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巻雲の空  作者:
1/1

手記

この物語は、僕が研究室の片隅で古びた一冊の本を発掘したことに始まる。


しっかりと製本された多くの研究資料や参考文献の中にたった一冊、まるでそこだけ時が違うかのように黄ばんだ和装本が佇んでいた。


その本を見つけたのは、単なる偶然であった。


僕が所属する江戸時代研究室の教授は、この忙しいレポート提出時期に突如会議へと旅立っていった。


いつもならギリギリに提出するレポートだが、期限を一週間も余して終わらせ、教授の元へ向かった。


それが仇となった。


とっとと提出して楽になろうとした、数時間前の自分を殴ってやりたい。


「おお、藤堂じゃないか!いいところに来た!これから急遽会議に出席しなきゃならなくなったんだ。レポート提出期に研究室を閉めることは出来ない。藤堂、俺の代わりに留守番しててくれ!」


嫌だ嫌だと駄々をこねる僕を黙らせたのは”バイト代出すから”の一言だった。


あー畜生。引き受けるんじゃなかった。


外を見ると朝は雨に近かった雪が、牡丹雪に変わっていた。


これは積もるな。帰れなくなったらどうしよう。


伸びをしながら研究室を見回した時、前述した本が目に留まったのだ。


透明な袋に収められたその本を出してみると、まず厚さに驚いた。

和装本は厚くてもノート程の厚さだと勝手に思っていたが、これは難解な推理小説の単行本程の厚さがある。

めくってみると、黄ばみが相当なものでとても読めたものではない。


だがそこにはもう一つ、本状に綴じられた真白な用紙が入っていた。


おそらく教授がその本を読解し、現代語訳したものだ。


”藤堂直正 手記 衆道記録”


表紙にはそう明朝体で書かれていた。

この本が手記で、しかも衆道に関する物だと知った。


「げっ、衆道…」


嫌悪感から思わず声が出た。


衆道とはいわゆる、武士同士の同性愛ってことだ。

なぜ嫌悪感が生じたかは、今は書かないでおく。


それでも読んでみようと思ったのは、手記の主が自分と同じ名字だった事と、嫌悪感に対する究明が大きかった。


暇だし。


最後に付け足した理由は、言い訳に過ぎない。


手記を目の前に起き、教授の現代語訳をめくった。



私と小姓・藤丸について記すのはこれが最後になろう。



冒頭は、そう始まった。




私と小姓・藤丸について記すのはこれが最後になろう。


藤丸が私の小姓としてついた日のことはよく覚えている。

朝から雪が深々と降る、手先が凍るような日だった。


私が座敷に入ると、彼は小さい体を一生懸命平伏していた。

雪よりも白い肌が幼さを表していた。


「藤丸。本日より私の側に置く。懸命に務めよ」


はい、という声はか細く、寒さからか震えていた。


顔を上げるとより一層白さが際立った。

しかし気になるのは目線だ。私を一直線に見つめると、一切その目線を外さない。

なにを話しかけても答えず、ただただ私を見ていた。


これか。悪い癖だ。


「藤丸。何か申したいことがあるなら申してみよ」


見兼ねてそう言うと、藤丸はぬけぬけと


「藤堂様は、美しゅうございます」


と言った。


これはとんでもないものを引き受けてしまった。

最初の後悔はこの時であった。


まだ雪の降る気配もなかった十月末。

私をある男が訪ねてきた。


「この先、お前がすべき事は全て信義が教えてくれよう」


父が息を引き取る寸前にも名を出した、絶対的信頼を寄せる伊藤信義殿だ。

藤堂家の先代、藤堂正親は早世であった。二十余であった私は突如当主となることとなった。


その際、当主としてすべきことを一から百まで教えてくださったのが伊藤信義殿であった。


彼は父と師弟関係にあった。

幼き頃剣術を教えてもらったとかで、父を先生と呼んだ。

だが私の目には師弟というより、竹馬の友のように見えた。互いを信用し、慕い、酒を酌み交わすだけで何を考えているのか分かる。そんな関係に見えた。


あれからもう五年か。


伊藤殿が文を寄越した日から今日まで、そんなことを仕切りに考えていた。

なにか訳があって来るのであろう。私に出来ることならばなんでもしよう。それが恩返しというものだ。


伊藤殿がいらっしゃったのは酉の刻であった。


「酒を飲む姿が先生そっくりになられましたな」

「まだ父ほど老いてはおりませぬ」


賑やかに酒を飲み、飯を食い、懐かしい父の話に花が咲いた。


「それにしても立派になられました。直正殿」


まるで自身の倅の成長を喜ぶかのように目元を赤らめた。


「これも伊藤殿のお陰にございます」


たった五年で伊藤殿はとても老いたように見えた。

その歳になると我らより時が早く進むのか、それとも大変な苦労をされたのか。


「直正殿。恥を忍んで、頼みがございます」


座布団を除けると、居ずまいを正した。


「倅、藤丸のことにございます」


伊藤家には息子が三人いる。

嫡男は私と同じ歳で、藤丸は三男。元服を済ませるか済ませないかの歳であろう。

私は黙って伊藤殿の話に耳を傾けた。


「どこで道を踏み外したのか…剣も学ばず、学問もせず…私共ではもう手におえませぬ。奉公に出すことも考えたのですが、どこでか倅の噂を聞きつけ難色を示されるばかり。この様子では養子に出すこともままなりませぬ。伊藤家の恥とならぬよう立派な武士に育てとうございますが、家に居ってはそれも望めませぬ…」


ここまで口早に言い終わると、より一層深く頭を下げた。


「この藤堂家で、倅に奉公をさせてはもらえませぬでしょうか」


額が地に着く勢いで頭を何度も下げた。


老いて見えた原因はこれか。

武士の倅を丁稚奉公へとは、相当手を焼いているのだろう。


「伊藤殿、どうか頭を上げてください」

「私には頭を下げることしか出来ないのです」

「伊藤殿・・・」

「私共が手を焼いている訳は・・・」


長い沈黙があった。

余程言いづらいことなのだろう。


「おっしゃらなくとも結構です。藤堂家に安心してお預けください」


そう言うとすさまじい勢いで頭が上がった。


「伊藤殿には返しきれぬ程の恩がございます。私めに出来ることでしたら何でも致しましょう。但し・・・」


噛み切るような勢いで一文字に結んだ唇が目に入った。


「使用人は間に合っております。私の小姓というのはいかがでしょう」

「それはなりませぬ!」


言い終わらぬうちに伊藤殿は声を張り上げた。


「直正殿のお側になど置かずともよいのです。飯炊きでもさせていただければ・・・」

「そのようなことはさせられませぬ。丁度側に身の回り雑務をこなしてくれる者が欲しかったのです。どうも私は書物を片付けるのが苦手でして」

「ですが・・・」

「小姓としてが嫌でしたら、この家に置くことはできませぬ。よいですな?」


いくら手を焼いているといえど、武家に生まれた倅に奉公などさせたくないはずだ。

それは自分も武家に生まれた人間としてよく分かるのだ。

それに、父ならこうしたはずだ。


「学問でしたらいくらでも教えられます。剣術も私でよければ教えましょう。父から受けた稽古の受け売りですが」


私が笑うのと、伊藤殿の涙が溢れるのはほぼ同時だった。


「かたじけのおございます」


そう言ってまた深々と首を垂れた。

その数日後、あの訳を爺が町で聞いて帰ってきた。


「どうやらナンショクの気があるようですな」


私の部屋に入って来るや否や、爺はそう口にした。


「ナンショクとは?」

「直正様はそのような事を知らずに大きくなられようございました。しかし初心にも程がありますな」

「なんだ。早く申せ」

「男の色と書きまする。男色。男を誘う男、ということにございます」


なるほど。そういうことか。


「伊藤家を訪れる武士、時には商人にまで色目を使い、数多くの男と閨を共にしておったようです。何と見つめるだけで男を落とせる、というような噂まで広まっておりました」


ほう。

爺の話に頷く。


「相当手を焼いていたご様子で、出家まで考えていたようです」

「なに、僧侶にか」

「ええ。しかし寺は男だらけですから、逆効果でございましょう。欲を手放せるとは思えませぬからな」


火鉢がパチっと音をたてた。


「そのような者を小姓として置く気でございますか。伊藤様もこのような訳を申さぬとは如何なものでしょうか」


爺は遠回しに断れ、と言っているのだ。


「私が訳を言わせなかったのだ。伊藤殿には恩がある。武士が一度決めた事だ、二言はない」


爺は大きく溜息をついた。


「それに当家に男は私と爺だけだ。さすがに老いぼれた爺に色目は使うまい。私の側に置けば出入りする者どもにも気軽に近づけんはずだ」

「まったく、直正様は年々正親様に似てゆきまするな」

「はは。伊藤殿にも言われたよ」


爺は祖父が当主の頃から藤堂家に仕えている。

父の遊び相手になっていたという爺は、父の面影を私に見ているのだろう。そんなに似ているかな、と時に思う。


「藤丸。一つ心に留めておけ。お主の父上が私のような若造に頭を下げたという事実を。すべきことは分かっておるな?」

「はい」


またか細い返事が聞こえた。だがまだ私から目を離さない。

色目が私に向く分には構わない。私さえ屈しなければよいのだ。

この時はそう、考えていた。



「藤堂。ありがとうありがとう!助かったよ」


教授が会議から戻って来で気付くと、辺りが暗い。

随分と長いこと、手記に没頭していたようだ。


「この時期、研究室に明かりがついていないだけで学生課がうるさくてね。若いというだけで何かにつけて文句が多い。」


教授は大学院を出てすぐに准教授としてこの大学で勤め出した。今年で三年目だ。

今は二十九歳ということになる。

学生達は皆、”年が近いから何かと相談しやすいし、イケメン”と口を揃えて言う。


「お、勉強か?」


用紙に目を落としていると、僕に覆いかぶさるように手元を覗き込んだ。


「い、いえ、そんなんじゃっ」


しどろもどろになりながら立ち上がると、椅子が音を立ててひっくり返った。


「そんなに驚かないの」


椅子を元に戻すと、僕を落ち着かせるように背中を撫で、また椅子へ座らさせた。


「そういやレポート、早かったな。」

「はい。今回の議題はまとめやすくて」

「そう」


教授は僕のレポートをペラペラ捲った。


「俺の為に頑張ったのかと思った」

「どういう意味ですか?」

「少なからず意識してくれてるでしょ?俺が君に気持ちを、」

「僕はっ・・・」


教授の言葉を遮った。

とても耐えられなかったのだ。


「僕は・・・」

「あはは、ごめんごめん。」


あ、バイト代。と教授は財布を出した。


「いえ、大丈夫です・・・その代わりにこれ貸してくれませんか?」


先ほどまで読んでいた手記を提示した。


「懐かしいものを見つけ出したね。それ衆道についての記録が書かれてる手記だよ?」

「分かってます」

「・・・いいよ。でも現物の方はもうボロボロだからあまり開かないようにね」

「はい」

「返却は冬休みが終わったらでいいから、ゆっくり読みなさい」

「ありがとうございます。では、今日はこれで失礼します」

「本当に助かったよ。ありがとう」


衆道。同性愛。


嫌悪感を抱いている原因は本当は分かっている。

でもまだ分からないフリをする。


何も知識がないのに、何も知らないのに、結論を出すのは違う気がした。


この手記が何か教えてくれる訳じゃない。

それでも何故か最後まで読むことが、僕の義務な気がした。


やっぱり積もったな。

一歩踏み出す毎に雪が軋む。


そんなことを思ったのは、藤堂直正が藤丸に出会った日に今日が似ていたからかもしれない。

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