店にそんなものが入ってくるとは思えません。

こんな穴倉の中で余生を過ごすよりは、新たな読者の手でページをめくられる方が本たちもきっと幸せでしょう。それに、創作物が手に取られもしない不幸せは重々承知しているつもりなので。

入り口のガラス戸を引くと、日差しに焼かれたアスファルトが吐き出す熱気と、日が暮れてもけだるく居座る夏の空気のミックスが、待ってましたとばかりに身体にまとわりついてきます。古びた紙とインクの匂いになじんだ鼻に、金属の匂いにも少し似た暑さと湿気の匂い。

「地球温暖化ここに極まれりって感じですね」

 ちょっと前までは六月下旬にならないと、ここまで気温は上がらなかったはずですが、気候の二極化が進行しているようですね。

ひとりごちながら踏み出すと、程よく冷房の効いた店内と外の温度差によって、止め時を見失った早鳴きヒグラシの合唱を聴く間もなく、すぐにうなじの辺りに汗が浮かびそうで不快指数急上昇。自動で眉間にしわが寄ってしまいます。

この仕事ほぼ唯一の肉体的疲労を伴う作業を終え振り返ると、街灯の光と夜闇の黒さが互いを引き立てあい、不思議なコントラストを生んでいます。窓から漏れる光が少ないことも手伝って、目の前の通りがシャッター街寸前なのを思い知らされます。

暗いアスファルトに点々と並ぶ街灯の光の輪は、古びたステージに降るスポットライトのようです。浴びたところで私が世界の主役になれるはずもありませんが。

 周りの夜闇と店内を薄いシャッターで区切れば、チラつく蛍光管の明かりもやや元気を取り戻した様子。持ち主に似たのか内弁慶極まる様子です。穴倉を外界から切り離すと、気分が楽になります。これだけ自由度の高い業態でストレスを感じるということは、きっと外に出て稼ごうとしたら三日と持ちそうにありませんね。世の中は全く苦しみに満ちているようですから。

 『スタッフオンリィ』と書かれた店舗と居住スパースを区切る扉を開くと、ほう、とため息が漏れます。ここから先は私の時間。来店もない現状では勤務時間も好き勝手出来ますが、だからこそメリハリをつけなければ堕落一直線が目に見えています。坂口安吾さんは力強く堕ちよと述べていますが、私にそんな勇気があるはずもなく……閑話休題。とまれ、このような自由業であっても、仕事とプライヴェートとは区別している、ということです。

 世の趨勢から取り残され、小春日和の木漏れ日にうたた寝するような時間が流れる住居。何某さんの主催する昭和生活史展に出品すれば、最敬礼で感謝されることでしょう。

私の体重ですらギシギシと悲鳴を上げる廊下を進み、ガラスが垂れ下がり下の方が分厚くなっている引き戸を開き、照明器具から下がる紐を引けば御開帳、ここが我が城。

中央に設置された炬燵机の上はケント紙、ペン軸、インク瓶、予備のペン先が支配し、壁際におかれた学習机にはインターネットから切り離された旧式OS入りのノートパソコンが鎮座されています。

炬燵机便利ですよね。布団の着脱だけで全季節対応しますし、天板が広くてしっかりしているから原稿作業にもってこいです。

そしてその他の床面を埋め尽くす売れ残りのオフセット本、コピー本、印刷会社さんの段ボール箱etc. etc …… 。男子禁制乙女の空間(コーヒーの香りつき)が目の前に広がります。

時間と一緒に埃が積もったような空間、イベントの度に増えていく本の在庫と印刷会社さんの段ボール。きっと世のキラキラした方々から見れば非リア充なのでしょうね。自覚はあります。

 電気ケトルの電源を入れると、一瞬照明が暗くなりました。余計な家電が稼働していたらブレーカーが落ちてしまっていたことでしょう。さすが昭和古民家風古民家ですね。

 お湯が沸くまでの間に、部屋に戻り、下書きまで終わった原稿用紙を引っ張り出して、軽くチェックをしておきます。迷い線がたくさんあり、なかなか見苦しいものもありますが、あまりひどい出来ではない、と思いたいものです。

 進捗状況は、まあ普通。このペースなら今回も新歓を出せることでしょう。

 世の中には通常の三倍の速度で作業できる修羅場モードという形態に変身できる御仁がいらっしゃるそうですが、赤くなって角でも生えるのでしょうか。

 筆記用具とライターを準備し終えたタイミングでちょうどお湯が沸きました。

魔法瓶に設置したフィルターにコーヒーの粉を敷き詰めます。お得用の者が占める我が住処でほぼ唯一といっていい高級品―といっても商店街のおじさまからいただいたものなので無料ですが―のコーヒー、善きカフェイン中毒者でいるために、あまり安いものは遠慮したいものです。私が代金払うわけではありませんが。

 平らにならした茶色の平原に、沸騰したてのお湯を乗せていきます。ふわりと立ち昇る香りで部屋のなかが更新されるようです。

 できるだけ均一にゆっくりとお湯の粒を乗せ、表面が少し湿ったら少し待ち、その後少しずつお湯を注いでいくと、粉の表面がふわりと丸く膨らみます。通称コーヒードーム、うまく淹れられている証拠です。ケトルを支えるそれにしても腕が少し痛くなってしまいます。

 魔法瓶のなかが茶色い液体で満たされたら、かけてあるマグカップを引っかけ、もう一度漫画部屋へ。さあ、楽しい夜の始まりです。

 れっつぱーりー。                                                  

 座椅子に腰を落とし、天板の上が片付いていることを確認してから魔法瓶の蓋を空けます。ふわりと広がるのは、懐かしい職員室の匂い。カップに注いで、机の角から角砂糖とクリープをとって茶色の水面にたらすと、白いうずまきを描き、やがて溶けていきました。

 どうでもいいでけど、これ眺めるの好きなんですよね。

 ジワリと汗が出るような気がします。多少不快ではありますが、徹夜のお供にホットコーヒーは欠かせません。そう、コーヒーはホットに限るのです。それに暑い日に熱いものを飲むというのも乙なものでしょう。

「ずっ。ずずーっ。ふぅ」

 啜る音だけが部屋に大きく響きます。飲み込むと体の中に熱の水脈が一筋生まれました。半分ほど飲んで、カップを机の左側に寄せておきます。下手なところに置くと、インク洗いと間違ってペンを突っ込んでしまいますからね。これ以上過去の悲劇を繰り返してはいけない。

 小袋に分けられた銀色のペン先を取り出し、ペン軸に設置。そしてこれもお楽しみの一つ、ペン先をライターで炙ります。新品の場合塗られている油を取り除かないとインクがはじかれてしまいます。ティッシュでふきとったりもできるのですが、とあるキャラクタ、私に同人魂を教えてくれた関西人へのあこがれもあってライターを使うようにしているんです。

 黒インクをしっかり含ませ、ティッシュで余分をふき取り、さあ原稿用紙に向かいましょう。

 プロとして活躍されている漫画家さんの中には固形墨を磨って使っている方もいらっしゃるようですが、一度試してみてもいいのかもしれませんね。さて、


 ちゃぽん、かりかり。

 しゅっしゅっ、かりかり、ちゃぽん。


何本も重なった迷い線の中から本当に描きたい一本を見つけだし、インクを乗せる。それを何度も続けていきます。

下書きの時点でクリンナップすればペースも上がろうものですが、私にはこちらの方があっているようなのであえて変えようとも思えません。


かりかり、ちゃぽん。

かりかり、かりかり。


静かな部屋にあるのはその音だけ。

 BGMがあると集中できないし、紙とペン先の擦れる音が好きだから作業のデジタル化も考えていません。そもそも私には宝の持ち腐れとなって持て余してしまうのが落ちでしょう。

 一本、また一本、引いた線で真実描きたいものの輪郭をとらえられますように。祈りのかけらを乗せたペンを走らせます。

 格競争を行う気も、利潤最大化をする気もなく、私の絵を、私の物語を閉じ込めた本を机に陳列する。

 それに価格相応の価値を見出した人がいたら本は売れるしいなければ売れない。私なりのそれを同人魂として活動してきました。

 結果としてイヴェントの度、在庫の占める面積が広がる一方。それでも商売欲を出す気がない私の勝ちなのです。

 とまれ、周りの多くが恋人とのデートや初めてのキス、体のつながりなどなど一般的リア充として青春を謳歌している間、私はお小遣いのほとんどをペンや画材に費やしていた。否、現在進行形で費やしている立派な非リア充と相成ったわけなのです。

 考えてみると十年近くも同じことを繰り返して、飽きるどころか深みにはまろうとしている、困った趣味を持ってしまったものです。それほどにこの趣味は面白すぎるのですから。いつか止めようと思うまで、又は止めざるを得なくなるまで私はペンを握り続けるのでしょう。


 ちゃぽん。

 かりかり、しゅっしゅっ、ちゃぽん。



 夜中に作業を始めるということは、必然的に朝方に終わりを迎えるということです。いくら簡単な業務だからと言って徹夜で店頭に出るという事はしたくないもの。ましてや趣味のせいで本業を休むなど許されざることでしょう。夜を徹して原稿と向き合えるのは定休日の前日だけというわけです。お目付け役を買って出てくれた方のメンツをつぶすわけにもいきませんし、今から嵐吹きすさぶ社会の荒波に放り出されるのもごめんですからね。

存分に没頭し、翌日早朝に布団にもぐりこむ、定休日前夜はサラリーマンの諸姉諸兄が浮かれるところのハナキンのようなものなのです。今夜も同様、区切りの付いた時には時計の短針が3.5の辺りを指していました。

「今日はここまでで……」

座椅子の上で大きく伸びをするとぽきゃっという音と一緒に、凝り固まった背中が心地よく痛みます。

 インクが乾いていることを確認できたものだけを書類用封筒に詰め込み、私はベッドにダイビング。

 あとは目を閉じ、日暮時に『また休日を無駄にしてしまった』というささやかな後悔を抱きながら起床するまでは、何も考えない夢の世界へと落ちていくだけです。


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