第7話 予言するラテアート
火曜日。午前8時15分。
丸の内商事の本社ビル1階のエントランスは、今日も死んだ魚のような目をした社畜たちの行進で埋め尽くされていた。
だが、その殺伐としたロビーの一角にだけ、まるでオアシスのように芳醇な香りが漂う空間がある。
社内カフェ『Oasis』。
福利厚生の一環として設置された小さなコーヒースタンドだが、そこで提供される一杯は、その辺のチェーン店とは比較にならないほど本格的だ。
「Hey, Mate! 今日も顔色が最悪ね。酸化した安い豆みたいなオーラが出てるわよ」
エスプレッソマシンの高圧スチームが「シュゴォォォッ」と音を立てる中、カウンター越しに軽快な声が飛んできた。
アリーナ・ヴィルカス。19歳。
リトアニアとオーストラリアの二重国籍を持つ、このカフェのバリスタだ。
陶器のように白い肌、鋭角的な顎のライン、そして切れ長の鋭い瞳。黒を基調としたモード系の私服にカフェのエプロンを巻いた彼女は、まるでファッション誌から抜け出してきたような氷の美貌を持っている。
だが、口を開けばオーストラリア仕込みのフレンドリーさと、容赦のない毒舌が飛び出してくる。
「……おはよう、アリーナ。いつものやつを頼む」
俺、中川武は、カウンターに小銭を置きながら気だるく注文した。
昨日の月曜日は、朝から社内LANを徘徊する『スパム怨霊』の除霊に駆り出されたせいで、精神的な疲労が抜けきっていない。
「いつもの『社畜用ガソリン』ね。……ちょっと待ってて」
アリーナは無駄のない洗練された動きでポルタフィルターに豆を詰め、タンピングし、抽出のボタンを押した。
とろりとした漆黒のエスプレッソがカップに注がれ、そこに彼女が絶妙な温度で作ったスチームミルクを注ぎ込んでいく。
彼女の淹れるコーヒーは、ただ美味しいだけではない。彼女はミルクをスチームする際、ポットの底にほんの微量の『清めの塩』を仕込んでいる。彼女の高圧スチームによる「熱消毒」は、軽い霊障なら一発で吹き飛ばす威力があるのだ。
「はい、お待たせ。……って、あれ?」
アリーナがカップをカウンターに置いた瞬間、彼女の細い眉がピクリと動いた。
俺もカップの中を覗き込む。
彼女のラテアートは、いつもなら美しいリーフやスワンが描かれている。
しかし、今朝の泡の模様は、どう見ても『巨大なシャンデリアが落下し、下にあるドクロを押し潰している絵』になっていた。
しかも、ミルクの泡が微かに蠢き、今まさにドクロが砕け散ろうとしているかのような嫌なリアルさがある。
「……なんだこれ。ずいぶんと前衛的なアートだな」
「私が描いたんじゃないわよ。勝手に模様が変わったの。……中川さん、あんた、今日のスケジュールはどうなってるの?」
アリーナの切れ長の目が、スッと細められた。
「別に。午前中は伝票整理、午後は蛍光灯の交換と、最上階の第1会議室のお茶出しくらいだが」
「それよ。……私の『ラテアートの予言』は、飲む人間の数時間後の運命を暗示するの。この絵柄は『頭上からの死』。あんたの行く場所で、大きなモノが落ちてくるわ。それも、かなり多くの人を巻き込んでね」
「……」
俺は黙ってカフェラテを一口飲んだ。
完璧な抽出による苦味と、ミルクの甘み、そして微かな塩気が、重かった頭をクリアにしていく。
霊的なデトックス効果と共に、俺の思考は最悪のシチュエーションを弾き出していた。
今日の午後、最上階の第1会議室では、全役員が出席する重要な経営会議が行われる。
もし、アリーナの予言通りにあの部屋の巨大なシャンデリアが落下し、役員たちが全滅したらどうなる?
会社は傾き、株価は暴落し、末端の派遣社員である俺は真っ先に契約を切られるだろう。
平穏な派遣ライフが崩壊し、再び面倒な就職活動をする羽目になる。
(……それだけは、絶対に避けねばならない)
「アリーナ、このコーヒー、ツケにしといてくれ」
「はあ? バイトの私にツケる気!? いい度胸してるじゃない」
「悪いが、これから少し『上の連中』の命を救いに行かなきゃならないんでね。財布を出す時間も惜しい」
「……ふふっ、なるほどね」
アリーナは毒気を抜かれたように笑い、カウンターの下から小さな紙包みを取り出して俺に投げ渡した。
「じゃあ、これも持っていきなさい。特別に深く焙煎した豆の粉よ。厄除けの塩も強めにブレンドしてあるわ」
「助かる」
「No worries!(気にすんな!)……ちゃんと生きて帰ってきて、ツケ払いなさいよ」
アリーナのウインクを背に受けながら、俺はエレベーターホールへと急いだ。
午後1時30分。
本社ビル最上階、第1会議室。
壁一面にマホガニーの木材があしらわれ、中央には重厚な一枚板の円卓が鎮座している。そして、天井の中央からは、数十個のクリスタルガラスが輝く巨大なアンティーク調のシャンデリアが吊り下げられていた。重さは優に100キロは超えるだろう。
俺は総務部の制服姿で、会議前のペットボトル飲料を配るという名目で部屋に潜入していた。
(……ビンゴだ。ひどい有様だな)
俺は霊力を目に集中させ、天井を見上げた。
美しいシャンデリアの金属フレームや吊り下げワイヤーに、ヘドロのような黒い瘴気がびっしりと絡みついている。
それは無数の「顔」の形を成していた。
『……許さん……』
『……俺を左遷した奴らが、ふんぞり返りおって……』
『……叩き落としてやる……すべてを……』
――『権力闘争の敗残霊』だ。
カテゴリーB。
この会社で出世競争に敗れ、理不尽なリストラや左遷の憂き目に遭った元役員や幹部たちの怨念が、数十年にわたってこの部屋の天井に蓄積し、重力と物理法則をねじ曲げる悪霊と化したものだ。
ワイヤーを繋ぐ金具は、怨念の放つ腐食性の瘴気によってボロボロにサビつき、今にも千切れそうになっている。
「中川さん、お茶の準備終わりましたか?」
背後から声をかけられた。
振り返ると、総務部の白百合こと竹内塔子が、お盆を抱えて立っていた。今日は彼女も会議の書記と給仕のサポートとして入っているのだ。
「ええ、竹内さん。もう終わりましたよ」
「よかったです。もうすぐ役員の方々がいらっしゃいますから、壁際に控えていてくださいね」
「承知しました」
やがて、重厚な扉が開き、丸の内商事の重役たちが次々と入室してきた。
恰幅の良い社長を筆頭に、神経質そうな専務、腹黒そうな常務など、どいつもこいつも絵に描いたような権力者たちだ。
彼らが円卓につき、会議が始まった。
『今期の売上目標だが、営業部の見通しが甘すぎるのではないか?』
『何をおっしゃる。そちらの企画部が時代遅れの商材ばかり持ってくるからでしょう』
『なんだと!?』
会議が白熱し、役員たちが互いに責任をなすりつけ合うたびに、部屋の中に「ドス黒い負の感情」が充満していく。
その負のエネルギーを餌にして、天井のポルターガイストが急速に活性化し始めた。
『……落ちろ……』
『……一緒に地獄へ落ちろぉぉぉ……!』
ミシッ……。
天井から、金属が軋む嫌な音が響いた。
役員たちは言い争いに夢中で気づいていないが、壁際に立つ俺の目には、シャンデリアを支える4本のワイヤーのうち、すでに2本が怨念によって引きちぎられたのが見えた。
(……まずいな。定時まであと3時間半あるというのに、会社が倒産しかけている)
ミシ、ギシシシシッ!
3本目のワイヤーが切れた。
重さ100キロのクリスタルの塊が、グラリと大きく傾く。
その真下には、社長と専務が座っている。
「きゃっ!?」
異音に気づいた塔子が、天井を見上げて短い悲鳴を上げた。
役員たちもようやく頭上の異常に気づき、顔を青ざめさせる。
「な、なんだ!? シャンデリアが……!」
「逃げろッ!!」
だが、遅い。
最後のワイヤーを、黒い怨念の塊が巨大なハサミのような手でブツリと切断した。
『死ねェェェェ!!』
シャンデリアが、猛烈な速度で円卓に向かって落下を始める。
総毛立つような死の予兆。役員たちが絶望に目を剥き、塔子がその場にへたり込む。
その刹那。
俺は誰よりも早く動いた。
「――結界展開」
俺は首元で緩めていたネクタイを乱暴に引き抜き、シャンデリアの真上の空間に向かって鞭のように投げつけた。
ただのポリエステル製の安いネクタイだ。
だが、俺の霊力を流し込まれたそれは、空中で蛇のように軌道を変え、落下するシャンデリアの太い支柱に巻き付き、もう片方の端が天井のフックにガッチリと結びついた。
ギィィィィィンッ!!
凄まじい張力でネクタイが引き伸ばされ、シャンデリアの落下が空中でピタリと止まった。
社長の頭頂部から、わずか30センチの距離だ。
物理法則を完全に無視した光景に、部屋中の人間が息を呑んで硬直している。
『な、なんだと!? なぜ落ちない!?』
怨念たちがパニックを起こし、シャンデリアの周りを飛び回る。
俺はその隙を見逃さない。
ポケットから、アリーナにもらった『特製焙煎粉』の包みを取り出すと、野球のピッチャーのようなフォームで、天井の怨念の群れに向かって全力で投げつけた。
空中で紙包みが破裂し、黒い粉末と白い塩が部屋中に散乱する。
「悪霊退散。……エスプレッソでも飲んで、目を覚ませ」
俺が指を鳴らすと、空中に散った粉末が、バチバチと赤い閃光を放ちながら発火した。
アリーナの『浄化の蒸気』の力と、俺の火行の霊力が融合した、一撃必殺の退魔の炎だ。
『ギャアアアアアアアアアアッ!?』
コーヒーの強烈な焦げた匂いと共に、ポルターガイストの怨念たちが一瞬にして焼き尽くされ、断末魔を上げながら消滅していく。
同時に、部屋を覆っていた異常な重圧感も霧散した。
「……ふぅ」
俺は小さく息を吐き、静かに歩み寄ると、ネクタイで吊られたシャンデリアの下から、腰を抜かしている社長たちを引きずり出した。
「しゃ、社長! ご無事ですか!」
塔子が我に返り、俺が助け出した社長のもとへ慌てて駆け寄ってくる。
「あ、ああ……。しかし、今のは一体……?」
へたり込んだ社長が、震える声で答えた。
他の役員たちも、首を傾げながら頭上のシャンデリアを見上げる。
怨霊が消えたことで「怪奇現象」としての認識が薄れ、彼らの脳内では『老朽化したワイヤーが切れ、奇跡的に何かに引っかかって助かった』という現実的な解釈に置き換わろうとしていた。
「施設の老朽化ですね。ワイヤーが腐食していました」
俺は平然と嘘をつきながら、背伸びをしてシャンデリアに巻き付いていたネクタイを素早く回収した。
ネクタイが外れても、シャンデリアはすぐには落ちない。あらかじめ俺が投げておいた黄色い付箋が、見えない強力な接着剤となって金具を天井に仮止めしているからだ。
「すぐに業者の手配をします。危険ですので、本日の会議は別の部屋へ移動された方がよろしいかと」
「お、おお、そうだな。君、見事な危機対応だったぞ。総務の……名前は?」
「派遣の中川です。……では、私は事後処理がありますので」
俺は深く一礼し、呆然としている塔子に後を任せて、そそくさと第1会議室を後にした。
午後5時45分。
定時退社をキメた俺は、本社ビルを出る前に1階の『Oasis』に立ち寄った。
カフェの閉店作業をしていたアリーナが、俺の顔を見るなりニヤリと笑った。
「生きてたわね。上の階で騒ぎがあったって聞いたけど?」
「ああ。天井の老朽化でシャンデリアが落ちかけた。……お前の予言のおかげで、最悪の事態は防げたよ」
俺は財布から千円札を取り出し、カウンターの上のチップジャーに放り込んだ。
「今朝のコーヒー代と、厄除け豆の代金だ。釣りはいらない」
「Wow! 派遣社員のくせに気前がいいじゃない」
アリーナは嬉しそうに千円札を回収し、エスプレッソマシンの前へ戻った。
そして、手早く一杯のフラットホワイトを作ると、俺の前にドンと置いた。
「これ、奢り。私からの『お疲れ様』よ」
「……いいのか?」
「No worries! あんたが会社を守ってくれたおかげで、私も明日からここでバイトを続けられるんだからね。持ちつ持たれつってやつよ」
アリーナはウインクをして、エスプレッソマシンの清掃に戻っていった。
俺は受け取ったカップを見る。
ミルクの泡に描かれたラテアートは、今朝のようなおぞましいドクロではない。
そこには、可愛らしい『スマイルマーク』がくっきりと描かれていた。
「……なるほど。当分は平和ってことか」
俺はフラットホワイトを一口飲み、その優しい甘さに肩の力を抜いた。
怨念を焼き尽くすブラックコーヒーもいいが、仕事終わりの疲れた体には、この甘さが一番沁みる。
外に出ると、丸の内のオフィス街は夕闇に包まれ始めていた。
今日も俺は、時給1200円の範囲内で、このブラック企業を陰から浄化した。
さて、スーパーに寄って帰ろう。今夜は少し奮発して、牛すじの煮込みカレーにでもするか。
俺はネクタイをポケットに突っ込み、家路についた。




