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第8話 歓迎会という名の地獄

 金曜日。午後7時30分。

 定時退社をキメて優雅な週末の夜を過ごすはずだった俺は、なぜか新橋のガード下にある、赤提灯が揺れる古びた大衆居酒屋『大漁丸』の座敷席に座らされていた。


「はい、みんないい!? 中川さんの歓迎会と、私たち丸の内商事・女子会の親睦を祝ってぇー……カンパーイ!!」


 広報部エース・小野みゆきの高らかな音頭とともに、ジョッキがぶつかり合う鈍い音が響く。

 テーブルを囲むのは、俺の平穏な派遣ライフを脅かす「ワケアリ」な美女たちだ。

 総務部の「白百合」こと竹内塔子。

 郵便室の「歩く霊寄せビーコン」こと松田透子。

 受付のラトビア人美女、ソフィア。

 産業医の中山杏子に、社内カフェのバリスタ、アリーナ。

 そして部屋の隅でパーカーのフードを深く被り、「Wi-Fi飛んでない。帰りたい……」と呪詛のように呟いている社内SEの石田繭子。


 名目は「中川さんの歓迎会」らしい。

 広報のみゆきが「色々助けてもらったお礼に、面白いメンツを集めてパーッと飲もう!」と強権を発動し、各部署の彼女たちを一本釣りしてきたのだ。

 時給の発生しない飲み会など苦行でしかない。

 だが、問題はそれだけではなかった。


(……この店、憑いてるな)


 俺は冷えたウーロン茶をすすりながら、油でベタベタになった座敷の天井を見上げた。

 古びた換気扇の横に、ねじり鉢巻きをした頑固親父風の半透明な霊が腕を組んで浮かんでいる。


 ――『昭和のガンコ親父地縛霊』だ。


 「最近の若いもんは」「女は大人しくしてろ」「酒の飲み方がなっとらん」といった古い価値観の未練が凝り固まった霊で、客に不快なポルターガイスト現象を起こしては店を潰そうとする厄介な存在だ。


『けっ! なんだこの女ばかりのチャラチャラした飲み会は! 香水の匂いで焼き鳥の味が落ちるわい!』


 親父霊が天井からギロリとこちらを睨み、座敷の空気を重くして嫌がらせを始めようとした。

 俺はこっそりとポケットの中で呪符を折る。事を荒立てずに、穏便に処理しなければ。

 だが、俺が動くより早く、地獄の宴が幕を開けた。


「すいませーん! とりあえず、唐揚げメガ盛り3つと、焼き鳥盛り合わせタレと塩で50本ずつ! あとポテトフライ山盛りと、もつ煮込み5人前で!」


 先陣を切ったのは、17歳の松田透子だった。

 彼女のテーブルには、すでに空になったお通しの小鉢がタワーのように積まれている。


『ご、50本!? ギャル曽根かお前は! 風情ってもんがないのか!』


 親父霊が目をひん剥く。ポルターガイストでグラスを倒そうとするが、透子は霊が触れるより早く、グラスのウーロン茶を一気飲みしてしまった。


「ちょっと透子ちゃん、食べ過ぎよ。太るわよ?」


 みゆきが笑いながらたしなめるが、彼女自身からは強烈な「陽の気」が後光のように発せられている。


『ぐおっ!? ま、眩しい! なんだこの女、自家発電機か!?』


 陰湿な親父霊にとって、みゆきのオーラは直射日光に等しい。霊がジリジリと壁際へ後退する。


「店員さーん、テキーラある? なければスピリタスでもいいわよ」


 白衣を脱いでタイトな私服姿になった産業医の中山杏子が、妖艶な笑みを浮かべながらとんでもない注文をしている。


「ちょ、先生! いくら明日お休みだからって死んじゃいますよ!」と塔子が止めるが、

「あら、アルコール消毒よ。私の肝臓はチタン製だから大丈夫」と意に介さない。


『い、医者がそんな度数の酒を……!? わしの時代には考えられん!』


「No worries! オーストラリアじゃ水代わりに飲むわよ。はい、これおつまみの『特製厄除けコーヒー豆』。ボリボリいっちゃって」


 アリーナが持参した黒い豆をテーブルにばら撒く。

 その清めの塩のパワーが、座敷全体の穢れをチリチリと焼き焦がし、浄化し始める。


『ぎゃあああっ! 塩辛い! なんだこの豆! 豆まきは節分だけにしろ!』


「Oh! ジャパニーズ・パーティ、最高デスネ! 私、故郷の歌を歌いマス! 森の精霊よ、降りてこーい!」


 ソフィアが立ち上がり、ジョッキ片手に謎のラトビア民謡を大声で歌い始めた。

 彼女の「精霊の加護」が歌声に乗って広がり、低級な地縛霊の存在そのものを上書きしていく。


『やめろ! 演歌を歌え! なんだそのよくわからん外国の歌は! 調子が狂うわい!』


「……うるさい。……帰りたい。……私のジョセフィーヌが泣いてる……。お前ら全員、スパムメールに埋もれて社会的に死ね……」


 部屋の隅で、繭子がウーロン茶のグラスを握りしめながら、怨念にも似た凄まじい負のオーラを撒き散らしている。


『ひぃっ!? こ、こいつ一番闇が深いぞ! わしより怨念が強いじゃないか!』


 極めつけは、普段は清楚な「総務の白百合」こと、竹内塔子だった。


「だーかーらー! なんで私が毎日毎日、あのおっさんたちの尻拭いをしなきゃいけないんですかぁっ! 中川さぁん、聞いてますぅ!?」


 彼女は日本酒の熱燗をジョッキで煽り、完全に出来上がっていた。


「いいですかぁ! 備品は大事に使えって言ってるのに、なんでボールペンをすぐ無くすんですか! アホなんですか! 稟議書のハンコも斜めだし! もう全部シュレッダーにかけてやりたいですぅぅぅ!」


 バンバン! と机を叩き、俺の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶってくる。

 酒乱だ。この女、酒癖が最悪の部類だ。


『お、お嫁入り前の娘が、なんて言葉遣いを……! わしの時代なら鉄拳制裁じゃ!』


 親父霊が説教をしてやろうと、塔子の背後に近づいた。

 その瞬間、塔子がギロリと背後の虚空を睨みつけた。


「あぁん!? なにジロジロ見てんだよジジイ! 文句あるなら稟議書通してから言えや!!」


 霊感など微塵もない塔子だが、日頃のストレスとアルコールが生み出した「覇気」が、見事に親父霊を捉えていた。


『ヒィィィィッ!? ご、ごめんなさいぃぃ!!』


 みゆきの光、アリーナの塩、透子の食欲、杏子の酒量、ソフィアの精霊、繭子の闇、そして塔子の酒乱。

 7人の強烈な個性が複雑に絡み合い、座敷の中に「局地的なカオス結界」を生み出していた。

 その圧倒的なエネルギーの奔流に耐えきれず、昭和のガンコ親父地縛霊は『最近の若い女は恐ろしい……わし、もう成仏するぅ……』という悲鳴を残し、白い光となって完全に浄化してしまった。


 俺は手の中の付箋を、そっとポケットに戻した。


 ……出番、なし。


「ふふっ、中川さん。やっぱりあなた、面白い人たちを引き寄せる才能があるわね」


 隣でテキーラを煽りながら、杏子が妖艶に笑う。


「……俺は何もしていませんよ。ただの時給1200円の案山子です」

「まあいいわ。今日は私が奢るから、とことん付き合いなさい」


 結局、地獄の宴が終わって俺が解放されたのは、日付が変わる少し前だった。


「……頭が痛い」


 深夜0時30分。

 俺は終電を逃し、タクシー代をケチって夜の街を歩いていた。

 酒乱の塔子をタクシーに押し込み、歩けない繭子を駅まで引きずっていったせいで、残業以上の疲労が体にのしかかっている。

 秋の夜風が冷たい。ネオンの光を反射するアスファルトに、ポツリ、ポツリと冷たい雨が落ちてきた。


 アパートまでの帰り道、薄暗い路地裏を抜けていた時のことだった。


『ミャア……』


 かすかな鳴き声が、足元のゴミ捨て場の陰から聞こえた。

 立ち止まり、暗がりへ視線を落とす。


 そこにいたのは、手のひらに乗りそうなほど小さな、黒い毛玉だった。

 生後1ヶ月にも満たないだろう子猫。

 冷たい雨に打たれて毛が濡れそぼり、ブルブルと小刻みに震えている。

 俺と目が合うと、威嚇する余裕もないのか、ただ弱々しく『ミィ』と鳴いた。


「……」


 霊視の焦点を合わせるが、霊的な気配はない。ただの、捨てられた子猫だ。

 俺は大きな溜息をついた。


「……今日はもう、業務時間外だぞ」


 誰に対する言い訳なのか。

 俺はしゃがみ込み、冷え切ったその小さな体を、両手ですくい上げた。

 ひどく軽い。そして、命の鼓動が弱々しい。

 俺は着ていたジャケットを脱いで子猫を包み込み、胸の体温を分け与えるように抱えて、家路を急いだ。

 途中、24時間営業のドン・キホーテに駆け込み、猫用シャンプーやミルク、哺乳瓶などをカゴに放り込んで猛ダッシュしたのは言うまでもない。


 俺のアパート。

 1Kの殺風景な部屋だが、霊的な防護結界だけは完璧に張ってある。


「ほら、お湯だ。暴れるなよ」


 俺は浴室の洗面器に、人肌より少し温かいくらいの湯を張った。

 子猫は初めてのお風呂にパニックを起こしているらしく、ガタガタと震えが止まらない。

 俺の手にしがみつく小さな爪が、痛いくらいに皮膚へ食い込んでいる。


「シャーッ!」


 シャワーの音に怯え、必死に威嚇してくるが、その姿は哀れなほど小さい。


「大丈夫だ、食ったりしない。……まあ、塩とスパイスで煮込んだら美味そうだがな」


 悪態をつきながら、俺はシャワーヘッドから最も弱い水流でお湯を出し、子猫の背中から少しずつかけていく。

 最初はビクッとしていた子猫だが、お湯のじんわりとした温かさが伝わったのか、次第に抵抗を弱めていった。

 俺は片手で子猫の体を支え、もう片方の手でドン・キホーテで買った「無添加・子猫用シャンプー」を泡立てる。


 ノミや路地裏の泥汚れを落とすように、指の腹で優しくマッサージする。

 俺の大きな手の中で、子猫はされるがままになっている。

 お湯に濡れると、ただでさえ小さな体が、骨と皮だけのように細く見えた。


『ミャン……』


 お湯が気持ちいいのか、情けないような、甘えるような細い声を出した。

 その声を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、カチリと何かがハマる音がした。


 ……なんだこいつ。とてつもなく可愛いじゃないか。


「よし、綺麗になったな」


 シャワーでしっかりと泡を洗い流し、用意しておいたバスタオルで包み込む。

 素早く水分を拭き取り、ドライヤーを『弱風・低温』に設定して乾かしていく。

 最初はモーター音にビクッとしていたが、温かい風を当てられ、ふんわりと毛が立ち上がっていくにつれ、目を細め始めた。


 震えは完全に止まっていた。

 子猫は俺の膝の上で気持ちよさそうに身を預け、ゴロゴロと小さなモーターのような音で喉を鳴らし始めている。

 濡れネズミだった黒い毛玉が、艶やかな黒曜石のような毛並みに変わった。


「……お前、警戒心というものがないのか」


 俺はドライヤーを止め、その小さな頭を指先で撫でた。

 柔らかい毛の感触。

 俺の荒んだ日常に、全く予定していなかった「同居人」ができてしまった。

 ペット可の物件を選んでおいてよかった、と心底思う。


 俺は台所へ行き、買ってきた子猫用のミルクを人肌に温め、小さな哺乳瓶に入れて口元へ持っていった。

 子猫は両方の前足で哺乳瓶の先をぎゅっと掴み、必死にちゅうちゅうと吸い付いている。

 腹が減っていたのだろう。ミルクが減るスピードが思いのほか早い。


「名前、どうするか……」


 俺はミルクを飲む子猫を見下ろしながら、ポツリとこぼした。

 黒い猫。陰陽道においては魔除けの象徴だ。

 俺の厄介な派遣ライフに、少しでも癒やしを与えてくれる存在。


「……よし、『クロ』だ」


 我ながら、あまりにも安直なネーミングセンスだ。

 だが、クロはミルクから口を離し、ミルクまみれの口元で『ミャン!』と元気よく返事をした。


「そうか。気に入ったか。……明日から、留守番頼むぞ、クロ」


 俺はクロの小さな顎を指で撫でながら、ふと時計を見た。

 午前2時。

 明日は土曜日。休みだ。

 彼女たちのカオスな宴会で削られた精神力が、この小さな毛玉の温もりによって急速に回復していくのを感じていた。


 悪霊を除霊するよりも、この小さな命を守ることのほうが、よほど「やりがい」があるかもしれない。

 俺はクロを温かい毛布にくるみ、自分もベッドに横たわった。


 こうして、時給1200円の派遣陰陽師の家に、一匹の小さな家族が加わったのである。


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