第3話 受付嬢ソフィアの検閲
水曜日。週の真ん中、折り返し地点。
サラリーマンにとって、最も疲労が蓄積し、かつ週末への希望もまだ遠い、魔の曜日である。
午前8時45分。
丸の内商事の本社ビル、その1階エントランスホールは、出勤する社員たちの足音で埋め尽くされていた。
カツカツという革靴の音。ヒールの音。自動改札のようなセキュリティゲートが「ピッ」と鳴る電子音。
それらが混じり合い、憂鬱な朝の不協和音を奏でている。
俺は、社員証を首からぶら下げて、重い足取りで回転扉を抜けた。
昨日の「お局霊」の一件で、霊力を少し使いすぎた。肩が重い。これは霊障ではなく、単純な肉体疲労だ。
早く帰りたい。まだ始業前だが、すでに帰りたい。
(……今日のラッキーアイテムは『観葉植物』だったな)
朝のニュース占いをぼんやりと思い出しながら、俺は受付カウンターの方へと視線を向けた。
そこには、この無機質なオフィスビルには似つかわしくない、一輪の「華」が咲いている。
「Ohayo-gozaimasu! 社員証、ちゃんと見せてくださいネー!」
底抜けに明るい声が響く。
受付カウンターの中に立っているのは、輝くようなプラチナブロンドの髪を揺らす、外国人の女性だった。
ソフィア・イェゲル。23歳。
バルト三国のひとつ、ラトビア出身の派遣スタッフだ。
透き通るようなアイスブルーの瞳に、日本人離れした――いや、実際に日本人ではないのだが――規格外のプロポーション。制服のジャケットが悲鳴を上げそうなほど豊かな胸元と、キュッと引き締まったウエストのラインは、朝の死んだ目をした男性社員たちを一瞬で蘇生させる威力がある。
彼女はこの丸の内商事の「顔」であり、そして最強の「門番」でもあった。
「あ、ソフィアさん。おはよう」
「Oh! Masterナカガワ! オハヨウゴザイマス!」
俺が声をかけると、ソフィアは満面の笑みで敬礼のようなポーズをとった。
なぜか彼女は俺のことを「Master(達人)」と呼ぶ。
以前、給湯室で茶柱を立てる裏技を見られて以来、俺を「サムライ・マスター」か何かだと勘違いしているらしい。
「今日は顔色が悪いデスネ。ゾンビみたいデス。ちゃんとスシ食べてますか?」
「……朝から寿司は食わないよ。それより、そのカウンターの花、また変えたのか?」
俺は受付カウンターに飾られた大きな花瓶を指差した。
そこには、見たこともないような野性味あふれる草花が生けられていた。
「Yes! これはラトビアの『夏至祭』で使うハーブと、日本の野草のコラボレーションでござる。森の精霊の加護がありマスよ」
「……へえ。綺麗だね」
俺は目を細める。
彼女には霊感はない。だが、自然崇拝の残る国で育ったせいか、無自覚に「精霊の力」を借りる才能がある。
あの花瓶の周りには、清浄な空気が結界のように漂っており、低級霊程度なら近づくだけで浄化されてしまうだろう。
彼女が受付にいる限り、このビルに悪いものは入ってこない――はずだった。
その時だ。
エントランスの自動ドアが開き、澱んだ風が吹き込んできた。
「……ん?」
俺は眉をひそめて振り返る。
社員たちの流れに逆らうように、一人の老人がふらりと入ってきたのだ。
薄汚れた灰色の着物に、ボロボロの草履。
背中には大きな布袋を担いでいる。
どこからどう見ても、丸の内のオフィス街には不釣り合いな風体だ。
だが、周囲の社員たちは彼に気づいていないようだった。まるで、そこには誰もいないかのように、避けることもなくすり抜けていく。
(……実体がない?)
いや、違う。
認識阻害だ。
あまりにも存在が「負」に傾きすぎているため、通常の人間には視界に入らないのだ。
老人はニタニタと笑いながら、一直線にセキュリティゲートへ向かうことなく、受付カウンターへと足を向けた。
その足跡には、黒いシミのような穢れがポツポツと残っていく。
――『貧乏神』だ。
それも、ただの貧乏神ではない。
企業の業績を悪化させ、株価を暴落させ、最終的には倒産へと追い込む、特級の厄災神。
なんでこんな朝の忙しい時間に、よりによってウチの会社に来るんだ。
(……まずい。入られたら終わりだ)
貧乏神が一度でも社内に入り込み、社長の椅子に座り込んだら、その会社は終わる。
ボーナスカット、リストラ、倒産。
俺の平穏な派遣ライフと、来月の家賃が危ない。
俺は慌ててポケットから呪符を取り出そうとした。
だが、ここはエントランスのど真ん中だ。
衆人環視の中で派手なアクションは起こせない。
どうする。
どうやって止める――。
焦る俺の目の前で、事態は予想外の方向へと動いた。
「Stop!! そこのオジイサン! 止まるデース!!」
エントランスに、ソフィアの凛とした声が響き渡った。
彼女はカウンターから身を乗り出し、ビシッと老人を指差していた。
「……え?」
老人が、驚いたように顔を上げる。
「……わしが、見えるのか?」
「見えマスよ! 貴方、とっても汚いオーラが出てマス! 泥棒デスカ? それとも迷子デスカ?」
「な、無礼な! わしは客じゃ! 社長に会いに来たんじゃよ!」
老人が喚く。その声は、ガラスを爪で引っ掻いたような不快な音波となって広がる。
普通の人間なら、この声を聞いただけで頭痛や吐き気を催すレベルだ。
だが、ソフィアは眉一つ動かさない。
「アポはありマスカ?」
「アポなどいらん! わしが行けば、どんな会社も大歓迎……いや、大騒ぎじゃ!」
「No appointment, No entry. ルールは絶対デース」
ソフィアはにっこりと、しかし絶対零度の笑顔で言い放った。
そして、手元のタブレット端末を操作する。
「お名前は? 会社名は?」
「わしか? わしは……ええと、『福徳』商事の会長じゃよ。ほれ、福を届けに来たんじゃ」
老人がしわがれた声で嘘をつく。
その瞬間、ソフィアの青い瞳が、カッと鋭く光ったように見えた。
「――Liar(嘘つき)」
彼女が短く呟く。
それは単なる指摘ではない。
まるで、言葉の裏にある「嘘」を、物理的な汚れとして視認しているかのような反応だ。
彼女の勘の良さは知っていたが、今の確信に満ちた声は、単なる推測の域を超えているように見えた。
「貴方、嘘をついてマスネ。名前も、目的も、全部嘘デス」
「な、なんじゃと!?」
「それに貴方から、とっても嫌な匂いがしマス。カビと、埃と……あと、倒産の匂いデス!」
ソフィアがカウンターの下から取り出したのは、来客用の入館証……ではなく、除菌消臭スプレーだった。
「Shush!!(シュッ!)」
彼女は容赦なく、老人の顔面に向かってスプレーを噴射した。
「ぐわあああっ!?」
老人がのけぞる。
それはただの消臭剤だ。だが、ソフィアの「穢れを許さない潔癖な精神」が乗った霧は、貧乏神にとっては聖水以上の劇薬となる。
「貴様ぁ……! たかが受付風情が、神であるわしに何をする!」
老人が激昂し、その体が膨れ上がる。
背中の袋が脈打ち、中からどす黒い瘴気が溢れ出そうとした。
周囲の空気が重くなる。自動ドアがガタガタと震え、照明が点滅を始める。
このままでは、貧乏神が正体を現し、エントランスを破壊しかねない。
(……そこまでだ)
俺は覚悟を決めて、二人の間に入り込んだ。
「ソフィアさん、どうしました?」
「あ、Masterナカガワ! このオジイサン、とっても怪しいデス! 入館証の発行を拒否シマス!」
「……なるほど。確かに、アポなしでその態度は困りますね」
俺はソフィアを背に庇いつつ、老人――貧乏神と対峙した。
至近距離で見ると、その穢れの濃さに目眩がする。
「……おい、若造。どけ。わしを通せば、お前だけは見逃してやるぞ」
貧乏神が俺だけに聞こえる声で囁く。
甘い誘惑だ。だが、断る。
俺の会社が倒産したら、再就職活動が面倒くさい。
「お客様、申し訳ありませんが、当社の規定により入館はお断りしております」
「なんじゃと?」
「『清潔感のない方』『福を持たない神様』、そして『アポイントのない疫病神』の立ち入りは固く禁じられております」
俺は懐から、一枚の黄色いテープを取り出した。
工事現場や事件現場で使われる『立入禁止』と書かれた黄色と黒のテープだ。
備品管理課の在庫から拝借してきたものだが、これには俺があらかじめ『結界術・四方封じ』の術式を編み込んである。
「な、なんじゃそれは……!」
「総務部からの正式な通達です」
俺はテープの端をひらりと振った。
テープはまるで生き物のように伸び、貧乏神の足元を取り囲む円を描いた。
「結界展開。――退去勧告執行」
俺が指を鳴らす。
カッ!
床に描かれた黄色い円が光を放ち、見えない壁となって貧乏神を締め上げた。
「ぐ、ぐおおおおっ!? 体が……押し出されるぅぅぅ!?」
貧乏神は目に見えないプレッシャーに押され、ズルズルと後退し始めた。
ソフィアの「入館拒否」の言霊が、俺の術の基点となり、絶対的な拒絶の力を生み出しているのだ。
「ソフィアさん、今です。彼にお引き取り願いましょう」
「了解デース! ……Get out!!(出ていけ!)」
ソフィアがカウンターの花瓶から一輪の花を抜き取り、老人に向かって投げつけた。
花は矢のように飛び、貧乏神の鼻先に当たった。
その瞬間、強烈な清浄な風が巻き起こる。
「お、覚えておれぇぇぇぇ! この会社、末代まで呪ってやるぅぅぅ……!」
捨て台詞と共に、貧乏神は回転扉に吸い込まれ、弾き出されるように外へと吹っ飛んでいった。
ガラスの向こうで、老人が尻餅をつき、慌てて逃げ出していくのが見える。
後に残ったのは、少しばかり淀んだ空気と、消臭スプレーのミントの香りだけ。
「……ふぅ」
俺は額の汗を拭い、結界テープを素早く回収してポケットにねじ込んだ。
周囲の社員たちは、何が起きたのかわからず、ポカンとしている。
彼らには「変なホームレスが来て、受付嬢に追い返された」くらいにしか見えていないはずだ。
「Wow... Amazing!」
背後で感嘆の声が上がった。
振り返ると、ソフィアがキラキラした瞳で俺を見つめていた。
「Masterナカガワ! 今のテープ術、すごかったデス! まるでスパイダーマンみたいデシタ!」
「……ただの備品整理用のテープだよ。粘着力が強かっただけだ」
「No, No! 謙遜はNo goodデス。貴方はやっぱり、ただの派遣社員じゃないデスネ?」
ソフィアは身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
青い瞳に見透かされそうで、俺は思わず視線を逸らした。
「……貴方は、Ninja(忍者)デスカ?」
「は?」
「コッソリと悪を倒す、ジャパニーズ・ニンジャ! そうでしょ?」
彼女の中で、俺の評価が「サムライ」から「ニンジャ」へとジョブチェンジしたらしい。
まあ、陰陽師だとバレるよりはマシか。
「……ご想像にお任せします。それよりソフィアさん、今の件は内密に。騒ぎになると業務に支障が出ますから」
「Okay! 秘密を守るのも、エージェントの務めデスネ! 口にチャックしマス!」
ソフィアは唇の前で指を横に動かすジェスチャーをした。
そして、イタズラっぽくウィンクする。
「その代わり、今度ランチおごってくださいネ。美味しいスシ屋、知ってマスから」
「……時給1200円の身にはきついけど、まあ、日本の平和を守った報酬だと思えば安いか」
俺は苦笑し、時計を見た。
8時55分。
始業5分前。
「では、業務に戻ります。……あ、その花、もう少し水を変えたほうがいいですよ。少し邪気を吸っちゃったみたいだから」
「了解デース! Masterも、Have a nice day!」
ソフィアの明るい声に見送られ、俺はエレベーターホールへと向かった。
背中の重みは少しだけマシになった気がする。
どうやら、あの受付嬢の笑顔には、最高級の栄養ドリンク以上の滋養強壮効果があるようだ。
エレベーターの中で、俺は小さくガッツポーズをした。
貧乏神を撃退したことで、とりあえず今期のボーナスカットと倒産のリスクは回避された。
つまり、俺の平穏な派遣ライフは守られたのだ。
だが、俺は知らなかった。
この「エントランス騒動」を、広報部のあの女が、じっと監視カメラ越しに見ていたことを。
3階の広報部フロアで、小野みゆきが妖艶な笑みを浮かべていることになど気づかず、俺は定時退社に向けて今日のタスクを脳内で組み立て始めていた。




