第5話 産業医・中山杏子の診断
金曜日。
午後3時。サラリーマンの魂が最も肉体から遊離しやすい時間帯だ。
あと2時間半耐えれば、週末という名のオアシスが待っている。その希望と、一週間の蓄積疲労がせめぎ合い、オフィスの空気は限界まで張り詰めたゴム紐のようになっている。
俺は、重い足取りで8階の廊下を歩いていた。
昨日の地下倉庫での一件――広報部の小野みゆきにペースを握られ、強力な怨霊の処理をさせられた上に、変な共犯関係まで結ばされてしまった疲労が、今になってどっと押し寄せている。
肩が重い。これは霊障ではない。純粋な精神的・肉体的疲労だ。
俺が向かっているのは、8階の奥にある「ヘルスケアセンター」――通称、保健室だ。
総務部・備品管理課の仕事として、「救急箱のガーゼと消毒液の補充」という名目がある。だが、真の目的はサボり……いや、小休止だ。
この魔窟のような丸の内商事において、あそこは数少ない「安全地帯」なのだから。
重厚なすりガラスのドアをノックし、「総務部です、備品の補充に伺いました」と声をかける。
「……どうぞ。鍵は開いてるわよ」
中から、気だるげなアルトボイスが返ってきた。
ドアを開けると、微かなアルコールの匂い――消毒用エタノールのそれに混じって、上質なブラックコーヒーの香りが漂ってきた。
白を基調とした清潔な室内。最新式の空気清浄機が静かに稼働している。
そして、部屋の奥のデスクで、一人の女性がカルテから目を上げた。
産業医、中山杏子。31歳。
週に3日だけこの会社に来る嘱託医だ。
日本人離れした彫りの深い顔立ちに、すべてを見透かすような漆黒の瞳。無造作に束ねられた黒髪と、白衣の下から覗く少しルーズなVネックのニットが、アンニュイな大人の色気を醸し出している。
「あら、中川さん。今日はガーゼの補充? それとも、心の補充?」
杏子は長い脚を組み替えながら、ふふっと妖艶に微笑んだ。
「両方です。……昨日は少し、ハードな案件がありまして」
「そう。あなたのその目の下のクマ、ただの寝不足じゃないわね。……コルチゾール値が異常に跳ね上がってる顔してるわ」
「医者の診断としては正確ですね」
「ええ。でも『何に』ストレスを感じたのかは、医学の教科書には載ってないでしょうけど」
彼女は立ち上がり、コーヒーメーカーからマグカップに黒い液体を注いで、俺に差し出した。
「飲む? カフェイン強めよ」
「いただきます」
俺はありがたくマグカップを受け取り、丸椅子に腰掛けた。
この中山杏子という女は、霊能力は一切ない。幽霊の姿も見えないし、霊気を感じることもない。徹底したリアリストであり、「非科学的なオカルト」を真っ向から否定している。
しかし、彼女は『異常』を察知する能力において、並の霊能者を凌駕している。
社員の顔色、脈拍、ちょっとした言動のブレから、「これはただの過労だ」「これは医学では説明のつかない『何か』に当てられている」という仕分けを、瞬時にやってのけるのだ。
俺が裏でコソコソと除霊めいたことをやっていることにも、彼女はとうに感づいている。感づいた上で、あえて踏み込んでこない。その大人の距離感が、俺にとってはひどく居心地が良かった。
「……で、今日はどんな『非科学的』なトラブルだったの?」
「地下の第3倉庫です。古い企画書の束が、ちょっと暴れまして」
「ああ、あそこね。湿気がひどくてカビの温床だから、呼吸器系に悪いって何度も会社に警告してるのに。……で、中川さんが『お掃除』してくれたわけね」
「広報部の小野さんに巻き込まれただけですよ」
俺がため息をつくと、杏子も「あの女狐ね」と苦笑した。
「気をつけなさいよ。彼女のバイタリティは劇薬だから。……まあ、この会社の経営陣の無能さに比べれば、可愛いものだけど」
杏子は自分のカルテ用端末をトントンと指先で叩いた。
「今週だけで、胃潰瘍の予備軍が5人、自律神経失調症が3人よ。……原因は全部『過重労働』。なのに、会社は『個人の自己管理不足』で片付けようとする。本当に、吐き気がするわ」
彼女の漆黒の瞳に、冷たい怒りの炎が揺らぐのが見えた。
彼女はクールに見えて、誰よりも社員の健康を案じている。だからこそ、このブラック企業の体質を憎んでいた。
彼女の放つこの「理性的で静かな怒り」が、ある種の結界となり、この保健室から邪気を遠ざけているのだろう。
「……先生の診断書があれば、休ませることはできるんじゃないですか?」
「限界まで我慢して、倒れてからじゃ遅いのよ。……中川さん、あなたみたいな『定時退社』を絶対のルールにしてる人間が、もっと増えればいいのにね」
「私はただ、自分の時給に見合わない労働をしたくないだけです」
俺がコーヒーを飲み干した、その時だった。
ジリリリリリリッ!
保健室の電話が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
杏子が表情を引き締め、受話器を取る。
「はい、ヘルスケアセンター。……え? 営業一課? 落ち着いて、どうしたの?」
受話器の向こうから、悲鳴のような声が漏れ聞こえてくる。
杏子の顔色が変わった。
「……わかった。すぐに行くわ。怪我人は? ……なし。そのまま、誰も外に出さないで」
彼女は受話器を叩きつけるように置き、白衣のポケットに聴診器とペンライトを突っ込んだ。
「先生、何か?」
「営業一課でトラブルよ。複数人が突然、泣き叫んだり暴れ出したりしてるって」
「集団パニックですか」
「電話口の様子じゃ、尋常じゃないわ。……中川さん、救急箱を持ってついてきて」
「……業務命令ですか?」
「私の『お願い』よ。時給以上の働きは期待しないから」
杏子はウインクして、疾風のように部屋を飛び出していく。
俺は舌打ちを一つして、巨大な救急箱を抱え、彼女の後を追った。
4階、営業一課のフロア。
エレベーターを降りた瞬間、俺は思わず顔をしかめた。
空気が、粘着質だ。
ひんやりとしているのに、まとわりつくような不快な湿気。そして、耳を塞ぎたくなるような、不協和音の合唱。
「いやだあああ! 失敗したくない! 怒られたくない!」
「俺のせいじゃない! 俺のせいじゃないんだあああ!」
「うわああああん! 帰りたいぃぃぃ!」
フロアの中央で、5、6人の若手・中堅社員が、デスクに突っ伏して号泣したり、頭を抱えて奇声を上げたりしていた。
周囲の社員たちは完全に怯えきり、遠巻きにオロオロとするばかりだ。
「ちょっと、道を空けて!」
杏子が凛とした声で群衆をかき分け、泣き叫ぶ社員たちに駆け寄る。
手際よく脈を測り、ペンライトで瞳孔の反応を見る。
「脈拍異常に上昇、瞳孔は……正常。過呼吸気味ね。……深呼吸して! 私の声に合わせて、吸って、吐いて!」
彼女の落ち着いた声が響くが、パニック状態の社員たちには届かない。
俺は無言で、彼らの頭上を見上げた。
――視界が、淀む。
泣き叫ぶ社員たちの背中や頭に、アメーバのような半透明の灰色の塊が、べったりとへばりついている。
そいつらは、宿主の恐怖や不安を吸い上げ、風船のように膨らんでは破裂し、また別の社員へと飛び火していく。
――『同調霊』だ。
オフィス妖怪図鑑、カテゴリーD。
単体ではほとんど害のない微弱な浮遊霊だが、誰か一人の強い「不安」や「恐怖」を餌にして増殖し、周囲の人間へとその負の感情を伝染させていく。
いわゆる、霊的なパンデミックの引き金となる厄介な存在だ。
(……原因はなんだ? 最初の『発端』がどこかにいるはずだ)
俺がフロアを見渡すと、窓際のデスクで、一人の若手社員が青ざめた顔で虚空を見つめ、ガタガタと震えているのが見えた。
彼のパソコンの画面には『大型コンペティション・結果通知』の文字が光っている。
なるほど。
大型案件を逃したショックと、「上司に殺される」という極度の恐怖。それが起爆剤となって同調霊を引き寄せ、周囲のチームメンバーにパニックを伝染させたわけか。
「……先生」
俺はしゃがみ込んでいる杏子の横に立ち、小声で呼びかけた。
杏子は俺を見上げ、そして溜息をついて立ち上がった。
彼女は周囲の社員たちに向かって、よく通る声で宣言した。
「皆さん、落ち着いてください。これは『集団ヒステリー』です」
「ひ、ヒステリー!?」
「ええ。極度の過労とストレス、それに慢性的な『ビタミンB群の欠乏』が原因で、自律神経が暴走しているだけよ。感染症やガス漏れのような物理的な危険はありません」
堂々たる「医学的診断」だ。
彼女の自信に満ちた声に、周囲の社員たちが少しだけ安堵の表情を浮かべる。
だが、杏子は俺にだけ見える角度で、小さく首を横に振った。
そして、俺の耳元に顔を寄せ、唇を動かす。
「……私の診断はここまでよ。脈も瞳孔も、医学的には『ただのパニック』。でも、この気持ち悪さは異常よ。……ビタミン剤じゃ治らないんでしょう?」
「ええ。プラシーボ効果以上のものは期待できないですね」
「なら、あとは『総務の仕事』よ。中川さん、さっさとこの汚い空気を換気しなさい。私、こういう非科学的な匂いは大嫌いなの」
丸投げだ。
だが、そのパスは完璧だった。
産業医が「医学的見地から安全を宣言」してくれたおかげで、俺は不審に思われることなく、フロア内を動く口実ができた。
「承知しました。では、処置に移ります。……先生は、彼らに温かいお茶でも飲ませてあげてください。給湯室のティーバッグで構いませんから」
俺は救急箱を床に置き、代わりに胸ポケットから取り出したのは、一枚の青い付箋だ。
今日は青。水行の力、すなわち「浄化と鎮静」の術式だ。
俺はフロアの隅にある、巨大な業務用加湿空気清浄機へと向かった。
乾燥するオフィスに潤いを与えるための備品だ。今は稼働しているが、水タンクの残量が少ない。
俺は加湿器のパネルを開け、水タンクを取り出した。
そこに、忍ばせていた小瓶から『聖水』を数滴垂らす。さらに、鎮静効果の高いミントとラベンダーの抽出液を混ぜ込んだ。
そして、タンクの側面に、呪文を書き込んだ青い付箋を貼り付ける。
「中川さん? 何やってるの?」
近くにいた社員が怪訝な顔で聞いてくる。
「アロマ療法です。中山先生の指示で、自律神経を整える香りを散布します」
俺はもっともらしい嘘をつきながら、タンクをセットし、加湿器のスイッチを『最大』に切り替えた。
ゴオオオオオッ!
強力なファンが回り、加湿器から白いミストが勢いよく噴き出した。
ただの水蒸気ではない。
聖水と薬草の成分に、青い付箋の『浄化の霊力』が乗った、言わば「広域散布型の退魔ミスト」だ。
ミントの清涼な香りが、フロアの淀んだ空気を瞬時に切り裂いていく。
『ギ……ギャ……!?』
泣き叫んでいた社員たちに取り憑いていた同調霊の群れが、浄化のミストを浴びて苦悶の声を上げる。
霊感のない人間には、ただ「急に空気がスッキリした」としか感じられないだろう。
だが、霊的な次元では、強力なシャワーで泥汚れを洗い流すような凄まじい浄化が行われているのだ。
「ああああっ……! ……あれ?」
「俺、なんでこんなとこで泣いて……?」
ミストがフロア全体に行き渡ると同時、号泣していた社員たちが、憑き物が落ちたようにキョトンとし始めた。
パニックの連鎖が断ち切られたのだ。
「……ふぅ。よし、全員深呼吸して。温かいお茶を配るから、それを飲んだら今日はもう帰りなさい。私の権限で、特別有給扱いにさせるから」
杏子がタイミング良く声をかけ、事態を収拾していく。
発端となった若手社員も、杏子に背中をさすられ、ボロボロと涙をこぼしながら「すみません、すみません……」と正気を取り戻していた。
これで、一件落着だ。
俺は加湿器のパネルを開け、役割を終えて真っ黒に焦げた青い付箋を密かに回収し、ゴミ箱へ捨てた。
「……見事な手際だったわね。あんな備品一つで、集団ヒステリーを治めるなんて」
午後5時20分。
営業一課のフロアが落ち着きを取り戻したのを見届け、俺たちはエレベーターでヘルスケアセンターへと戻る途中だった。
「ただの加湿器とアロマですよ。先生の『ビタミン不足』という的確な診断のおかげです」
俺がとぼけると、杏子はフッと鼻で笑った。
「あなた、本当に可愛げがないわね。……でも、助かったわ。私一人じゃ、あの子たちの『心の奥の黒いもの』までは拭えなかったから」
「医者は体を治すのが仕事です。オフィスの空気清浄は、総務の雑用ですから」
チーン、とエレベーターが8階に到着する。
ドアが開くと、杏子は先に降り、振り返って俺を見た。
「中川さん」
「はい」
「今日は、残業代は出ないのよね?」
「ええ。契約上、突発的なトラブル対応は含まれていませんから。完全に私のボランティアです」
俺がため息をつくと、杏子はふんわりと、今日一番の妖艶な笑顔を見せた。
「じゃあ、私が払ってあげる。……この後、駅前のバーで一杯どう? 最高のスコッチを奢るわよ。あなたの『非科学的な手品』のタネ明かし、聞かせてもらうんだから」
大人の誘いだ。
時計を見ると、17時25分。
定時まであと5分。
「……スコッチに合う、気の利いたおつまみがあるなら、喜んで」
「ふふっ。食い意地が張ってる陰陽師ね。じゃあ、18時に『ブルー・ムーン』で」
杏子はヒールを鳴らして、自分の城へと戻っていった。
その背中を見送りながら、俺はネクタイを少しだけ緩める。
金曜日の夜。
たまには、特売の豚肉ではなく、プロが注ぐ酒で一週間の穢れを洗い流すのも悪くない。
俺は足取りも軽く、自分のデスクへ戻り、定時のチャイムと共に会社を後にした。
明日からの土日。絶対に、会社の人間とは会わない。そう固く心に誓いながら。




