訪問者
ここはとある都会の街のビルの最上階。乳白色をした大理石の壁と床、その上に敷かれた広いふわふわの黒い絨毯、同じ色の大きなソファーと樫のテーブル、そしてきらきらと輝く夜景を臨む巨大な窓、揺り椅子。
揺り椅子に体を埋めた肌色の毛をしたはつかねずみは、新聞を読んでいた。体をゆらゆら揺らしながら。こうすると安心する。母の腕の中にいるようで。
ところが彼は、そのとき違うことを考えていた。
「ふうん」
独り言。
「桜の木ピイっていうのか」
彼は新聞の書評欄を見ていた。そこでは『百年の旅』という冒険小説のシリーズが紹介されている。「実に奇妙な冒険譚」、「著者の想像力は果てしない」、「整然とした文章」、「ユーモア」、「二十巻に渡っても衰えぬ面白さ」。最後に、『百年の旅』シリーズの著者、桜の木ピイのはにかんだような表情の写真。
彼はじっとその白黒写真を見つめた。優しそうな、かわいらしい女性。黒くて丸い目に、小さな鼻と口。誰かに似ているな、と思う。
「誰だっけ」
揺り椅子に勢いをつけて絨毯の上に跳び下りると、彼は首をかしげた。しかし、それにしても。
「なんて素敵な女性なんだろう」
彼は口元をほころばせた。早速この書斎の奥にある樫の机のところに行き、装飾過多な白い電話の受話器を手にする。新聞を見ながら番号を回す。しばらくベルの音を待って、流暢に話し出す。
「もしもし、わたしは『ボン・シェール』のオーナーで、梅の木ルウと申すものです。ええ、ええ、そうです。実はあなたがたの新聞記事に関心がありまして。ええ。桜の木ピイ氏のことなんですけれど、住所はわかりますか? わかるなら教えていただきたい」
ここでルウは、しばらく黙った。すると相手がまた出たようだ。ルウはまた無表情に口を開く。
「ええ、ええ。何だ、そんなに遠くないじゃないか。車を飛ばせばすぐだ。え? 何の用事かって? あなたには関係ない。じゃあ、ありがとうございます。さようなら」
受話器を置くと、ルウは灰色の上等なベストの上に同じ色のジャケットを着、黒いフロックコートをかぶせて部屋を出ようとした。
「おっと」
突然足を止める。
「明日は仕事だった」
仕方なく、また机に戻って手紙を書いた。真っ白な便箋に、黒い万年筆を走らせる。
『桜の木ピイさん、こんにちは。わたしはあなたのファンです』
ルウは首をひねる。これは嘘だ。そう思ったのだ。しかし、こう書くしかない。
『あなたの家に伺ってもよろしいですか? ぜひとも直接お話したいことがあるのです』
突然すぎるだろうか。ルウは額にしわを寄せて考え込んだ。
「まあ、いい」
そうつぶやくと、彼はこう書いた。
『わたしの名前は梅の木ルウ。レストランのオーナーです。きっとあなたもご存知のはず』
うぬぼれが過ぎるだろうか。
『あなたがわたしを迎え入れてくださったら、わたしはあなたの街にあるわたしの店に、ご招待いたします。交換条件です。いかがでしょう』
これはなかなかいい文だ、とにたりと笑う。
『では、お会いできる日を楽しみにしています。梅の木ルウ』
「これでいい」
ルウは満足げな顔をして、手紙を封筒に入れた。机の上にそれを置くと、コートとジャケットを脱ぎ、揺り椅子に向かう。体を沈めると、椅子はぐらりと大きく揺れる。ルウはその揺れが落ち着くのを待ってから、自ら椅子を揺り動かし始めた。
「桜の木ピイ」
ゆらゆらと、体が揺れる。
「素敵なひとだ」
そのまま、眠る。一定のリズムで揺れながら。
ルウは滅多にベッドで眠ることがない。一番落ち着くのは、この揺り椅子だからだ。母の腕の中にいるように思える、揺り椅子。
ルウは子守唄を聞いた気がした。
『梅の木ルウさん、はじめまして。お手紙拝見いたしました。来てくださるのなら、ぜひいらしてください。お待ちしております。桜の木ピイ』
書斎の机で手紙を開いて、優しい感じのする小さな字を読み、ルウは、レストランのことに触れられていないことに不満を覚えた。しかし、ぜひ来てくれとの言葉に満足し、にたにた笑う。電話に手を伸ばし、くるくると番号を回す。しばらく待つと、女性の声が聞こえてきた。
「二コルか? スケジュールを教えてくれないか」
秘書のニコルが予定を読み上げる声がする。ルウはいちいちうなずき、最後に、
「明日から一週間、予定をキャンセルしてくれないか。用事ができたんだ」
と笑った。ニコルが慌てる声がするが、ルウは気にしない。機嫌よく答える。
「君とのデートも、もうやめにしよう。え? 何でって、素敵な女性を見つけたからさ。わたしの母によく似た女性で、とても優しそうで、上品そうで。え? 君に不満があるわけじゃないよ。ぼくは君を愛してた。でも今は別の女性を愛している。それだけのことだよ。二コル。怒らないでくれ。ぼくが運命の女性を見つけたからって、嫉妬しないでくれ。じゃあ、予定のキャンセル、頼むよ」
電話が切れた。ルウは口元をへの字にして、首をすくめた。それから、いそいそと旅行の準備を始める。白いシャツを一週間分、ヘアブラシや歯ブラシなどの身づくろいのセット、ピイの著書を一冊。ピイの本はなかなか面白かった。これで話が弾むぞ、とルウはほくそ笑む。それだけを皮のスーツケースに入れると、彼はまた電話をかけた。
「ああ、ニコルか? 悪いが桜の木ピイさんが住む街で一番上等のホテルを予約してくれないか? ん? 何をぐずぐず言ってるんだ。君だってわたしの秘書だろう。ああ、それでいいんだ。じゃあ、頼むよ」
ルウは目をくるりと回して、灰色の山高帽を被り、スーツケースを持って歩き出した。書斎を出ると、広い廊下。真っ直ぐ行けば、観音開きの玄関ドア。ルウは振り向いて、誰一人いない広い部屋を眺めた。こんな部屋より、彼女の元にいるほうが何倍も楽しいだろう。
絨毯の敷かれた短い廊下を歩いて、ルウ専用のエレベーターに乗る。降りながら、考える。彼女はどんな声で話すのだろう。どんな仕草をするのだろう。楽しみでならない。
空想に浸っているうちに、エレベーターは一階に着いた。外へ続く通路。この横は、ルウのレストランである『ボン・シェール』の本店だ。ルウはかまわず歩いて、外に出た。
寒い。びゅうびゅうと冷たい風が吹き付ける。見上げるほどの大きなビルばかり立ち並ぶ。街行く人たちはみな着飾り、洗練された足取りで歩いていく。ルウは小さく舌打ちをした。わたしが求めているのはこういうものじゃない。もっと素朴で、優しくて、そう、母のような。そう思って、ルウは待たせてあった黒い車に乗った。
きっと、桜の木ピイは母のようなひとだ。優しくてか弱くて、守ってあげたくなるような。
ピイの住む都市のレストラン街に程近いホテルに荷物を預けると、早速ルウはピイの元に向かった。黒い高級車で通りすぎていくルウを、レストラン街のひとびとは物珍しそうに見ている。ここらは田舎だな、とルウは思う。しかし、懐かしいものだ、とも思う。
枯れ草の真ん中を通る道を行くと、小さな街に出る。桜の木ピイの家は、その先のほうにぽつりと立っているらしい。こんな不便なところに住んで、不満はないのだろうか、と思う。
背の高い枯れ草の続く道を曲がってすぐに、赤い屋根の小さな家が現れた。あれが桜の木ピイの家だろうか。胸が高鳴る。
広い庭の一角に車を停めても、誰も出てこない。いぶかしく思ったルウは、車から降りてペンキを塗ったばかりの真っ赤なドアをノックした。
「はい」
ややか細い声が聞こえて、ドアががちゃっと鳴る。ルウは笑顔を作る。ドアがゆっくりと開く。白い毛、大きな耳、丸い目。そういうものが一気に目に飛び込んできた。
「愛らしい」
ルウは桜の木ピイの優しげな笑顔を見て、そうつぶやいた。ピイが首をかしげる。
「今、何と?」
「いいえ。何でもありません。はじめまして。この間お手紙を差し上げた、梅の木ルウです」
ピイが笑顔を深める。
「梅の木さんですね。とっても洗練された方だからびっくりしてしまいました」
「どうかルウとお呼びください。桜の木さんとはお近づきになりたいのです」
「あら、そうですか? なら、わたしのこともピイとお呼びください。お友達はみんなそう呼ぶんです」
「じゃあ、ピイさん、よろしくお願いします」
「こちらこそ。寒いでしょう? お入りください」
ピイはくるりと後ろを向いた。腰で結ばれたワンピースのリボンが軽く揺れる。今日のピイは枯れ草色のワンピースに、こげ茶色のショートブーツという格好だった。地味な色だけれど、季節感があって野暮ったい感じはしない。
暖炉で暖められた部屋にある、桜材の、使い込まれたテーブルに着くと、ピイは温かいハーブティーを出してくれた。それを飲みながら、彼女はコーヒーを飲まないのだろうか、と思った。ピイは台所でお茶菓子を探しているらしい。がたごと音がする。
それにしても、と彼は思う。
彼女の仕草の優雅さ。ゆっくりとしていて、せかせかしていない。指の先まで上品だ。彼女は本当に素晴らしい女性だ。恋人はいるのだろうか。
ハーブティーが半分になったころに、ピイはやっと出てきた。クッキーを皿に盛っている。
「これ、お友達と一緒に焼いたんです。お口に合うかしら」
ルウは嫌な予感がしたが、目の前に置かれたシンプルなクッキーを手に取った。チーズの匂いがする。
「ルウさんは『ボン・シェール』の経営者でいらっしゃるんですよね。そのお友達がこちらにあるお店にしょっちゅう通ってるんですよ」
「光栄だな」
匂いがひどい。見た目も未熟だ。しかし、ぱくっと一口、食べてみた。ゆっくりと咀嚼する。
「なかなかですな」
「本当に? 嬉しいわ」
ピイが手を合わせて喜ぶ。しかしルウは、口に合わないチーズ・クッキーに必死に耐えていた。
彼女には味覚のセンスがないらしい。いや、一般的には普通だろう。けれど自分の口には合わない。それに「友人」が『ボン・シェール』に通っている、ということは、彼女は通っていないということだ。これは何としても店に連れて行ってやらなければならない。
「ピイさん、わたしの店には行かれたことが?」
何気なく、尋ねる。ピイは少しうろたえる。
「ごめんなさい。行ったことがないんです。ご飯はいつも自分で作るものですから。だからお手紙にも何て書けばいいのかわからなくて、お店のことは書けなかったんです」
正直な女性だ。ルウはまたピイを好ましく思い始める。こういう素朴な女性こそ、素晴らしいのだ。都会の、虚飾に満ちた女性はもう飽き飽きだ。
「それじゃあ、わたしの店にお連れしますよ。明日はいかがですか?」
「明日は、約束があって」
「どなたとの約束ですか?」
「それは」
そこに、元気のいい声が飛び込んできた。少年の声だ。
「ピイ! やったよ!」
見ると目の前の赤い出窓の向こうで、枯れ草色の少年がぴょんぴょん跳んでいた。
「まあ、リン」
ピイは立ち上がり、出窓を開いた。びゅうっと冷たい空気が入り込んでくる。
「どうしたの?」
「あのね、あのね」
「寒いから中に入りなさい」
「わかった」
窓から、ぴょん、と飛び込む。とても身軽だ。
「ドアから入ればいいのに。それで、どうしたの?」
ピイは困った顔をしたものの、慣れっこなのか大して気にしていない。
「ぼくの書いた小説が、出版社で採用されたんだよ!」
リンは大騒ぎだ。歯をがちがち鳴らしながらまた同じように飛び跳ねる。ピイの表情がみるみる明るくなる。
「本当に?」
「本当だよ! 今度雑誌に載せるって」
「あの短篇、よくできていたものね。わたしもとっても嬉しいわ」
ピイが興奮気味に顔を両手で挟む。
「これでぼくはピイのライバルだよ。でもさ、でもさ、お金が入ったんだ。短篇だから大したことがないけど。これでピイを『ボン・シェール』に連れて行けるよ。本店は無理だけど、ユウリやイリアが行ってる店には行ける。明日、行かない?」
リンは目をきらきらさせてピイを見ている。ピイは嬉しいのと困ったのがない交ぜになったような表情で、黙っている。
ルウは咳払いをした。ぱっと、リンが振り向く。とたんに不審そうな顔をする。
「このひと、誰?」
誰とは失敬な、と思ったが、ルウは黙っていた。ピイが慌ててルウの元に近寄る。
「ごめんなさい、ルウさん。この子は小説家になったばかりの、リンっていうんです。小さい頃から仲良くしてるんです。そして、リン。このひとは『ボン・シェール』のオーナーの、梅の木ルウさんよ」
「本当に?」
目を輝かせるリン。ルウは少し誇らしげな気分で、胸を張る。
「はじめまして、リン君。わたしの店のファンなのかい?」
「小さいころ、ひとかけのチーズを食べたときからファンです。ずうっとずうっと、ピイをお店に連れて行きたかったんですよ」
「どうして、ピイさんを?」
ルウが意外に思ってリンを見ると、リンはがりがりと頭を掻いた。
「小さいときは、ピイと結婚したいくらい好きだったんです。それで気を引こうと『ボン・シェール』に連れていく約束をして。今はそんな子供っぽい感情はなくて、純粋に友達として好きだし、小説家として尊敬してます。だから約束くらい実現したいなあって」
「でも、君もわたしもピイさんを店に誘ったのに、ピイさんは都合が悪いようだよ。どうしてだろうね」
「そうですね。どうして? ピイ」
二人がピイのほうを向くと、ピイは照れたように笑った。リンがそれを見て、がっくりと肩を落とす。
「なあんだ。シムリかあ」
「シムリ?」
ルウが訊くと、リンは残念そうに笑って、
「ピイの婚約者です」
と答えた。ルウは頭を叩かれたような衝撃を受けて、思わず先程のクッキーを口に放り込む。これは口に合わないものだった、と気づいたルウは、やっと我に返った。
「婚約者がいらっしゃるんですか?」
「ええ」
ピイははにかんで、左手の指にはめたピンクサファイアの指輪を見せた。きれいな指輪だ。けれど自分ならもっと立派な宝石を彼女に与えることができるのに。そう思ったとき、ルウはいつの間にやら自分がピイを妻として迎えたがっていることに気づいた。
2
さて、どうしよう。
ルウは自分の部屋によく似たホテルの最上階のスイートルームで、革靴をこつこつ鳴らしながら歩き回っていた。
ピイに婚約者がいる。恋人どころではない、婚約者だ!
自分が焦っていることに少しずつ気づき始めた。ルウは醜くなくむしろ整った容貌をしているし、都会の紳士だ。今まで落ちない女性はいなかった。それなのにピイは自分に友情以上の感情を持っているように見えない。このままでは彼女は結婚してしまう。何か手はないか、ルウは考え始めた。
こうこうと明るく輝くシャンデリアの下で立ちどまって考えて、ルウは指を鳴らした。
「プレゼントだ」
そうだ、それしかない。自分の容姿やふるまいがピイの目にとまらないのなら、プレゼントで気を引いて、あとは得意の話術でどうにかするしかない。そのうちにピイも自分の魅力に気づいてくれるだろう。
ルウはそんな目算をして、黒いパジャマを着たままベッドに入った。ここには揺り椅子がない。そればかりは不満だ。彼は灯りを消し、じっと暗闇に目を凝らした。
母が死んでもう何年経つだろう。
自分が成功者になってからは何年だ?
母が生きていたら、今の自分を喜んでくれるだろうか。
こんなことをぐるぐる考えながら、ルウはいつの間にか丸くなって眠っていた。
「ここが職人街か」
ルウは、職人の木をシンボルのようにして広がる、雑然とした街を見た。広い湖、走り回るねずみたち、様々な工芸品、機械。なかなか面白い街のように思えた。
目の前を白地に黒いぶちねずみが走り去ろうとしていた。何やら工具を抱えている。ルウは彼に声をかけた。
「ちょっと訊きたいんだが」
ぶちねずみはいらいらしながら少しのんびりと話すルウのほうを見た。
「何だよ」
「宝石職人はどこかな。探しているんだけれど見つからなくて」
「あっち。湖の真ん中の島では装飾品や洋服の製造をしてるよ。渡し舟で行ってみな」
ルウはお礼を言おうとしたが、間に合わなかった。ぶちねずみはそんなものどうでもいい、と言わんばかりに走って行ってしまった。
騒々しい街だ。
ルウはレストラン街の優雅さと比較して呆れた。そしててくてくときっちりとした石畳の上を歩き始めた。ここは本当に騒々しい。楽しい街だけれど、騒々しい。
大きな桟橋に着くと、貨物用の蒸気船があったので、船長と交渉して乗ることにした。船長はルウののんびりした態度が気に食わないのか、それ以降話しかけてこない。だからルウは運転室の隅で湖を眺めていた。広い広い湖。その真ん中にある島。白い建物が立ち並ぶ。そこではたくさんのねずみたちが湖の外でのようにせかせか歩き回っている。手には大きな宝石の塊が見えた。凝った絨毯のようなものもある。装飾品だけの職人島。なかなか面白そうだ。
たどり着くと、石畳の道に、寒いのに道側の壁がない建物がたくさん、整然と並んでいる。その中で絨毯やら陶磁器やらの製造がされている。ルウは山高帽をちょっと上げながら、一つ一つ見る。宝石職人はいた。ルウは大粒のモルガナイトを買った。淡い、何ともいえない紫色の宝石。ピイにはこういう淡い色の宝石が似合う。だから彼女の婚約者もピンクサファイアを指輪の飾りに選んだのだろう。値段では負けていない。それに指輪にもペンダントにもしないでただカットされた宝石を渡すことは、粋だと思った。売った職人には変な顔をされたけれど。
ルウは宝石の入ったケースをポケットに入れて、にまにまと笑いながら歩いた。他に彼女の気に入りそうなものを買ってみようと思っていたのだ。
ふと、小さな工房に気がつく。そこは静かで、硬いものを叩いたり切ったりする騒がしい音がしない。薄暗い。職人も一人だ。工房には、無数の帽子が並んでいた。
「あの」
ルウは思わず声をかける。
「帽子職人の方ですか」
椅子に座って、太い針で赤いベレー帽の飾りを縫いつけていた茶色いねずみは、顔を上げた。温厚そうな垂れた目をして、陽気に笑いかけてくる。他の職人たちとは様子が違うので、ルウは少し面食らった。
「わたしが作っているものが、ワインやチーズに見えますか」
帽子職人はにっこりと笑ってルウをじっと見た。ルウは自分のことをあっさり見破った彼に、少し驚く。
「わたしの店においでになったことがあるのですか」
「ありませんよ」
ねずみは後ろを向いた。背中の毛が硬くなって、とげのようになっている。とげねずみのようだ。とげねずみは部品を手に取ってまた椅子に座り、それをベレー帽の飾りに縫い付けた。見ると、繊細な革の花になっている。とてもセンスがいい。
「どうしてわたしをご存知なのですか」
「新聞で見ました」
「わたしの店に興味がないのに?」
「ないですよ。ただ記憶力がいいだけです」
にこにこと、笑いながらベレー帽を点検する。ルウは不思議と侮辱された気はしなかった。彼はとにかくこの帽子職人のセンスが気に入った。ピイに帽子を。そう思うと胸が高鳴る。
「梅の木ルウさん」
「はい」
「帽子を作ってほしいのですか?」
「はい」
ルウは目を輝かせて職人を見た。彼はただ笑っている。
「誰に? どんな帽子を?」
「桜の木ピイさんに、かわいらしい帽子を」
一瞬、とげねずみの職人は真顔になる。そしてまたにこにこと笑い出す。
「彼女はこの間一つ手に入れたばかりですよ」
「あなたから?」
「わたしが作った帽子を。かわいらしい帽子ですよ。枯れ草色のクロッシェ。都会で流行の鐘形の深くて丸い帽子です。素材はフェルトだったな」
「わたしにも作ってください。彼女と同じ素材で、山高帽を」
思わず、ルウはそう言ってしまっていた。帽子職人は笑顔を深め、
「どうしてですか?」
と訊く。
「どうしてもこうしても、彼女と同じ素材の帽子がほしいのです」
「彼女を愛している?」
「はい」
帽子職人はしばらく思案しているようだった。その間もにこにこと笑い続けている。
「わかりました。作りましょう」
帽子職人はそう言った。
「明日出来上がりますから、また来てください」
「あの」
嬉しくてたまらないルウは、にやにや笑いをかみ殺しながら尋ねる。
「あなたのお名前は?」
帽子職人は微笑んだ。
「わたしはラー。帽子職人のラーです」
次の日、ラーの作った見事な彼草色の山高帽を被って、浮き立つ気分でルウはピイの家に向かった。枯れ草だらけの街を高級車で駆け抜ける。ピイの家の庭に着くと、中はとても賑やかだった。
「それでね、今度ピイをルウさんの店に連れていくんだ。すっごくおいしいんだよ。ぼく自身楽しみなんだ」
「それはよかったね、リン」
低くて優しげな男の声。ルウはぎょっとしてドアの前に立ち止まる。
「ピイと二人っきりで行ってくるよ。嫉妬しないでよね」
「しないよ。君はまだガキだろ」
「ガキとはひどいね。ぼくはもうすぐ大人なんだから。第一小さなぼくに嫉妬して意地悪したこと、忘れたの?」
「何のことかな?」
「二人とも、お客様がいらしたわよ。静かに」
笑いを含んだピイの声。とても楽しそうだ。ルウは背筋を伸ばしてドアが開くのを待った。
「あら、ルウさん」
白く愛らしいピイの顔を見ると、ほっとする。ルウは微笑んで、ちょっと山高帽を引き上げた。
「素敵な帽子ですね」
「そうですか? ありがとうございます」
「お入りになってください」
「どうも」
中にいたのは一昨日も見たかやねずみの少年リンと、見慣れぬ黒ねずみの若い男だった。にっこりと微笑んでいる。指には飾りのない指輪。この男がそうか。
「はじめまして、シムリさん」
シムリは驚いたように目を丸くして、笑った。
「はじめまして、梅の木ルウさん。よくぼくの名前をご存知でしたね」
「リン君から聞いていたんです。それに、その指輪」
シムリは自分の左手を見て、ああ、とうなずく。
「ピイの指輪を作った職人の方に頼んで、簡単に作ってもらったんです。対じゃなきゃ、婚約指輪になりませんからね」
この自信満々の顔に腹が立つ。背も自分と同じくらい、容貌も自分と劣らない。ただ、田舎ねずみだ。貧乏ねずみだ。テーブルに乗っているハンチング帽、服装で階級がわかるというものだ。自分はこの男には負けない。ルウはそう思った。
「家具職人でいらっしゃるんですか?」
「はい」
「シムリはグイルさんの弟子なんです。とても優秀なんですよ」
リンが口を挟む。だけどまだ成功者ではない、とルウは思う。自分と違って成功者ではない。
「ピイさんとはどれくらいのお付き合いで?」
シムリとピイが目を見合わせる。微笑みあいながら。
「そうだなあ、去年の冬頃からだね」
「ええ」
「長い付き合いでいらっしゃるんですね」
少女期のピイを知っているシムリが妬ましい。
「シムリはわたしの小説のファンだって、いきなり家に押しかけて来たんです」
ピイがくすくす笑って、シムリがピイの肩に少し触れて照れ笑いをする。
「本当にファンで。今もファンなんです。リンから聞いたんですが、ルウさんもピイの小説のファンですってね。どのシーンがお好きですか?」
ルウはぎくりとした。実は一巻しか読んでいない。懸命に思い出して、
「どこまで行っても不思議な塔が主人公を追いかけてくるシーンですね」
と答える。シムリが笑って、
「初期の名シーンですね。あのころのピイの小説は尖っていて、痛々しいくらいでしたね」
「小説が採用されて、一人暮らしを始めたばかりのころだったもの」
ピイが顔を手で挟む。愛らしい仕草だ。
「ピイの作品は新しい巻もよかったですよね。例えば主人公が夜しかない街にたどり着く。街のひとは皆眠っている。だけど一人だけ起きている少年がいて」
「そうですね。ところで、ピイさんの指輪は素敵ですね。どなたが作られたんですか?」
無理矢理話を変えると、ピイとシムリは変な顔もせずにうなずいてくれた。ただリンだけが首をかしげている。
「アクセサリー職人のユウリです。ぼくらの友人でもあるんですよ」
「素晴らしいセンスですね」
「本当にユウリはセンスがよくて。恋人だった、今は奥さんのイリアの結婚指輪も彼が作ったのよね」
「そうそう。あれは素晴らしい式だったなあ」
「いつ結婚するの? ふたりは」
と、リン。シムリが笑って答える。
「来年の」
「わたしはこの辺りで失礼します。また明日参ります」
ルウは突然大きな声を出して、出て行った。全員が丸い目をしていたが、仕方がない。ルウは結婚の日取りを聞きたくなかったのだ。
去り際にピイに手紙つきの宝石箱を押し付けた。そこにはこう書かれていた。
『愛しています。梅の木ルウ』
本当は二人きりのときに渡すつもりだったのに、やけになってそうしてしまった。悔しさで、ルウは地面の石を蹴った。
「あの指輪が忌々しいな」
ルウはピイの赤い玄関ドアを振り返ってつぶやいた。
3
次の日、ピイの家に行くと、ピイは一人で泣いていた。ルウは駆け寄って、椅子に座ったピイの足元にひざまずいて手を握る。
「どうなさったんです」
ピイははらはらと涙をこぼしていた。何も言えないようだ。
「わたしの送った宝石が、何かご迷惑を?」
ピイは首を振る。潤んだ声でつぶやく。
「あの宝石と手紙は、皆で見ました。シムリはそれについては何も言いませんでした。ただ、微笑んで、『君を愛してるよ』と言ってくれました」
ルウはシムリの自信に苛立った。あのときあれほどに取り乱した自分と比較すると、雲泥の差だ。
「ただ」
「ただ?」
「婚約指輪をなくしたんです。あれは宝石を傷つけないようにと時々外して宝石箱に入れて、鏡台の引き出しにしまうんです。夜、そうしていたら、朝になってなくなっていたんです。シムリは朝来てくれたんですが、そのことを知ると、とても怒ってしまって……。シムリはわたしに怒ったことがないんです。だからとても悲しくて、申し訳なくて」
「わかりました、ピイさん。気にすることはないんですよ。警察には届けましたか?」
「いいえ」
「なら一緒に出かけましょう」
ピイは涙で濡れた顔を拭いて、緑色のチェック模様のコートと枯れ草色のクロッシェをかぶり、器用に帽子の穴から耳を出して、歩き出した。ルウはそれをエスコートする。
外に出て、車に乗せる。二人は警察に行って届けを出して、レストラン街に向かった。
「わたしの店でチーズを召し上がりませんか? 元気が出ますよ」
「でも、リンと約束しているから」
車の中で、ルウはにっこりと笑ってピイの手を握った。
「彼にばれないようにすれば、大丈夫」
「ドレスアップ、していないし」
「わたしがドレスを貸しましょう」
「でも」
何か言おうとするピイをさえぎり、ルウはピイを車から引っ張り出した。レストランの裏口から入ると、ルウの部下たちはすぐにピイのための緑色のドレスを持ってきて、着せた。絹のドレスを着てルウの前に現れたピイは、いつもとはまた違って美しい。ルウは惚れ惚れとする。
「さあ、行きましょう」
歩くだけで注目を集める。それはそうだろう。この店の帝王であるルウが歩いているのだ。隣にいるピイもちらちらと見られて、恥ずかしそうにしている。ルウは誇らしげに歩く。あのピイが自分の店にいる。しかも自分の連れとして。
席に着くと、一番上等のブルーチーズを頼む。
「ブルーチーズは赤ワインに合うんですよ」
ルウはにっこりと微笑む。ピイは少しそれに応える。ルウは満足して嬉しそうにする。チーズを食べながら、二人は向かい合う。
「わたしの母は、わたしがこんなに有名になるとは思っていなかったでしょう」
「それは、どういう?」
「わたしは農家の三男坊で、貧乏人でした。まだ少年のうちに都会に飛び出して、料理人になったんです。それから独立して、店をどんどん出して、そして今の栄光があります」
「お母様はお元気ですか?」
ルウは一瞬微笑みを絶やした。
「わたしが出て行ってすぐに水風船病で亡くなりました」
「まあ」
「母は本当に素敵なひとでした。優しくて、かわいらしくて。あなたによく似ているんです」
「まあ」
ピイが困ったようにうつむく。
「母を愛しているように、あなたを愛していますよ、ピイさん」
「そのことですけれど、わたし」
「ゆっくりでいいんです。お願いですからわたしを愛してください。お願いです」
ルウがピイの手を握ると、周囲のひとびとが二人を見た。ピイが困惑したように辺りを見回す。
「あなたに愛されたいんです」
「わたし」
ピイが腰を浮かした。ルウは必死になって、愛しています、誰よりも好きです、と声に出した。ピイはうつむく。
「わたしはシムリに愛されなくなるのかしら」
また座る。食事を始める。食事は沈黙に支配された。ルウはシムリのことが本当に憎たらしかった。
車で帰ろうと二人で歩いていると、子供に指を指された。
「ママ、あの二人、おんなじ帽子を被ってるね」
母親は、違う帽子じゃない、と笑った。すると子供はこう言う。
「おんなじフェルトじゃないか」
母親は、あら本当、と言って、二人を見、そのまま行ってしまった。
「あの、ルウさん」
ピイのおずおずとした声。
「何でしょう」
少し自信のなさげなルウの声。
「ラーさんのところで帽子を作られたんですか?」
「そうです」
「素材が一緒ですね」
ルウはそう言われると、かえって自信が湧いてきた。彼はピイにこう言った。
「ピイさんと同じ素材で作ってくれるように頼んだんです」
ピイは絶句した。そして、またおずおずとこう言う。
「シムリのハンチング帽も同じなんです」
「え?」
「このクロッシェ、わたしのためにシムリが頼んで作ってもらったものなんです。おそろいで」
ルウはぼんやりしていた。シムリがピイのために作った? 何を? この帽子を? あのハンチング帽とおそろい? ということは、自分はシムリともおそろいだということになる。
「ラーさん、どういうつもりなのかしら」
「あの、ピイさん。お宅にお送りいたします。わたしは用事ができましたので」
「そうですか?」
ピイが首をかしげる。ルウはピイのこの愛らしい仕草に気づかないほどに、怒りで胸が煮えくり返っていた。
「どういうことなんです?」
ピイを帰したあと、ルウはラーの帽子だらけの工房に行くなり怒鳴った。ラーはにこにこと笑っている。
「何を笑っているんだ」
「あなたも悪いひとですね」
にっこりと、ラーは笑った。ルウは足を踏み鳴らした。
「悪いのはあなたでしょう。わたしは恥をかきました」
「ピイさんの指輪を盗んだりして、悪いひとだ」
ぎくり、とルウは黙った。何故知っているのだ?
「わたしは記憶力だけでなく、推理力も優れているんです。あなたのそのポケットの膨らみ、ピイさんの宝石箱でしょう?」
「そんなことは」
「あちらこちらで大騒ぎですよ。ピイさんの指輪がなくなったって。あなたが来てからだ。ピイさんはあの指輪を本当に大事にしていたんですからね。そう簡単になくなるわけがないんですよ」
「わたしは盗んでいません」
「あなたの部下がやったのでしょう? そのほうが疑われませんからね。あなたは悪知恵が働くなあ」
ラーは相変わらずにこにこ笑っている。ルウは力なく、首を振っている。
「あなたがここに来たとき、このひとは何かしでかすな、と思ったのですよ。意思が強そうで、プライドの高そうな、婚約者のいるピイさんに恋する男。帽子の冗談をやって正解でした。あなたにはその程度の罰ではまだまだ足りないようですけどね」
「わたしは、何としてもピイさんと結婚します。邪魔をしないでください」
体中に冷や汗をかいたルウは、工房を飛び出した。そのときも、ラーは笑っていた。
ラーが誰かに言いふらす前に、ピイをシムリから奪おう。何としても。
冷たい風がびゅうびゅうと吹きつける。この職人街にシムリはいる。シムリが帰る前にピイの家に行かなければ。
ルウはピイの家に急いで行って、ピイを驚かせた。ルウはドアが開いた途端、ひざまずいてピイの手に口付けをした。
「結婚してください」
ピイは黙っている。見上げると、ピイははらはらと泣いていた。
「結婚してください。愛しています」
4
「ルウさん」
ピイではない。背後から男の声がした。振り向く暇もなくピイから引き離される。シムリだった。
「ルウさん、彼女はぼくの婚約者ですよ」
ピイはシムリの胸に顔を埋めて泣いている。ではあの涙は、シムリを見たために流れたものだったのか。ルウは立ち尽くしたまま愕然としている。
「ぼくはあなたよりもピイのことが好きだし、愛しているし、尊敬しているんです。ピイだって、あなたから高価なものをもらって心を揺さぶられるような女性ではないんです。彼女はぼくを愛しています。誰よりも、ぼくのことを愛しています」
ルウはただ黙っている。風が、冷たい。シムリの目つきはどこまでも鋭い。
「あなたはぼくがいない隙を狙ってピイに付け入ろうとしたひとです。信用ならない。もう、ピイに近づかないでください。ぼくが愛しているのは彼女で、一生連れ添って生きていく覚悟なんです。彼女だってぼくのことを」
「シムリ、もういいの」
ピイがシムリに抱きつくと、シムリの目が優しくなった。
「これだけは言ってよ、ピイ」
「何?」
「ぼくのこと愛してるって」
ピイが恥ずかしそうにルウを見る。
「言ってよ」
シムリは最初の印象とは違って、強引だ。ピイはささやくようにして、シムリの耳元でつぶやいた。
「愛してるわ、シムリ」
それを聞くと、シムリはピイを抱きしめて、口付けをした。そして、ピイを家に帰すと、ルウを車の方へと背中を押した。
「これでわかっただろう? もうピイに近づくな。車でピイを連れまわすような真似はもうしないことだ」
その声は、低く、静かだった。ルウはうなだれたまま、車に乗った。
「あ、これ」
シムリが作業着のポケットから宝石箱を取り出した。ルウがピイに贈ったものだった。
「ピイが直接返すって言ってましたよ。でもぼくが返します。ぼくがピイに信用されてるってこと、わかりましたよね。じゃあ、さようなら」
ルウはシムリの冷たい目を見て、唇を噛み締めながら車を発進させた。そして、ホテルに帰ると、モルガナイトは宝石箱ごとルームサービスの男に投げるようにしてよこして、ピイの指輪の入った宝石箱はホテルに頼んで郵送してもらうことにした。そして、ルウは都会へと帰っていった。
「もしもし、ニコルか? ただいま。早めに帰ってきたよ。またデートをしないか? 寂しくてたまらないんだ。え? 何だって? 秘書を辞める? 何を言っているんだ。わたしは君のことをちゃんと愛しているし、桜の木ピイさんのことはもう終わったんだよ。ぼくとデートするのは光栄だって、前に言っていたじゃないか。なのにどうして。あれ? おおい」
電話は一方的に切れてしまった。無機質な広い部屋の中には、揺り椅子と、ルウだけが残った。
《了》