第10話 決算期のデスマーチ(前編)
月曜日。午前6時30分。
目覚まし時計が鳴るより少し前、俺は胸の上の柔らかな重みと、等間隔に響く「ゴロゴロ……」という低いモーター音で目を覚ました。
薄目を開けて見下ろすと、パジャマの胸元で、黒猫のクロが丸くなっていた。
いや、丸くなっているのではない。
目をトロンと細め、耳を少し後ろに倒した状態で、小さな両前足を交互に動かし、俺の胸毛布を一生懸命に揉みしだいているのだ。
右、左、右、左。
一定のリズムで繰り返されるその動きは、いわゆる「ふみふみ」というやつだった。
子猫が母猫のおっぱいを飲む時の名残だという話は聞いたことがあるが、実際に目の前でやられると、その破壊力は想像以上だった。
「……おい、クロ。そこは俺の胃袋のあたりだ。あまり強く押すな」
『ミャン……』
俺が寝ぼけ声でたしなめると、クロは動きを止めずに、甘えるような細い声で鳴いた。
時折、小さな爪がチクッとパジャマを貫通して肌に当たるが、それすらも不快ではない。むしろ、柔らかな肉球の感触と、クロの体から伝わってくるじんわりとした温かさ、そして微かなミルクの匂いが、俺のささくれ立った精神を極上のエステのように癒やしていく。
先週の金曜日の夜、雨の路地裏で拾ってから数日。
最初は怯えて震えていた小さな毛玉は、すっかり俺に心を許し、今やこの1Kのアパートの立派な主として君臨していた。
このまま永遠に、この小さな家族の「ふみふみ」を享受し続けていたい。
しかし――無情にも、枕元のスマートフォンがけたたましいアラーム音を鳴らし、現実という名の冷水を俺の頭からぶっかけた。
「……時間か」
俺は名残惜しそうに鳴くクロをそっと抱き上げ、ベッドの横に下ろした。
今日からまた、戦場へ向かわなければならない。
それも、今週はただの戦場ではない。一年で最も過酷で、最も醜悪な人間の業が渦巻く期間だ。
「留守番、頼むぞ」
俺はクロの頭を撫でてキャットフードを皿に盛り、重い足取りでアパートを出た。
9月最終週。
それは、日本の多くの企業にとって「中間決算」という名のデスマーチが始まる時期を意味する。
丸の内商事も例外ではない。いや、古い体質が残るこの中堅商社においては、他社よりも遥かに悲惨な状況に陥っていた。
午前8時45分。本社ビルのエントランスを抜けた瞬間、俺は思わず顔をしかめた。
空気が、粘り気を帯びている。
霊力を目に集中させずともわかるほどの、圧倒的な「負のエネルギー」だ。
普段なら受付カウンターから「Ohayo-gozaimasu!」と陽気な声が飛んでくるはずだが、今日のソフィアは笑顔を作る余裕すら失っていた。
「ソフィアさん、大丈夫ですか」
「……Oh, Masterナカガワ。今日は最悪デス。空気がヘヴィすぎて、森の精霊が逃げ出しマシタ……」
ソフィアは疲労困憊といった様子で、次々と押し寄せる殺気立った来客や営業マンたちの対応に追われている。彼女の受付カウンターに飾られたラトビアの厄除けハーブは、どす黒く枯れ果てていた。
エントランスの浄化結界が、完全に突破されているのだ。
俺は嫌な予感を抱えたまま、エレベーターで8階の総務部へと向かった。
フロアに足を踏み入れると、そこはすでに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
「すいません! この経費精算、今日中に通してもらわないと困るんです!」
「だから、領収書の裏付けがないと処理できないって何度言ったらわかるんですか!」
「うるさい! こっちは徹夜明けなんだよ! 融通効かせろ!」
フロアのあちこちで、営業部と経理部、そして総務部の社員たちが怒鳴り合っている。
キーボードを叩く音は親の仇でも打つかのように乱暴で、電話の着信音は悲鳴のように鳴り響き続けている。
俺は自席に向かう途中、ふらふらと歩いてくる竹内塔子とすれ違った。
「竹内さん、おはようございます。……ひどい顔ですね」
「……中川さん。おはようございます。……ボールペン、また5箱消えました……コピー用紙も、もう在庫が……」
塔子の瞳から、完全にハイライトが消え失せていた。
いつもの「総務の白百合」の面影はない。髪は乱れ、目の下のクマは中山先生が即座にドクターストップをかけるレベルの黒さだ。
彼女の背中には、無数の「イライラ」や「焦燥感」が、小さな黒い虫の霊となってびっしりと群がっている。
「了解です。すぐに地下の備品庫から補充してきます。竹内さんは少し休んでください」
「休めませんよぉ……。決算の締め作業、まだ3割も終わってないんですから……」
塔子はうわ言のように呟きながら、書類の山に埋もれた自分のデスクへと戻っていった。
俺は大きなため息をついた。
特定の強力な怨霊がいるわけではない。
全社員が発する「終わらない」「帰りたい」「殺してやる」という極限のストレスが、オフィス空間に巨大な霊的磁場を形成し、無数の低級霊や貧乏神、疫病神を呼び寄せているのだ。
個別の除霊など追いつかない。結界を張ろうにも、これほどの質量を持った「群生する怨念」の前では、俺の付箋など数秒で焼き切られてしまうだろう。
「中川さぁぁぁん!!」
今度は、郵便室の方向から半泣きの松田透子が駆け寄ってきた。
彼女が動くたびに、背後に列をなした何十体もの浮遊霊がゾロゾロとついてくる。まるでハーメルンの笛吹き男状態だ。
「おい松田、これ以上俺に近づくな。霊圧が高すぎて頭痛がしてくる」
「ひどい! 助けてくださいよ! 今日、社内便の量が普段の3倍なんです! しかもみんなイライラしてて、私に八つ当たりしてくるし!」
「決算期だからな。請求書と納品書の嵐だ。諦めて配れ」
「冷血! 悪魔! 時給泥棒!」
透子は涙目で罵詈雑言を吐きながら、台車を押して去っていった。
彼女の霊媒体質が、このオフィスの淀んだ空気をさらに悪化させる触媒になっているのは間違いないが、今の彼女にそれを指摘してもパニックになるだけだ。
俺は自席につき、ひとまず自分の周囲だけでも浄化しようと、デスクの四隅に青い付箋をこっそり貼り付けた。
しかし――。
ジュッ、という微かな音と共に、青い付箋が端から茶色く変色し、瞬く間に灰となって崩れ落ちた。
「……マジか」
俺は舌打ちをした。
陰陽師としての俺の霊力をもってしても、空間の穢れに結界が耐えきれない。
まるで、巨大な毒の沼地に、スポイトで真水を一滴垂らすようなものだ。
午後3時。
状況は悪化の一途を辿っていた。
広報部のエース・小野みゆきが、社内報のゲラを持ってフロアに現れたが、彼女の最強の武器である「ポジティブ・オーラ」すら、この泥沼のような空間では威力が半減していた。
「ちょっと! なんでこんなに暗いのよこのフロア! どんよりしすぎ!」と彼女は叫んでいたが、その声もすぐに書類の山に吸い込まれて消えた。
地下のサーバー室からは、石田繭子からのSOSチャットが鳴り止まない。
『……トラフィック異常。社内ネットワークが怨念でパンク寸前。……私のジョセフィーヌが熱を出してる。物理的に冷やして。今すぐ』
俺は備品管理課の権限で業務用の巨大な扇風機と氷をサーバー室に運び込み、なんとかシステムのダウンを防いだが、これも一時しのぎに過ぎない。
そして、ついに「それ」は起こり始めた。
午後4時30分。
フロアの空気が、ふっと冷たくなった。
エアコンの設定温度が下がったわけではない。物理的な法則が、霊的な圧力によって捻じ曲げられ始めているのだ。
「……あれ?」
近くのデスクで、若手社員が声を上げた。
「俺のPCの時計、おかしいぞ……。さっき16時30分だったのに、16時15分に戻ってる……」
「お前のPCもか? うちの部署の壁掛け時計も、秒針が止まってるぞ」
俺は自分の腕時計を見た。
チク、タク、チク……。
秒針が、一秒進んで、二秒戻るという不気味な挙動を繰り返している。
(……『時間遅延』のポルターガイストか)
社員たちの「まだ終わらない」「時間が足りない」という強烈な未練と焦燥感が、空間そのものの時間を歪め始めているのだ。
このままでは、永遠に「定時」はやってこない。無限に続く残業地獄の完成だ。
バシンッ!!
突然、フロアの中央にある、先日の休日に和解したはずの最新型複合機が、悲鳴のようなエラー音を上げて停止した。
液晶パネルには、赤文字で『ERROR:限界デス。モウ働ケマセン』と表示されている。
付喪神となった機械ですら、この異常な労働環境に耐えきれず、自己防衛のためにシャットダウンしてしまったのだ。
「あああああっ! コピー機が止まったぁぁっ!!」
塔子が頭を抱え、絶叫する。
「誰か! 誰か直して! これ今日中に全部印刷して郵送しないと、取引先の支払いが遅れちゃうんですぅぅっ!!」
彼女は半狂乱になって複合機のパネルを叩き、泣き崩れた。
他の社員たちも、限界を超えたストレスで虚空を見つめたり、ブツブツと独り言を呟き始めたりしている。
完全に「崩壊」のサインだ。
俺は自席から立ち上がり、フロア全体を見渡した。
視界を埋め尽くすほどの黒い瘴気。
這い回る怨霊、飛び交う怒号、そして、泣きじゃくる塔子の姿。
俺の信条は、「時給1200円の範囲内でしか働かない」ことだ。
定時退社は絶対の権利であり、それ以上の無理をする義理はこの会社にはない。
たとえこのまま時間が歪み続けようと、17時30分になれば、無理矢理にでもタイムカードを切って帰るつもりだった。
家に帰れば、愛しのクロが俺を待っているのだから。
だが。
「……中川さん……」
足元から、弱々しい声が聞こえた。
這うようにして俺のデスクまでやってきた塔子が、俺のズボンの裾をぎゅっと掴んでいた。
その瞳は涙で濡れ、懇願するように俺を見上げている。
「ごめんなさい……私じゃ、もう、どうにもできなくて……。助けて、ください……」
俺は、塔子の手をそっと引き剥がした。
「……竹内さん」
「はい……」
「確認ですが、残業代は……ちゃんと出ますよね?」
「え……? あ、はい。決算期なので、総務部長の特別決裁で……事前申請なしでも、深夜割増まで確実に出るって……」
俺は目を閉じ、深く、長く、息を吐いた。
割に合わない。
こんな大規模な霊的災害を一人で収束させるなど、A級陰陽師の特命案件レベルだ。時給1200円の残業代で請け負う仕事ではない。
明日の朝には確実に熱を出して寝込むだろうし、クロの晩ご飯の時間が遅れてしまう。
だが――俺の目の前で、不器用に会社を良くしようと足掻き、そして限界を迎えて泣き崩れているこの「総務の白百合」を見捨てて帰れるほど、俺の血は冷たくなかった。
それに、このまま会社が倒産すれば、クロのキャットフード代を稼ぐ場所がなくなってしまう。
「……わかりました」
俺は目を開き、首元のネクタイに手をかけた。
緩く結んでいた結び目を、一気に引き下ろし、首から外す。
「竹内さん、フロアの皆さんに伝えてください。……これより、総務部の権限において、物理的および霊的な『強制シャットダウン』を実行します、と」
俺がネクタイを右手に巻き付けた瞬間。
気だるげだった俺の全身から、今までの小手先の術とは次元の違う、圧倒的な「清浄な霊力」が爆発的に噴き出した。
「な……中川、さん……?」
塔子が、呆然と俺を見上げる。
時計の針が、17時25分を指した。
定時まで、あと5分。
だが、俺は今日、初めて自らの意志で「定時退社」を諦めた。
「業務時間外だ。――ここからは、オプション料金をいただくぞ」
丸の内商事の百鬼夜行を終わらせるための、たった一人の反撃が始まろうとしていた。




