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第1話 その肩こり、霊障です

 東京、丸の内。

 午後5時のオフィス街は、まだ戦場だった。

 高層ビルの窓という窓から漏れる光は、この国を動かすエネルギーの輝きであると同時に、そこで働く社畜たちの魂が燃え尽きる残光でもある。


 そんなコンクリートジャングルの一角に建つ、創業50年の中堅商社「丸の内商事」。

 その総務部・備品管理課のデスクで、俺――中川武は、腕時計の秒針を見つめていた。


 17時10分。

 定時まで、あと20分。


「……長い」


 俺は小さく息を吐き、手元の伝票整理に戻るふりをした。

 30歳。独身。職業、派遣社員。

 時給は1200円。

 

 俺の業務は、ボールペンの補充からコピー用紙の発注、蛍光灯の交換まで、この会社の下支えをすることだ。

 誰にでもできる仕事、と言われればそれまでだが、俺はこの仕事が気に入っている。

 責任が重くない。

 人間関係が希薄。

 そして何より――定時で帰れる。


 はずだった。


「おーい、派遣さーん! ちょっといいかね?」


 フロアの空気を震わせるような大声が、俺の平穏を切り裂いた。

 PCモニターの陰から顔を上げると、営業二課の権藤課長が、脂ぎった赤ら顔で手招きしている。


 俺は表情筋を死滅させた「派遣スマイル」を貼り付け、席を立った。


「はい、何でしょうか権藤課長」

「悪いんだけどさあ、この資料、急ぎで20部コピー頼めるかな? さっき急に会議が決まってさあ」


 権藤課長が差し出してきたのは、クリップで留められた紙の束だ。

 ざっと見て15ページほど。

 これを20部。合計300枚。


 俺は瞬時に計算する。

 ここにある最新の複合機は、別の社員が大量印刷中で塞がっている。

 使えるのは、給湯室の隅に追いやられた旧式のサブ機だけだ。あの骨董品の印刷速度は、分速30枚程度。

 つまり、単純計算で10分かかる。

 紙詰まりが起きれば、その時点で定時退社は絶望的だ。


「……課長。現在は17時12分です。私の契約時間は17時30分までとなっておりますが」

「あー、ごめんごめん! ギリギリだよね? でもほら、君、手際いいし! ちゃちゃっと終わるでしょ?」


 権藤課長はニカっと笑い、俺の肩をバシバシと叩いた。

 その瞬間、俺の視界がぐらりと歪む。


 物理的な衝撃ではない。

 霊的な嘔吐感だ。


 俺は無言で、権藤課長の背後を見上げた。

 そこには――いた。


 課長の肩から首にかけて、赤黒い皮膚をした子供のような何かが、がっしりとしがみついている。

 大きさは3歳児ほどだが、顔は醜悪に歪んだ老人だ。

 そいつは俺と目が合うと、ニタリと笑い、課長の耳元で何やら囁き始めた。


『俺はすごい。俺は偉い。俺は寝てない。お前らは無能だ』


 ――『マウント小僧』だ。


 オフィス妖怪図鑑、カテゴリーC。

 承認欲求とストレスが肥大化したサラリーマンに取り憑く、極めて厄介な怨霊。

 宿主のプライドを異常に高め、「俺の若い頃は」という武勇伝や、「俺、昨日2時間しか寝てないわ~」という地獄のミサワ的マウント発言を誘発させる。

 さらに物理的な質量を持ち始めると、宿主に強烈な肩こりと頭痛を引き起こす。


「……いてて、なんか最近、肩が重くてなぁ。マッサージ行っても治らんのよ」


 権藤課長が首をコキコキと鳴らす。

 治るわけがない。3歳児サイズの怨念を背負って生活しているのだから。


「あー、やっぱり派遣さんじゃ無理かなぁ? 俺が若い頃はさぁ、このくらいの仕事、言われる前に終わらせてたんだけどなぁ。最近の人は権利ばっかり主張するっていうかさぁ」


 マウント小僧の囁きに同調するように、権藤課長の口から嫌味が漏れ出す。

 周囲の正社員たちが、気まずそうに目を逸らすのが見えた。


 俺は小さくため息をつく。

 放置すれば、こいつの承認欲求はさらに肥大化し、部下へのパワハラが悪化するだろう。

 そして何より、このままだと俺が残業させられる。


 それは困る。

 今日はスーパーで豚バラ肉が特売なのだ。家に帰って、スパイスから仕込んだ特製カレーを作らねばならない。


「……わかりました。コピー、とっておきます」

「おお! 助かるよ! やっぱり持つべきものは優秀な派遣さんだね!」

「ただし」


 俺は資料を受け取りながら、冷徹な声で付け加えた。


「メインの複合機が使用中ですので、給湯室にある旧式のサブ機を使います。少しお時間をいただけますか?」

「ん? ああ、綺麗に刷ってくれるならどこでもいいよ。頼んだね!」


 権藤課長は上機嫌で自席に戻っていった。背中のマウント小僧が、俺に向かって「べー」と舌を出している。


(……ナメやがって)


 俺は資料を手に、くるりと背を向けた。

 その時だ。


「ちわーっす。社内便でーす」


 入り口のドアが開き、元気のない声とともに、一人の少女が入ってきた。

 制服の上に作業用ジャンパーを羽織った、女子高生だ。

 長い黒髪を無造作に束ね、その大きな瞳には「帰りたい」という文字がありありと浮かんでいる。


 松田透子。17歳。

 夕方から郵便室でバイトをしている高校生だ。


 彼女がフロアに一歩足を踏み入れた瞬間、オフィスの空気がドロリと淀んだ。

 蛍光灯がチカチカと明滅し、どこからか「ヒヒヒ……」という笑い声が聞こえる。


 彼女の背後には、雑多な低級霊たちが5、6体、金魚のフンのように列をなしてついてきていた。


「……おい、松田」

「あ、中川さん。お疲れ様ですー。これ、総務宛の請求書」


 透子は悪びれる様子もなく、俺に封筒の束を押し付けてきた。


「お前、また拾ってきたな」

「へ? 何をです?」

「後ろだ、後ろ。……今日は一段と多いな。満員電車で痴漢の霊でも引き寄せたか?」

「はぁ? 何変なこと言ってるんですか。セクハラですよ」


 透子は心底嫌そうな顔をする。

 この少女、自分では気づいていないが、とんでもない「霊媒体質」の持ち主だ。

 霊感はゼロ。幽霊の姿は見えないし、声も聞こえない。

 だが、その身から溢れ出る霊的フェロモンとでも言うべきオーラが、浮遊霊たちを強烈に引き寄せてしまう。

 歩く霊寄せビーコン。それが松田透子だ。


「肩、重くないか?」

「あー、言われてみれば。なんか今日、体が鉛みたいに重いんですよね。成長痛かな」

「17歳で成長痛はないだろ。……ついてこい」

「え、どこへ? 私まだ配り終わってないんですけど」

「手伝ってやるから、こっちへ来い。ついでに『掃除』する」


 俺は透子の襟首を掴み、ずるずると給湯室へと引きずっていった。


 丸の内商事の給湯室は、フロアの隅にある4畳ほどのスペースだ。

 流し台と冷蔵庫、そして本来なら廃棄されるはずだった旧式のコピー機が、無理やり押し込まれている。

 湿気と熱気が籠もりやすく、精密機器を置く環境ではないが、総務の備品管理課としては「予備」としてここに置かざるを得なかったのだ。


 俺は透子を中に入れ、ドアを閉めた。

 狭い室内には、透子が連れてきた低級霊たちと、冷蔵庫のブーンという重低音が充満している。


 まずは仕事だ。

 俺は旧式コピー機のトレイに原稿をセットし、スタートボタンを押した。

 ウィーン、ガッ……ウィーン。

 苦しげな駆動音と共に、ゆっくりと紙が吐き出され始める。

 残り時間15分。300枚。ギリギリの戦いだ。


「で、何なんですか中川さん。私、時給発生してるんですけど」

「静かにしてろ。……あと、そこにある塩、取ってくれ」

「塩? ……はい」


 透子が棚から食卓塩の瓶を渡してくる。

 コピー機が唸りを上げて稼働している横で、俺はそれを左手に持ち、右手でポケットからあるものを取り出した。


 75mm×75mmの、蛍光イエローの付箋だ。

 どこにでもある事務用品。

 だが、その裏面には、俺が昼休みに極細ボールペンでびっしりと書き込んだ『退魔の呪文』が記されている。


「……え、何それ。中川さん、もしかして中二病?」

「黙って見てろ。バイト代以上に面白いものを見せてやる」


 俺は付箋を2本の指で挟み、呪文を詠唱した。

 声に出さず、唇だけを動かす。


(――オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン――)


 指先の付箋が、カッと熱を帯びる。

 俺は透子の背中――正確には、そこにへばりついていた『貧乏神のなりそこない』の額めがけて、付箋を叩きつけた。


「悪霊退散、定時退社!」


 パンッ!

 乾いた音が、狭い給湯室に響く。


『ギャアアアアアアア!!』


 透子には聞こえない断末魔と共に、彼女の背中から黒い霧が噴き出した。

 付箋がまばゆい光を放ち、霧を吸い込んでいく。

 蛍光イエローの紙片は一瞬で真っ黒に変色し、パラリと床に落ちた。


「……へ?」


 透子がキョトンとした顔で振り返る。


「あれ? なんか急に体が軽い……。え、何したんですか今?」

「静電気除去だ。冬場は多いからな」

「嘘だ絶対! ……あ、この黒い付箋、なんか焦げ臭い!」


 俺は黒くなった付箋を拾い上げ、燃えるゴミの箱に捨てた。

 これで透子の掃除は完了だ。

 コピー機の排紙トレイには、順調に資料が積み重なっている。あと半分といったところか。


「よし、次は権藤課長のアレをやるぞ」

「アレ?」

「お前、コーヒー淹れられるか?」

「インスタントでいいなら」

「それでいい。ただし、お湯を入れる前にこれを混ぜろ」


 俺は胸ポケットから、小さな小瓶を取り出した。

 中には透明な液体が入っている。

 これは俺が自宅で精製した『聖水』だ。


「……毒じゃないですよね?」

「ただのミネラルウォーターだ。さっさとやれ。コピーが終わるのと同時進行だ」

「へーい」


 透子が怪訝な顔でコーヒーを作り始める。

 ポットのお湯が注がれ、インスタントコーヒーの香ばしい匂いが漂う。

 それとほぼ同時に、コピー機が最後の1枚を吐き出し、ピーッと終了音を鳴らした。


 時刻は17時28分。

 完璧だ。


 俺はほかほかの資料を揃え、ホッチキスで素早く止めていく。

 そして、その一番上の紙に、新たな付箋を貼り付けた。

 今度はピンク色だ。

 書かれている呪文は『謙虚・反省・鎮静』。


「よし、行くぞ松田」

「え、私も?」

「お前が持っていけ。女子高生が淹れたコーヒーなら、あのオッサンも断らないだろ」


「権藤課長、コピー終わりました」


 俺たちは営業二課の島へ戻った。

 権藤課長は電話で誰かを怒鳴りつけている最中だった。背中のマウント小僧が、真っ赤になって膨れ上がっている。


「だから! 俺が言った通りにやればいいんだよ! お前らゆとりは……あ? なんだ?」


 課長が不機嫌そうに電話を切る。


「コピー、完了しました。あと、こちらは松田さんからの差し入れです」

「あ、ど、どうぞ……。コーヒーです」


 透子が引きつった笑顔でマグカップを差し出す。


「おう、気が利くねぇ! バイトちゃんもご苦労さん!」


 権藤課長は鼻の下を伸ばし、コーヒーを受け取った。

 そして、一口すする。


「ん……? なんかこれ、妙にスッキリした味が……」


 その瞬間だった。

 俺は資料の束を、課長のデスクに「ダンッ!」と強めに置いた。

 その衝撃で、資料に貼ったピンクの付箋から波動が広がる。


 体内に入った聖水と、外部からの呪符の波動。

 内と外からの同時攻撃だ。


『グギャアアアアア!!』


 課長の背中のマウント小僧が、悲鳴を上げて弾け飛んだ。

 その姿は霧散し、オフィスの換気扇へと吸い込まれていく。


「……あれ?」


 権藤課長が、ぽかんと口を開けた。

 憑き物が落ちたような顔、とはまさにこのことだ。

 血走っていた目が穏やかになり、赤黒かった顔色がみるみる健康的な肌色に戻っていく。


「……俺、なんで怒鳴ってたんだっけ?」


 課長は自分の手を見つめ、それから受話器を取った。


「あー、もしもし、さっきの件だけど……ごめん、俺の勘違いだったかもしれない。うん、君のやり方で進めてみてくれ。……ああ、悪かったな。よろしく頼むよ」


 周囲の社員たちが、「えっ?」という顔で顔を見合わせている。

 あの権藤課長が謝った? 天変地異か?


「すまんね、中川さん。急な仕事頼んじゃって。……あれ、もうこんな時間か」


 課長が壁の時計を見る。

 17時30分。

 定時のチャイムが、ピンポンパンポーンと鳴り響いた。


「定時ですね。お疲れ様でした」


 俺は流れるような動作でジャケットを羽織り、カバンを掴んだ。


「あ、ああ。お疲れ様。……あれ? 肩が軽い。すげえ軽いぞ!?」


 権藤課長が腕をぐるぐると回しているのを背中で聞きながら、俺は早足でエレベーターホールへと向かう。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ中川さん!」


 背後から、小走りで透子が追いかけてきた。


「何だ。残業代は出ないぞ」

「違いますよ! ……さっきの、何なんですか? 課長、別人みたいになってたし……私の肩も軽くなったし」

「プラシーボ効果だ」

「絶対違う! 中川さん、何者なんですか? ただの派遣じゃないですよね?」


 エレベーターが到着し、ドアが開く。

 俺は乗り込み、閉まるボタンを押しながら、透子に向かって人差し指を立てた。


「……時給1200円の派遣社員だ。それ以上のことは、業務規定に含まれていない」


 ドアが閉まる寸前、透子の呆気にとられた顔が見えた。

 俺は一つ息を吐き、ネクタイを少しだけ緩める。


 とりあえず、今日の業務は終了だ。

 スーパーの特売にはまだ間に合う。

 今夜は豚バラと夏野菜のカレーだ。隠し味に、少しだけクミンを効かせよう。


 俺の、平和で静かな夜が始まる――はずだった。

 この時の俺はまだ知らない。

 明日から、この「丸の内商事」が、百鬼夜行の魔都と化すことを。


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