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第6話 サーバー室の引きこもり姫

 月曜日。午前9時30分。

 先週の金曜夜、産業医の中山先生に奢ってもらった最高級スコッチの余韻は、週末を挟んで完全に消え失せていた。

 代わりに俺の胃を重くしているのは、月曜特有の「今週もまた5日働かなければならない」という絶望感である。


 丸の内商事・総務部備品管理課。

 自席でPCを立ち上げ、社内メールの受信ボックスを開いた俺は、思わず眉間を揉んだ。


「……なんだ、これは」


 受信トレイが、異常な速度で埋め尽くされていく。


 『おめでとうございます! 1億円当選しました!』

 『【重要】あなたのアカウントがロックされました』

 『痩せるサプリ! 今なら初回無料!』


 絵に描いたようなスパムメールの嵐だ。しかも、送信元が社内のドメインになっているものまである。

 迷惑メールフィルターが機能していないどころか、メールソフト自体がフリーズしかけていた。


「な、中川さん! 大変です!」


 隣の席から、悲鳴のような声が上がった。

 総務の白百合こと、上司の竹内塔子だ。彼女は自分のPCモニターを指差し、涙目になっている。


「私のパソコン、変なんです! 何もしてないのに、勝手にブラウザが立ち上がって……!」


 塔子の画面を見ると、大量のポップアップ広告が増殖するように開き続けていた。

 いや、それだけではない。

 オフィスのあちこちから、「うわっ」「なんだこれ」「マウスが動かない!」という悲鳴が上がり始めている。

 社内ネットワーク全体が、大規模なサイバー攻撃を受けている状態だ。


(……ただのウイルスか?)


 俺は目を細め、霊力を網膜に集中させた。

 途端に、オフィスの景色が変容する。


 視界に映ったのは、OAフロアの隙間や、壁を這うLANケーブルから滲み出す「黒いヘドロ」だった。

 ヘドロは脈を打ちながらケーブル内を移動し、各PCの背面に接続されたポートからモニターの中へと侵入している。

 モニターの中で暴れ回るスパム広告の文字は、霊視で見ると、人の顔のように歪んで蠢いていた。


『……クリックして……』

『……情報を入力して……』

『……俺のように、すべてを失え……』


 ――『スパム怨霊』だ。


 オフィス妖怪図鑑、カテゴリーC。

 悪意のあるプログラムに、過労や情報漏洩の責任を取らされてクビになった元社畜の残留思念が憑依したもの。

 ネットワークという「実体のない海」を泳ぎ回るため、物理的な除霊が極めて困難な厄介な相手だ。


「……中川さん、どうしましょう!? このままだと業務が止まっちゃいます!」


 塔子がパニックを起こし、PCの電源ボタンを連打しようとしている。


「竹内さん、触らないで。そのままにしておいてください」


 俺は塔子を制止し、立ち上がった。

 電源を落としても、物理的なLANケーブルが繋がっている限り、ヘドロは内部基盤に浸透して完全にPCを破壊してしまうだろう。


「この手のトラブルは、備品管理課の対応範囲外です」

「えっ!? じゃあ、どうするんですか!?」

「専門家を頼ります。……少し席を外しますので、私のPCには触らないでください」


 俺はジャケットを羽織り、足早にエレベーターホールへと向かった。

 この規模のネットワーク汚染、俺がオフィスの各所でチマチマと付箋を貼って回っても埒が明かない。

 大元を抑える必要がある。


 丸の内商事の本社ビル、地下2階。

 先日、広報部の小野みゆきと共に怨霊を退治した「第3倉庫」よりも、さらに奥の区画。

 重厚な電子ロック扉で守られたその部屋には、『情報システム部・サーバルーム』というプレートが掲げられている。

 通称、『繭』。


 俺は扉の横にあるインターホンを押し、カメラに向かって自分の社員証をかざした。

 数秒の沈黙の後、スピーカーからノイズ混じりの、ボソボソとした声が聞こえてきた。


『……中川さん?』

「ああ。入るぞ」

『……静電気、ちゃんと除去して。あと、靴裏のホコリも落として』


 ガチャリ、と電子ロックが解除される。

 俺は入り口の除電マットでしっかりと静電気を逃し、粘着マットで靴底を綺麗にしてから、重い扉を開けた。


 中は極寒だった。

 巨大なサーバーラックが何十台も立ち並び、冷却ファンの轟音が鳴り響いている。LEDの無機質な点滅が、まるでサイバーパンク映画のセットのようだ。

 その最奥。数台の巨大な曲面モニターに囲まれた、コクピットのようなデスク。


 そこに、彼女はいた。


 石田繭子。25歳。

 この丸の内商事のネットワークをたった一人で管理する、天才社内SE。

 高級ブランドのワンピースの上に、袖の薄汚れたオーバーサイズのパーカーを羽織り、ワーキングチェアの上で膝を抱えるようにして座っている。

 無造作なブロンドのボブヘア。ブルーライトカット眼鏡の奥にある瞳は、宝石のように透き通った青色をしているが、その下には濃いクマが刻まれていた。


「……遅い」


 繭子は俺の方を見ようともせず、猛烈なスピードでキーボードを叩きながら言った。


「上の惨状、知ってるんだな」

「当たり前。……私の可愛い『ジョセフィーヌ』と『ナポレオン』の血管に、泥水みたいなウイルスを流し込まれてるんだから」


 彼女は機材に名前をつけて可愛がっている。

 極度の対人恐怖症であり、この冷え切ったサーバー室から一歩も出ようとしない引きこもりだが、こと「電脳空間」において彼女の右に出る者はいない。


「……ただのウイルスじゃない。怨念が混じってる。スパム怨霊だ」

「知ってる。……ログを見れば一目瞭然。ただのコードじゃない、呪いの構文が組み込まれてる」


 繭子はキーボードを叩く手を止め、くるりと椅子を回転させて俺を見た。

 彼女には霊感はないが、ネットワークを流れるデータの異常を「直感」として視覚化する能力がある。俺が霊視するのと同じように、彼女はコードを通じて怪異を「解析」できるのだ。

 ある意味で、彼女はデジタルの領域における巫女だった。


「中川さん」

「なんだ」

「……私の『繭』を汚すやつは、死刑。……物理で殴って」

「俺は武闘派じゃないんだがな。……で、大元はどこだ?」


 繭子は再びモニターに向き直り、エンターキーを強く叩いた。

 中央の巨大モニターに、社内のネットワーク構成図が表示され、赤い点がピコピコと移動し始めた。


「……奴ら、賢い。私がパケットを遮断しようとすると、すぐに別のポートに逃げる。まるでゴキブリ」

「回線上を逃げ回られると、こっちの手が届かない。どうにかして一箇所に留められないか?」


 俺の言葉に、繭子の唇の端がわずかに上がった。ハッカー特有の、好戦的な笑みだ。


「……舐めないで。ここは私の庭。……追い込み漁、する」


 彼女の指が、キーボードの上で文字通り踊り始めた。

 カタカタカタカタカタッ! と、常人離れした打鍵音がサーバー室に響く。


「……1階から7階までの物理ポート、強制クローズ。無線LANのアクセスポイント、全停止」


 モニター上の赤い点が、逃げ場を失って特定の階層へと集約されていく。


「……ファイアウォールの設定を霊的波長にチューニング。疑似餌として、未承認のダミーデータを大量に配置」


 それは彼女独自の技術だ。

 プログラムの防御壁を、文字通り「霊的な炎の壁」として機能させ、怨霊の逃げ道を塞いでいく『デジタル結界』。


「……8階、総務部のメインハブ。そこに全トラフィックを誘導する」


 繭子が俺を見た。


「……中川さん、走って。誘導完了まで、あと120秒」

「人使いが荒いな。時給アップを要求したいくらいだ」


 俺は文句を言いつつ、踵を返してサーバー室を飛び出した。


 8階、総務部。

 フロアは完全にパニック状態だった。すべてのPCがフリーズし、コピー機までもがエラー音を鳴らし続けている。

 俺は混乱する社員たちを掻き分け、フロアの隅にあるネットワークラックへと向かった。


 スマートフォンが震える。繭子からのチャットだ。


『到着した? 残り30秒』

『ああ。準備はできてる』

『……逃がさないで。私のジョセフィーヌを汚した罪、万死に値する』

『了解した』


 俺は胸ポケットから、きつく束ねた予備のLANケーブルを取り出した。

 それを両手に絡ませ、高速で「あやとり」のように編み込んでいく。

 昔の陰陽師が使っていた「九字護身法」の網を、現代の通信ケーブルで再現するのだ。

 3メートルもの長さがあれば、両手の間に十分な大きさの捕捉網を形成できる。


 さらに、ポケットから二枚の付箋を取り出す。

 黄色の付箋と、赤色の付箋。


『残り5秒。……3、2、1……今!』


 繭子の合図と同時。

 ネットワークラックの隙間から、ドス黒いヘドロの塊が、間欠泉のように噴き出した。


『ウオオオオオオオッ!!』

『クリックシロォォォォ!!』


 無数のスパムテキストで構成されたヘドロの化け物が、物理的な質量を持って俺に襲いかかってくる。


「……そのポップアップ、ウザいんだよ」


 俺は冷静に、両手に展開した「LANケーブル結界」を化け物の頭から被せた。


『ギィィィッ!?』

「黄色!」


 俺は網目に黄色い付箋を叩きつける。

 付箋がカッと光り、網の目が強力な拘束具となって化け物の動きを完全に封じた。怨霊が「アンインストールできません!」というようなエラー音に似た悲鳴を上げる。


「そして、赤だ」


 身動きが取れなくなった怨霊の核めがけて、赤い付箋を貼り付ける。


「――強制シャットダウン」


 ドォォォン!

 赤い付箋から浄化の炎が爆発的に燃え上がった。

 それは物理的な炎ではなく、霊的な情報を焼き尽くす不可視の炎だ。

 LANケーブルの網の中で、ヘドロの化け物がチリチリと焼かれ、スパムテキストの文字列が意味をなさない文字化けを起こしながら消滅していく。


『ア……アア……404 Not Found……』


 最後の断末魔と共に、スパム怨霊は完全に消え去った。

 後に残ったのは、少し焦げ臭い匂いと、役割を終えて黒く変色した付箋だけだ。


 俺はLANケーブルを解き、ポケットにしまった。


 ピーッ、という起動音。

 それを合図に、フロア中のPCのモニターが正常なデスクトップ画面へと切り替わった。フリーズしていたシステムが、一斉に復旧し始める。


「あ! 直った! 画面が動きます!」

「うちの部署もだ! ネット繋がったぞ!」


 フロアに歓声が上がる。

 俺は誰にも気づかれないように、焦げた付箋をゴミ箱に捨てて自席に戻った。


「中川さん! どこ行ってたんですか!」


 塔子がホッとしたような、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。


「総務のメインルーターの調子が悪かったので、再起動してきました。たぶん、これで大丈夫でしょう」

「ルーターの再起動……? それだけで、こんな大規模な障害が直るんですか?」

「ITのトラブルなんて、再起動すればだいたい直るんですよ。基本です」

「は、はあ……。さすが中川さん、頼りになります!」


 塔子は素直に感心している。

 まあ、彼女の平和な世界観の中では、「優秀な派遣さんがルーターを直してくれた」で済ませておくのが一番だ。


 俺のスマートフォンが、再びブルッと震えた。

 繭子からのチャットだ。


『……全ポート解放。ネットワーク正常化確認。……ウイルススキャン、クリア』

『お疲れ様。見事な追い込み漁だった』

『……当然。……それより、報酬』

『報酬?』

『……今度、限定の「モンスタァエナジー・ウルトラブルー」をサーバー室に差し入れすること。……常温で』

『……了解。高くつく除霊だな』

『……スタンプ(親指を立てるキャラクターの画像)』


 対面では一言も喋れないくせに、チャットでは随分と偉そうだ。

 だが、彼女の『デジタル結界』がなければ、あのスパム怨霊を捕獲することは不可能だっただろう。

 優秀な社内SEは、最高の相棒になり得る。ただし、直接顔を合わせなければ、の話だが。


 俺はスマホをポケットにしまい、壁の時計を見た。

 時刻は10時15分。

 今日のトラブルは、午前中で終わらせることができた。

 これで午後からは、平和な伝票整理に集中できる。


(……よし、今日は絶対に定時で帰れる)


 俺は心の中でガッツポーズをし、平和を取り戻したPCのキーボードを叩き始めた。

 今夜の夕食は、時間をかけて仕込むキーマカレーにしよう。スパイスの配合を考えるだけで、少しだけ憂鬱な月曜日が明るくなった気がした。


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