第2話 総務部・竹内塔子の受難
翌日。
丸の内商事の朝は、澱んだ空気と共に始まった。
午前9時。始業のチャイムが鳴ると同時に、オフィスにはキーボードを叩く音と、電話の呼び出し音が多重奏のように響き渡る。
俺は、総務部備品管理課の自席で、ボールペンの在庫リストと睨めっこをしていた。
「……赤ボールペンの減りが早い」
俺は眉をひそめた。
先週補充したばかりの赤ペンが、営業部だけで3箱も消費されている。
これは単なる業務上の消耗ではない。
赤ペンは「修正」「却下」「やり直し」の象徴だ。つまり、それだけ書類の不備や突き返しが発生しているということ。
職場のストレス値が上昇している証拠だ。
(……やれやれ。今日も定時で帰れる確率は50%といったところか)
俺は小さく息を吐き、リストを閉じた。
昨日の今日だ。営業部の権藤課長に取り憑いていた『マウント小僧』を祓ったことで、多少は空気が良くなっているかと思ったが、この会社にはまだまだ「膿」が溜まっているらしい。
「あ、あの……中川さん。少しいいですか?」
頭上から、遠慮がちな声が降ってきた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、この世の不幸をすべて背負い込んだような顔をした美女だった。
竹内塔子。24歳。
総務部の正社員であり、俺の直属の上司にあたる女性だ。
本来ならば、彼女は輝くような美女だ。
とろりとした蜂蜜色のミディアムヘアに、小動物を思わせる大きな瞳。
オフィスカジュアルのお手本のような、淡いブルーのブラウスとタイトスカートを着こなし、社内では「総務の白百合」なんて呼ばれているらしい。
だが、今の彼女は「白百合」というより「枯れた雑草」だった。
目の下にはコンシーラーでも隠しきれないクマがあり、整った髪も心なしかパサついている。何より、その姿勢が悪い。見えない重りを背負わされているかのように、左肩がぐらりと下がっているのだ。
「おはようございます、竹内さん。……顔色が優れませんね」
「うう、わかりますか? 実は昨日から、どうしても肩が上がらなくて……それに、耳鳴りもひどくて」
塔子は泣きそうな顔で左肩をさする。
俺は視線を、彼女の左肩から背中へとスライドさせた。
――いる。
彼女の華奢な背中に、どす黒い紫色の着物を着た、老婆の霊がへばりついていた。
老婆は白髪を振り乱し、塔子の首に枯れ木のような腕を回して、耳元で絶え間なく何かを囁いている。
『生意気よ……』
『私の席だったのに……』
『若いからって……いい気にならないで……』
――『お局様の生霊』だ。
オフィス妖怪図鑑、カテゴリーB。
これは死者の霊ではない。生きている人間の、強烈な嫉妬や執着が具現化したものだ。
この老婆の顔には見覚えがある。先月、定年退職した経理部の古株、御子柴さんだ。
彼女は再雇用を希望していたが、会社側にあっさり断られた。その際、彼女が座っていた特等席を引き継いだのが、この竹内塔子だった。
(……逆恨みもいいところだな)
生霊というのは厄介だ。
本体が生きているため、一度祓っても、本人の執着が消えない限り何度でも飛んでくる。
しかも、塔子のような「真面目で、優しくて、反撃してこない」タイプは、格好のターゲットになりやすい。
「……中川さん? あの、聞いてます?」
「はい。肩こりと耳鳴りですね。整形外科か耳鼻科をお勧めします」
「もー! そういうことじゃなくて! 業務の相談です!」
塔子は涙目でデスクに身を乗り出した。
その拍子に、彼女が抱えていたクリアファイルから、書類がバラバラと床に散らばる。
「ああっ! ご、ごめんなさい!」
塔子が慌ててしゃがみ込む。
その背中で、老婆の霊が『ケケケ……ざまあみろ』と笑い、彼女の足を引っ掛けようと手を伸ばした。
俺は無言で立ち上がり、塔子の腕を掴んで支えた。
間一髪、彼女は転倒を免れる。
「あ、ありがとうございます……」
「気をつけてください。……それで、相談というのは?」
「は、はい。実は、今日の午後までに提出しなきゃいけない『備品購入稟議書』が見当たらないんです。昨日、確かにデスクの上に置いたはずなのに……」
塔子は青ざめた顔で訴える。
「もし見つからなかったら、部長に殺されます……! 中川さん、昨日の帰りに私のデスク周り、掃除してくれましたよね? その時に見かけませんでしたか?」
俺は記憶を辿る。
昨日の定時後、俺は確かに総務フロアのゴミ回収を行った。
だが、稟議書のような重要書類を勝手に触ることはない。
俺は再び、塔子の背中の老婆を見た。
老婆は右手に、くしゃくしゃに丸められた紙のようなものを持っている。
霊的な干渉によって物質化した「隠蔽工作」だ。
あのお局霊が、塔子を困らせるために書類を隠したのだろう。
「……見ていませんね」
「そんなぁ……どうしよう、どうしよう……」
塔子が頭を抱える。そのストレスを餌にして、老婆の霊がさらに巨大化していくのが見えた。紫色の着物が膨れ上がり、オフィスの空調を遮るほどの瘴気を放ち始めている。
(……このままだと、まずいな)
俺は腕時計を見た。
9時15分。
塔子が稟議書を再作成するにしても、承認印をもらう時間を考えればギリギリだ。
もし彼女が仕事でミスをすれば、そのとばっちは部下である俺に来る。
「書類管理はどうなってるんだ」と部長に怒鳴られ、連帯責任で残業コース。
それだけは絶対に回避しなければならない。
今日は火曜日。
近所のドラッグストアで、ポイント5倍デーなのだ。洗剤とシャンプーを買いだめしなければならない。
「竹内さん」
「はい……?」
「一緒に探しましょう。デスク周りを重点的に」
「えっ、でも中川さん、自分の仕事が……」
「備品管理も私の仕事ですが、上司の業務環境を整えるのも派遣の務めですから」
俺はもっともらしい嘘をつき、塔子を彼女のデスクへと誘導した。
塔子のデスクは、総務部の一角にあった。
本来なら綺麗に整頓されているはずの机上は、書類の山と飲みかけのペットボトル、そして気休めの栄養ドリンクの空き瓶でカオスな状態になっていた。
典型的な「余裕のない社員」のデスクだ。
そして、そのデスク全体を覆うように、紫色の瘴気が漂っている。
お局霊は塔子の椅子の背もたれに腰掛け、まるで自分の城であるかのように居座っていた。
「ここにはないんです……引き出しも全部見たし、キャビネットも探したし……」
塔子が半泣きで書類の山をひっくり返す。
探せば探すほど、状況は悪化する。霊障によるポルターガイスト現象で、あるはずのペンが消えたり、PCの画面が勝手に暗転したりしているからだ。
「竹内さん、少し席を外してもらえますか? 給湯室で冷たい水でも飲んで落ち着いてきてください」
「えっ、でも……」
「私が探します。第三者の視点が入った方が見つかることもあります」
「……うう、すみません。お願いします、中川さん……」
塔子はふらつく足取りで給湯室へと向かった。
彼女が視界から消えたのを確認し、俺は「ふぅ」と息を吐く。
さて、業務開始だ。
俺はポケットから、愛用の付箋ブロックを取り出した。
今回は4色使う。
赤、青、黄、緑。
俺はボールペンを取り出し、それぞれの付箋にサラサラと文字を書き込んだ。
呪文ではない。
表向きは「重要」「未決」「確認中」「保管」という事務的なメモだ。
だが、その筆跡には、微弱だが鋭い霊力を込めている。
「……そこをどいてくれませんかね、先輩」
俺は椅子の背もたれにふんぞり返る老婆に向かって、低く声をかけた。
老婆がギロリと俺を睨む。
『ああん? 何だい、アンタ。ただの派遣風情が……』
「派遣ですが、この席の管理を任されています。部外者の立ち入りは困るんですよ」
俺は赤い付箋を、デスクの北東、鬼門の方角に貼り付けた。
続けて、青い付箋を南西に。
黄色を中央に。
緑を東に。
四枚の付箋が配置された瞬間、デスクの上に目に見えないラインが走り、四角い結界が形成された。
『なっ……!? 何だこれは! 体が……動かない!?』
お局霊が悲鳴を上げる。
俺が張ったのは『四方封殺・整理整頓の陣』。
本来は凶悪な悪霊を封じるための高等結界だが、今回はオフィス仕様にアレンジしてある。
その効果は「不要なものを排除し、あるべきものをあるべき場所へ戻す」。
「あなたはもう、この会社の社員じゃありません。退職金も満額受け取ったはずです」
『嫌だ! 私はまだ働ける! この席は私のものだ! あの小娘に務まるはずがない!』
「竹内さんは優秀ですよ。少なくとも、生霊になって後輩の足を引っ張るような真似はしません」
俺は胸ポケットから、一枚の領収書を取り出した。
昨日の夜、スーパーで買った豚バラ肉のレシートだ。
俺はそれを指で弾き、老婆の眉間に向かって飛ばした。
紙切れは矢のような速度で飛び、老婆の額に「ペタリ」と張り付く。
「『未練』、精算済みです」
俺が指を鳴らすと、レシートがカッと発光した。
『ギャアアアアアアア!! 私の……私の居場所がぁぁぁ!!』
老婆の霊体が、掃除機に吸われる埃のように渦を巻き、レシートの中に吸い込まれていく。
デスクを覆っていた紫色の瘴気が晴れ、淀んだ空気が一気に清浄化された。
最後に残ったのは、床に落ちたレシート一枚だけ。
俺はそれを拾い上げ、丁寧に四つ折りにした。後で塩を振って燃やせば、完全に成仏するだろう。
「……さて」
霊が消えたことで、隠蔽工作も解除された。
俺はデスクの一番下の引き出しを開けた。
そこには、クリアファイルに挟まれた『備品購入稟議書』が、何食わぬ顔で鎮座していた。
「……ありましたよ、竹内さん」
給湯室から戻ってきた塔子に、俺は稟議書を差し出した。
塔子の顔が、パァッと輝く。
「ええっ!? うそ、どこに!?」
「一番下の引き出しの奥に挟まっていました。おそらく、書類の雪崩が起きた時に滑り込んだんでしょう」
「よかったぁ……! 本当によかった……!!」
塔子はその場にへたり込みそうになるほど安堵していた。
そして、驚いたように自分の肩を触る。
「あれ? ……肩が、軽い?」
「見つかって安心したからでしょう」
「耳鳴りも消えてる……。え、すごい。中川さん、魔法使いですか?」
「ただの派遣社員です。整理整頓が得意なだけの」
俺は淡々と答え、自分の席に戻ろうとした。
定時まで、あと8時間。
長い一日はまだ始まったばかりだ。
「あ、あの! 中川さん!」
塔子が呼び止める。
振り返ると、彼女はデスクの中から何かを取り出し、駆け寄ってきた。
「これ、よかったら食べてください! お礼です!」
差し出されたのは、手作りらしい小さなおにぎりだった。ラップに包まれ、可愛らしいマスキングテープで止められている。
具は梅干しだろうか。
「……お気遣いなく。業務の一環ですので」
「受け取ってください! 私、中川さんがいなかったら今日どうなってたか……。本当に、ありがとうございます!」
塔子の瞳は潤んでおり、その笑顔はさきほどの「枯れた雑草」とは別人のように輝いていた。
これが本来の「総務の白百合」の破壊力か。
俺は少し迷ってから、おにぎりを受け取った。
ほんのりと温かい。
「……では、いただきます。これに懲りたら、デスクの整理はこまめにお願いしますよ」
「はいっ! 肝に銘じます!」
塔子は敬礼のようなポーズをとって、元気に自分のデスクへ戻っていった。
その背中にはもう、老婆の霊も、紫色の瘴気もない。
あるのは、若手社員らしい健全なオーラだけだ。
俺は自席に戻り、こっそりとおにぎりのラップを開いた。
一口かじる。
塩加減が絶妙だ。米の炊き方も悪くない。
(……意外と家庭的だな)
俺は心の中で評価を「Cプラス」から「Bマイナス」くらいに修正し、午後の業務に取り掛かった。
だが、この時の俺はまだ甘かった。
お局霊の嫉妬など、この丸の内商事に巣食う闇のほんの入り口に過ぎないことを。
そして、この「総務の白百合」が、実はとんでもない「トラブル磁石」であることを、俺は数日後に思い知ることになる。
とりあえず、今日のドラッグストアの特売には間に合いそうだ。
俺は赤ボールペンの在庫リストに「異常なし」と書き込み、小さくあくびを噛み殺した。




