7話 お風呂事変(後編)
お風呂では、女としての闘いの真っ最中、続きをご覧あれ、、、
「じゃ、髪流しちゃいましょ。座って」
クリップを取ると、湿気を帯びた髪がふわっと背中に落ちた。
「わ、わっ……冷た……!」
「我慢我慢。はい、前向いて〜」
シャワーが頭頂から少しずつ流れ落ち、
母の指が根元からそっと髪を持ち上げて、トリートメントのぬめりを逃がしていく。
「うん、いい感じ。ほら、手触り違うでしょ?」
「……うん……」
指が通るたびに髪が軽くなり、
なんだか自分がちゃんと“整えられていく”感覚がして、気持ちがいい。
「はい、タオル。頭下げて」
母がふわっとバスタオルを広げ、
私の髪全体を包むように吸い取っていく。
ぽんぽん、と優しく水気を押さえるたび、
その手つきが懐かしくて、心が不思議なくらい落ち着いていく。
「はい、じゃ次はアップね〜。髪濡れたままだと背中についちゃうから」
そのとき、私は手を前に出して母を制止した。
「ちょっと見てて」
前かがみになって髪を前に垂らし、タオルに収める。
タオルの中央をおでこの生え際に当てる。
頭全体を包んでそのまま後頭部へ送り、
左右の端を後頭部で交差させて、ねじりながら持ち上げる。
ねじり上げた先端を、おでこの上のタオルの隙間にしっかり押し込んで固定する。
テキパキと巻いて見せた。
「はい完成、ふふっ」
母は驚いていた。
「上手なものね」
「剣道の手拭い巻くやつの応用、閃いたの」
得意げな笑みで言う。
「なるほど剣道ねぇ……一生懸命やってたもんね」
(へー、あーちゃんも剣道やってたんだ……
って、やばっ‼︎ つい男だった時の記憶を口にしてしまった……今後、気をつけなければ……)
母はいつもの明るい笑顔で頷いていた。
(あーちゃんもやってたなら、まあおかしくは……ないよね?)
⸻
「次は洗顔ね。目に入るとしみるからねぇ」
「うん……お願い」
母は泡立てネットで細かく泡を作り、
その柔らかい山を指先で軽くすくった。
「はい、目をつむって」
母の指が、顔の上に“ぽん、ぽん”と泡を置いていく。
細かい泡が体温に溶けて、肌の上でふわっと広がる。
「病院は乾燥気味だったから、肌がカサついてるみたいね。
こすらず、泡でなでるように……」
指の腹が円を描くように頬から額へ。
力は入れない、ただ“触れているだけ”。
それなのに、じんわりほぐれていく。
「小鼻の横は……はい、このくらいで」
「うん…わかった……」
首筋のあたりも軽く撫でられ、呼吸が深くなる。
「じゃあ、流していくね。下向いて、目は閉じたまま」
ぬるま湯を手のひらで受けて、何度も優しくかけ流してくれる。
肌に残った泡がすっと落ちていくたび、
(ああ……心が洗われる)
「はい、きれいになった。タオルで押さえるだけよ、こすらない」
柔らかいタオルが頬に触れ、ぽん、ぽん、と吸い取るように水気を拭う。
⸻
さて、お風呂事変もいよいよ“千秋楽”だ。
二人の間に今までにない、張り詰めた空気が漂っている。
母は覚悟を決めたようで、静かに行動を開始した。
バスチェアに腰かけた母は、膝を軽く開いて……
そのとき、母の指先がほんの一瞬だけ止まった。
躊躇――というより、“娘に見せる覚悟”を確かめるような沈黙。
けれど次の瞬間には、そっと柔らかな動きで私に洗い方を見せた。
湯気の中で、柔らかな光が肌に反射して、どこか神聖な雰囲気さえある。
そのわずかな迷いが、逆に母の優しさとして胸に染みた。
母は問う、
「恥ずかしい?」
私は戸惑いながら答える、
「……ちょっと」
母は優しく語る、
「大丈夫よ。
一緒にやってみましょう……心配しないで……」
母はシャワーヘッドを手に取り、ぬるま湯を優しい水圧で流しながら説明した。
「まずはお湯だけで、外側を軽く流すの。
温度はぬるめね。
ここはデリケートだから、熱すぎるとダメなのよ」
次に、小さなボトルから石けんを取り、両手でふわっと泡立てる。
「石けんは直接つけないで、必ず泡にしてから。
ごしごしはダメ。
指の腹だけで、優しく“表面”を洗うの」
母は手元だけが見えるように、肌の上で円を描くように動かした。
私は恥ずかしさに頬を赤くしながらも、真剣にその動きを目で追う。
泡の柔らかい感触に、思わず小さく息を漏らした。
「くすぐったい……」
「それでいいの。くすぐったいくらいが、ちょうどいい力なのよ。
重なっている部分は汚れがたまりやすいから、でもね擦らないでね。
泡で汚れを浮かす感じ洗うのよ」
時間をかけて洗い終えると、母は弱いシャワーで泡の流し方を示し、
私が同じようにできるかをそっと横で見守った。
終わると、母は私の頭を撫で、柔らかく微笑んだ。
「うん、大丈夫。ちゃんとできてたわよ。
慣れないことばかりで戸惑うと思うけど……
ゆっくりでいいの。焦らなくていいわ」
少し間を置いて、母は声を落として続けた。
「それから……生理のときのケアも教えておくわね」
私は息を呑んだ。母は静かに説明を続ける。
「生理のときは、肌がいつもより敏感になってるの。
だから、泡は少なめで、普段よりも“表面だけ”軽く洗うだけで大丈夫」
母の声はとても穏やかだった。
「血の匂いが気になっても、強くこすったり洗いすぎたりしないでね。
外側を優しく流すだけで十分なの。
身体にはね、自分を守る常在菌がいて、自然に良い状態に保ってくれてるのよ」
私は真剣に頷いた。
「ナプキンが当たってたところは、肌がこすれやすいから、
ぬるま湯で軽く流すだけでいいの。
もし気になるときは、刺激の弱いウェットティッシュで“軽く”拭くくらいね。
香りつきのものは避けたほうがいいわ」
母は最後に、私の両肩をそっと握った。
「初めては不安だと思うけど、困ったらいつでも聞いてね」
湯気の中で、私はゆっくりとうなずいた。
母は、急に思い出したように小声でつぶやく。
「……生理だけは最優先で説明しないと血が……あれは準備が……
あっ、ナプ……いや、これは今じゃないわね……」
完全に独り言になっていき、湯気の中へ消えていく。
頬はまだ温かくて、恥ずかしさも残っている。
でも――それ以上に、母の行動が……恥ずかしいに決まってる。
母のくれた一言一言が心に染みていく。
⸻
戦いを終えた二人は、今は静かに湯船に浸かっている。
さっきまでのドタバタ劇が嘘のように、湯気の揺らぎと一緒に溶けていく。
母はふう、と小さく息をつきながら、肩までつかって目を細めた。
「お母さん、ありがとう……。お母さんがいたから……なんとかなった」
「ふふ。女の子のこういうの”は最初が肝心。
コツを掴めば何とかなるんだから。自信はついた?」
「うん」
温かいお湯が肌を包み込み、じんわりと緊張が抜けていく。
自然に肩を寄せ、母の肩に頭を預ける。
まるで“こうすればいい”と体が知っているみたいだった。
ぼんやりと浮かんでくる考えを追いかける。
(さっきまで不安ばっかりだったのに……不思議。
男だからとか女だからじゃない……誰だって初めてのことは不安なんだ。
できなくて当たり前で、失敗は経験で、わからなければ聞けばいい。
肩肘を張らないで気楽に行こう……そう思うとなんだか楽しくなってきた)
母がふとこちらを見て、いたずらっぽく微笑む。
「なんだか顔つきが変わったわね。
さっきまでより、少し“大人”になった感じ」
「そ、そんなの……元から大人だし……!」
「はいはい、そういうことにしておくわ」
からかい半分、あたたかさ半分の声。
その空気が心地よくて、私は小さく笑ってしまった。
「そろそろ上がりましょ。長く浸かるとのぼせちゃうからね」
湯船から立ち上がると、
さっきまでの“儀式の緊張”はすっかり跡形もなくなっていた。
その代わりに――
胸の奥に、静かで確かな安心感が灯っていた。
(私は一人じゃない。頼れる家族がいるんだから)
⸻
湯船から上がると、母はタオルをばさっと広げて待ち構えていた。
「はいは〜い、まずは水滴とスピード勝負よ。
お風呂上がりは“1分の戦い”なの。冷える前に拭く!」
「戦い……また?」
思わずため息が漏れる。
「もちろんよ。はい、腕出して。ゴシゴシは禁止。
“押しタオル”よ。押して・離す・押して・離す。
これはね、肌にダメージを与えないように優しくね」
「押しタオル……リズム体操みたい」
「そういうの得意でしょ? ほら次、続けて」
母のノリに勢いで引っぱられ、私は言われるままに体を動かす。
でも確かに、押していくと肌がひりつかなくて気持ちいい。
「次、背中。届かないでしょ? お母さんがやるわよ」
「ちょっ、……!」
「娘の背中は母の担当でしょ。はい、くるっと向いて」
くるっと、は完全にペット扱いだった。
「じゃ、次は髪。濡れたままは絶対ダメ。頭皮から乾かす!」
「え、毛先からじゃないの?」
「逆逆。毛先だけ先に乾かすと広がるのよ。
根元→中間→毛先、これが黄金ルート」
母はドライヤーを構え、プロの手つきでしゃべりながら、私の髪をかき分けていく。
「はい、根元狙って〜……そこで手ぐし入れて……そう、ふわっと持ち上げる!」
「実況つき!?」
「だって覚えやすいでしょ?
仕上げに冷風、はいスイッチ」
ひやりとした風が髪を落ち着かせた。
私は少しだけ前髪を触った。
「……ほんとにツヤっぽくなってる」
「母を信じなさい。二十年はこれでやってるんだから」
(自信満々……)
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「はい次、お顔。逃げないの」
「逃げてない!」
母は化粧水を手に取り、ぱん、と軽く両手を合わせる。
「化粧水は“こすっちゃダメ”。
塗るんじゃなくて――押す。
“浸透してくださ〜い”ってお願いするのよ」
「そんな気持ちの問題……?」
「気持ちも大事なの。
はい、頬、額、鼻まわりは軽め、口まわりは入れ込む!」
「実況と指示が多い!」
でも、母が手のひらで包むように押していくと、肌がしっとりしていくのがわかる。
「次、乳液。これは水分逃がさないためのフタみたいなものだから。
ここ、とくに乾くからね」
こめかみ、頬、あご。
母はリズムよく塗っていきながら、私の頬に乳液をちょん、と置きながら微笑む。
「まずね、頬の真ん中から始めるの。
ここが一番乾きやすいから、“ここを基点”にすると失敗しないのよ。」
指先でそっと円を描きながら、母は続けた。
「でね、ここから“円を大きくしていく”みたいに外へ広げていくの。
ぐいっとじゃなくて、ふわ〜っと。
水面に輪っかが広がるみたいに……そんな感じでね。」
「最初から鼻の横とかフェイスラインに置いちゃうと、皮脂が多かったり、汗がたまりやすかったり、こすれやすかったりする場所だから、そこだけベタついちゃって後でお化粧のムラにつながるの。」
母は最後の仕上げを見せてくれる。
「だから、“中心 → 外側”の順が基本なの。
それで、最後に残った乳液で鼻まわり。
フェイスラインはほんの少し触れるくらいでいいのよ。」
「ね? こうすると仕上がりが均一になって、テカテカも乾燥も出にくいの。」
「お化粧のことまで先読みしてるのかぁ〜大変だ」
「何呑気なこと言ってるの……今後は自分でやるのよ。娘に美しくいてほしいのは母の願いよ。
明日からお化粧を…一からね……ゴニョゴニョ」
母の独り言を横に、まだ覚えることがあるのかと逃げ腰になる。
「はい終わり! 今日は、よく頑張りました。
母的には94点!」
「なんで満点じゃないの⁉︎」
「途中で逃げ腰になったから。あと拭き方が部分的に雑」
「うっ……」
「女の子は反復してなんぼ。
一日にして成らずよ、日々精進‼︎」
にっこり笑った母の横顔は、カッコよく清々しかった。
「快気祝いの準備も終わってる頃ね。
皆んなを待たせると悪いから、行きましょう。
湯冷めしちゃうから、早く着替えなさい」
私は、そそくさと部屋着に着替えて、そっと扉を開けた。
廊下の先に光が漏れている部屋が見える……
胸の奥が締めつけられる。
――いよいよ、この家の人たちと会う。
一歩踏み出すたびに、心臓がひとつ跳ねる。
家族は、私のことを“記憶を失った娘”だと思っている。
でも、私にとっては……今日が初対面だ。
あーちゃんに家族の名前とかどんな人か教えてもらってるけど、緊張で頭が真っ白だ。
(ど…どどどど……どうしよう、、、)
その時、急に後ろから母に両肩を押された。
“きゃっ!”
思わず声が漏れてしまった。
母はキョトンとした表情で、
「そんなにビックリす?。
何何、緊張してるの、ふふ。
記憶がないんだもんね〜 緊張するか。
初対面みたいなもんだもんね〜
家族なんだから、大丈夫だから、気楽に行こうよね。」
(そんな言い方されたら……余計に涙が出そうになる)
「さぁ、早く早く、お母さんお腹すいちゃって倒れそう。
ほら、娘が無事に家に戻ってきたんだもん。早く一緒に食べたいのよ」
(見透かされているのか、呑気なのか……)
母は遠慮なしに両肩を押す。考えるまもなく目の前はリビングの扉だ。
扉の前で一度深呼吸をした。
声が震えないように、胸の奥でそっと整える。
扉を開けると、暖かな匂いと、人の気配が一気に押し寄せた。
ソファに座る家族の視線が、私に向く。
見覚えのあるような、でも知らない顔。
名前は…名前は…思い出せそうで、思い出せない。
その曖昧さが、余計に緊張を高めた。
「……あの」
言葉が喉で詰まる。
脳のどこかで“挨拶をしなきゃ”と急かされる。
そして――
緊張がピークを超えた瞬間、口が勝手に動いた。
「天嶺アマテルです、よろしくお願いしましゅっ……!」
(あっ!、かんじゃった…)
リビングが、静まり返った。
一瞬。
一秒か二秒ほどの、真空みたいな沈黙。
ぽかーんと固まる家族。
「あっ……やば」って私。
次の瞬間。
「ぷっ……」「あはははははっ!」
大爆笑が広がった。
ソファの向こうで肩を揺らしながら笑っている。
その中で、姉が笑いながら言った。
「自己紹介いらないわよ、アマテル。改めてよろしくね。
かんでるし…可愛いぃ」
私自身も、気が抜けて思わず苦笑いしてしまった。
――この家、きっと大丈夫だ。
緊張がゆっくりほどけて、胸がじんわり温かくなった。
⸻
(第8話 併行から融和、そして私 につづく)




