第9話 コピー機の反乱
土曜日。午後1時。
丸の内商事のブラックな一週間を乗り切り、ようやく訪れた安息の休日。
俺は、郊外の大型ショッピングモールに併設されたホームセンターのペット用品コーナーで、腕を組んで思案していた。
昨夜の雨の路地裏で拾った黒い子猫、「クロ」。
ひとまずドン・キホーテで最低限のシャンプーやミルクは揃えたものの、本格的に一緒に暮らすとなれば、キャットフード、トイレ用の砂、爪とぎ、そしてキャットタワーなど、揃えなければならない装備が山ほどある。
「ねえ中川さーん、これどうですか? このピンクのフリフリの首輪! 絶対クロちゃんに似合うと思うんですけど!」
隣で黄色い声を上げているのは、丸の内商事の郵便室でバイトをしている女子高生、松田透子だ。
彼女は休日の私服――オーバーサイズのパーカーにショートパンツというラフな格好で、俺の隣をぴたりと歩いている。
「却下だ。クロはオスだぞ。それに、首輪はストレスになる場合がある」
「えー、つまんないの。……それにしても、休みの日にわざわざ私を呼び出すなんて、中川さんも隅に置けないですね。これって完全に『休日デート』じゃないですか!」
透子はニシシと悪戯っぽく笑い、俺の顔を覗き込んできた。
「勘違いするな。お前が昨日の飲み会の帰り際、『明日は暇だから遊んであげてもいいですよ』と連絡先を押し付けてきたんだろうが。俺は『荷物持ち』として無料の労働力を召喚しただけだ」
「無料じゃないですよ! さっきフードコートで、特大オムライスとクレープ奢ってもらったじゃないですか。あれが私の本日のギャラです!」
透子は胸を張って答える。
昨日の飲み会であれだけ食べていたのに、こいつの胃袋はどうなっているのだろうか。
だがまあ、若い労働力を食事一回で確保できたと思えば安いものだ。キャットタワーの箱はやたらと重く、一人で持って帰るには骨が折れる。
「それにしても、中川さんが猫拾うなんて意外でした。もっと冷酷無比な血も涙もないサイボーグかと思ってたのに」
「俺は合理主義者なだけだ。……クロは大人しくて手がかからないし、何より、あの会社で汚染された霊的磁場を整える浄化作用がある」
「あー、やっぱりそういうオカルトな理由なんですね。……あ! そういえば、会社のオカルトといえば!」
透子はポンと手を打ち、猫砂の袋をカートに放り込みながら言った。
「最近、うちの部署の横にあるメインの大型複合機、すっごい調子悪いんですよ」
「紙詰まりか?」
「それもですけど、印刷すると変な黒いシミがついてたり、動いてる時に『ギギギ……』って人のうめき声みたいな音がするんです。昨日の夕方なんか、全然印刷できないから、頭にきてバンバン叩いてやりましたよ!」
「……お前、精密機器を叩くな。ましてや、お前みたいな『霊寄せビーコン』が叩いたら、負のエネルギーが機械に定着するだろうが」
「えっ、私のせいですか!? 違いますよ、あれは絶対、みんなが酷使してるからですって!」
透子が唇を尖らせた、その時だった。
俺のポケットの中で、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、『着信:竹内塔子』と表示されている。
「……嫌な予感しかしない」
俺はため息をつき、通話ボタンを押して耳に当てた。
「はい、中川です。今日は休日ですが」
『な、中川さんっ! た、助けてくださいぃぃっ!』
電話の向こうから、悲痛な叫び声が鼓膜を打った。
同時に、ガシャン! ウィーン! ガシャガシャガシャッ! という、凄まじい機械の駆動音が背後から聞こえてくる。
「落ち着いてください竹内さん。今、どこですか?」
『会社です! 月曜日の会議資料を作るために、午前中から休日出勤してたんですけど……!』
「まさか、あの大量の赤ボールペンを消費させていた営業部の資料ですか。総務がそれを手伝わされていると?」
『そ、それはいいんです! それより、メインの複合機が……コピー機が、暴走して止まらないんですぅぅ!』
「暴走? コンセントを抜けばいいでしょう」
『抜きました! ブレーカーも落としました! なのに、動いてるんです! 真っ黒な紙を、永遠に吐き出し続けてるんですぅぅ! 誰か助けてぇぇっ!』
ブツッ、と通話が切れた。
ただの機械トラブルではない。コンセントを抜いて動いている時点で、完全に「そっち系」の事案だ。
「……どうしたんですか、中川さん。眉間のシワ、マリアナ海溝みたいに深くなってますよ」
「松田。急ぎの仕事が入った」
「えっ、今からですか!? せっかくのデートが……」
「お前のギャラの分はしっかり働いてもらうぞ。行く先は丸の内商事だ」
「ええーっ! 休みの日まで会社なんて絶対嫌ですーっ!」
文句を言う透子の首根っこを掴み、俺はカートを押して急いでレジへと向かった。
休日の午後が、無給の除霊業務によって無残に消え去ろうとしていた。
午後2時30分。丸の内商事、8階総務部フロア。
静まり返っているはずの休日のオフィスは、異様な光景と轟音に包まれていた。
「うわぁ……何これ。雪国?」
俺の後ろを歩いていた透子が、呆然とつぶやく。
フロアの一角が、文字通り「コピー用紙の海」と化していた。
数千枚、いや万単位かもしれないA4用紙が、床はおろかデスクの上まで散乱している。
そして、その中心にある巨大な最新型複合機が、妖しい青白い光を放ちながら、凄まじい速度で紙を吐き出し続けていた。
ガシャン! ガシャン! ウィーーン!
「中川さぁぁん!!」
紙の海の中から、半泣きになった竹内塔子が這い出てきた。
いつものパリッとしたオフィスカジュアルは皺くちゃになり、髪にはコピー用紙が何枚もくっついている。
「竹内さん、怪我は?」
「な、ないですけど……これ、どうなってるんですか!? プラグ抜いてるのに!」
塔子が指差す先、確かに複合機の太い電源ケーブルはコンセントから抜かれ、床に転がっている。
俺は目を細め、霊力を視覚に集中させた。
――見えた。
巨大な複合機のボディ全体に、ドス黒いヘドロのような「手」が無数に絡みついている。
トナーカートリッジの格納部からは、どす黒い怨念の煙が上がり、それが動力源となって機械を強制的に動かしていた。
吐き出されている紙には、文字ではない何かが印字されている。
俺は足元に落ちている一枚を拾い上げた。
『イタイ』『ヤスメ』『タタカナクテモ』『クルシイ』
黒いトナーの染みで、怨念の言葉がびっしりと印刷されていた。
「――『付喪神』ですね」
「つ、つくもがみ? 日本昔話とかに出てくる、古い道具の妖怪ですか?」
「ええ。ですが、現代のオフィス用品でも条件が揃えば化けます。……長年の過酷な労働環境、社員たちの乱暴な扱い、そして何より『感謝されないことへの不満』が限界を超え、機械に魂が宿ってしまったんです」
毎日数千枚の紙を刷らされ、紙詰まりを起こせば舌打ちされ、バンバンと殴られる。
インクが切れれば「使えねえな」と毒づかれ、メンテナンスもろくにされない。
そんな丸の内商事のブラックな念を吸い続けた結果、この最新鋭のコピー機は、自律して反乱を起こす妖怪へと変貌してしまったのだ。
「……あっ! だから私、この前叩いた時にすっごい嫌な感じがしたんだ……」
透子が口を滑らせる。
「ちょっと松田ちゃん! 備品を叩いたの!?」
「ひぃっ! ごめんなさい塔子さん! だって何回やっても紙詰まるから……!」
「精密機械はデリケートなんだから優しく扱ってって、いつも言ってるでしょ!」
塔子が説教を始めた瞬間、複合機がその怒りに呼応するように唸りを上げた。
『ギギギギギギギッ!!』
ガシャッ! と排紙トレイから、真っ黒に塗りつぶされた紙の束が、まるで手裏剣のように俺たちに向かって射出された。
「危ない!」
俺は咄嗟に持っていたキャットタワーの箱を盾にして、紙の弾丸を防いだ。
ドスドスドスッ! と分厚い段ボールと中の木材に紙が突き刺さる。恐るべき射出速度だ。
「……完全にキレてますね。あのままトナーが尽きるまで暴れさせるか、あるいは……」
俺はポケットから赤い付箋を取り出す。
「物理的に破壊するしかありません。俺の『火行の術』で、マザーボードごと焼き切ります」
「ダメですっ!!」
塔子が俺の前に立ちふさがり、両手を広げた。
「あの複合機、リース品なんですよ! 壊したら数百万の損害賠償です! 総務部の予算が吹き飛びます!!」
「しかし、このままではフロアが紙で埋め尽くされますよ」
「私が……私が説得します!」
塔子は決死の覚悟を決めたような顔で、暴走する複合機に向かって一歩踏み出した。
紙の弾幕が飛んでくる中、彼女はひるまずに叫ぶ。
「コピー機さん! ごめんなさい!」
その声は、フロアに響き渡るほど真剣だった。
「いつもみんなが乱暴に扱って、ごめんなさい! 備品管理の責任者として、私の管理不足です! あなたがいなかったら、この会社の業務は一日だって回らないのに……私たちは、あなたに甘えすぎていました!」
塔子は頭を深く下げる。
「紙が詰まるのは、あなたが悲鳴を上げていたからなんですよね。痛かったですよね。……本当に、今まで私たちのために働いてくれて、ありがとうございました。これからは、もっと大切にしますから……どうか、怒りを鎮めてください!」
塔子の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
それは、打算でも何でもない、純粋な「備品への愛情」と「感謝」の言葉だった。
その直向きな想いは、強力な「陽の気」となってフロアの空気を浄化していく。
『……ギッ……ピ……』
複合機の駆動音が、わずかにトーンダウンした。
射出されていた紙の勢いが弱まり、機械を覆っていた黒い手が、戸惑うように揺らめいている。
「あー……私も、叩いてごめん! 次から優しくパネル押すから!」
透子も塔子の後ろから、ひょっこりと顔を出して便乗して謝った。
その言葉で、付喪神の敵意が完全に削がれたのがわかった。
付喪神という妖怪は、元々は人間の役に立ちたいという「道具の心」から生まれる。だからこそ、心からの感謝と謝罪を伝えられれば、その怒りは氷解するのだ。
(……見事なものだ)
霊感など微塵もない塔子だが、その「清廉な心」こそが、どんな呪符よりも効果的な退魔の力となる。
これなら、荒療治は必要ない。
「……竹内さん、下がってください。ここからは私の仕事です」
「中川さん……」
俺は塔子の肩を叩いて前に出ると、カバンの中から「メンテナンスキット」を取り出した。
一見するとただの無水エタノールとマイクロファイバークロスだが、エタノールには俺の特製『聖水』がブレンドされており、クロスには細かい『浄化の呪符』の模様が編み込まれている。
「酷使された体に、癒やしのメンテナンスといきましょう」
俺はクロスにエタノールを含ませ、複合機のフロントカバーを開けた。
むせ返るようなトナーの匂いと、怨念の熱気が顔を打つ。
だが、俺は冷静に、紙送りローラーにこびりついた紙粉を拭き取っていく。
「オン・シュリ・マリエイ・ソワカ」
小声で真言を唱えながら、ガラス面の曇りを一拭きする。
クロスが触れた場所から、黒い怨念が「ジュッ」と音を立てて蒸発し、清らかな光の粒子となって消えていく。
『……キュイン……』
機械が、まるで猫が喉を鳴らすような、心地よさげな電子音を漏らした。
物理的な汚れを取り除きながら、霊的な疲労を癒やしていく。これが陰陽道における「器の浄化」だ。
「最後に、これだ」
俺は胸ポケットから、緑色の付箋を取り出した。
そこには『労恩』の二文字が記されている。
俺はトナーカートリッジの裏側の見えない場所に、そっとその付箋を貼り付けた。
瞬間、複合機全体を包んでいた青白い光がフッと消え、代わりに柔らかな緑色の光が内部から灯った。
ピーッ!
正常な起動音が鳴り、液晶パネルに『Ready(印刷可能です)』の文字がはっきりと表示された。
「……よし。メンテナンス完了です。もう暴走することはありません」
俺がフロントカバーを閉めると、塔子がへたり込むようにして安堵の息を吐いた。
「よ、よかったぁ……。直ったんですね……!」
「ただの清掃ですよ。溜まっていた汚れが原因で、センサーが誤作動を起こしていただけです」
俺はいつものように現実的な嘘をつき、クロスとエタノールをカバンにしまった。
付喪神は消えたわけではない。塔子の感謝の念と、俺のメンテナンスによって浄化され、このオフィスを見守る『守護霊』へとランクアップしたのだ。
これからは、紙詰まりの頻度も劇的に減るだろう。
「中川さん、本当にありがとうございます! まるでメーカーの凄腕エンジニアみたいでした!」
塔子が瞳をキラキラさせて俺を見上げる。
「私はただの派遣社員です。……さて、システムは復旧しました。あとは……」
俺は、フロア一面に散らばった数万枚のコピー用紙の海を見渡した。
「この紙の海を片付けるのは、休日出勤の竹内さんの仕事ですね。頑張ってください」
「ええっ!? て、手伝ってくれないんですか!?」
「俺は時給が発生していませんので。業務時間外のボランティアは先ほどの清掃で終了です」
俺は冷酷に言い放ち、コインロッカーから回収してきたキャットタワーの箱を再び持ち上げた。
「ほら、行くぞ松田。帰るぞ」
「はーい! 塔子さん、片付けファイトですー! 月曜日にねー!」
「ちょ、まっ、見捨てないでぇぇっ! 私一人じゃ終わらないですよぉぉっ!」
絶望する塔子の悲鳴を背中で聞きながら、俺たちは総務部を後にした。
夕方。
アパートに帰宅すると、玄関で『ミャッ!』という可愛らしい鳴き声が俺を出迎えてくれた。
黒猫のクロだ。
俺の足元にすり寄り、小さな頭をこすりつけてくる。
「ただいま、クロ。留守番ご苦労だったな」
俺は重いキャットタワーの箱を下ろし、クロの頭を撫でた。
ショッピングモールでの買い出し、そして丸の内商事での突発的な無給除霊。
貴重な休日の半分が潰されてしまったことへの苛立ちは、クロのゴロゴロという喉の音を聞いているうちに、不思議と溶けて消えていった。
「……さて、飯にするか。お前には高級なカリカリを買ってきてやったぞ」
俺がキャットフードの袋を開けると、クロが目を輝かせて「ミャーン!」とジャンプした。
平和な休日の夜が、ようやく始まる。
月曜日になれば、またあのブラック企業での戦いが待っている。
だが、俺の家には今、最高の「癒やし」の結界がある。
俺はキッチンに立ち、自分のための豚の角煮の準備を始めた。
醤油と八角の甘辛い香りが部屋に広がり、クロが尻尾を立てて足元をうろうろしている。
悪くない休日だ。
そう思えるくらいには、俺もこの生活に馴染んできてしまっているのかもしれない。




