6話 お風呂事変(前編)
玄関を開けた瞬間、温かい家の匂いが胸に広がった。
「ただいま……」と声を出したけれど、まだこの家の“娘”としての自覚は追いつかない。
キッチンから弟の声が聞こえた。
「おかえり! あと少しでご飯できるよ」
その明るい声に胸の奥がじんわり温かくなる。
──そうか、今日の快気祝いは弟が作るんだった。
「あと、どれくらい?」
「30分くらいかな…」
「何か手伝う?」
「いいよ。運転で疲れてるでしょ、休んでて。イブ姉も手伝ってくれてるから…」
母と弟の会話がキッチンから聞こえてくる。
(そういえば、あーちゃんが言ってたな……
イブ姉は私と違って何でもできるって……
あーちゃんもだけど、私も料理は壊滅的……
出番なさそうだ……)
(ん?)
体がベタつくような……湿気……?
私は自然に襟元を引っ張り、頭をかしげる。
(……あれ? そういえば、まともにお風呂入ってないんだった‼︎)
自分の服の襟元をそっと嗅ぎ、顔が一瞬で赤くなる。
その仕草を、キッチンからちらりと顔を出した母が見ていた。
「……あっ」
母は一瞬で何かに気づいたような顔になった。
「じゃあ、お風呂入りましょう! 先にね!
退院したてなんだし、スッキリしましょ?」
……母、ナイス判断。
私は何も言えず、こくりと頷くしかなかった。
⸻
母に案内されるがままに脱衣所に入る。
「タオルとか着替え、取ってくるね」と言って行ってしまった。
「におい」というのは、気にし始めると周りが見えなくなる。
まして、ここ数日体を洗っていない。
「……う、臭ってるかな」
ため息をつきながら、私は服を脱ぎ始めた。
ワンピ、次にスポブラ……
女性の服だけど、簡単に脱ぐことができる。
スポブラが脱げる瞬間だった、
“ボロんっ、プルン…”
(えっ⁉︎)
不思議な開放感とともに目線に何かが映る……
自由になったあの象徴が……
臭いが気になり忘れていた……
私は女になっていることを……
顔を上げた瞬間、鏡の中の女性と目が合った。
(アマテル……変わらず可愛い❤️)
ただ違うのは、裸を見るのは初めてという点……
「ええェェェぇぇ……でかい‼︎」
自由を得た女性の象徴は、動くたびにプリンのようにプルンッと揺れる。
徐々に驚きが恥ずかしさに変わっていく。
顔がみるみる赤くなり、思わず腕で胸を隠してしまった。
それでも、目を逸らせない……
吸い寄せられるように鏡へ戻ってしまう。
肩は細く、胸元は柔らかい丸みを帯び、
腰のラインはなめらか、腕の細さも、
くびれの深さも、
息をのむほど整っていて“理想そのもの”。
「……綺麗だ…」
自然に言葉が漏れていた。
心が静かに満たされていくのを感じる。
恥ずかしくて、でもどこか誇らしいようで、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
(これが私の、私の身体……)
あらためて“自分なのだと実感”が芽生えた。
嬉しさが恥ずかしさを上回り、どうしようもなく体がうずうずし、自然と体が動き出す。
内側から湧き上がる衝動に突き動かされるように、そっと身をよじらせ、左右に軽くステップを踏んだり肩を揺らしてみたり。
顔には抑えきれない笑みが浮かんでいた。
その時、背後から気配が……
「あら、アマテルちゃん。ご機嫌ね」
母の声が、すぐ後ろから聞こえた。
「えっ…!?」
思わず固まる。
振り返ると、母が戸口に立っていた。
私の、鏡の前での謎のダンス(?)の一部始終を見られていたのだ。
顔が一気に熱くなる。恥ずかしい!
まさか、この姿を見られるなんて。
「ち、違うの! その、ちょっと…」
うまい言い訳が思いつかず、しどろもどろになる。
母は表情を緩め、「ふふっ」と小さく笑った。
「はい、着替えとタオル、後はお風呂セットね。
メイク落とすから、どいてくれる。」
そう言って、母は鼻歌を歌いながらメイクを落とし始めた。
私は、そそくさと残りの衣服を脱ぎ、逃げるように浴室に飛び込んだ。
⸻
(さてとっ、お風呂、お風呂♩)
私はお風呂が好きだ。
男だった世界でも、作業をして少しでも汗をかいたら、必ず一日に何度も入るほど、清潔第一‼︎
まずは掛け湯。
シャワーで足先から太もも、腕、胴体へと、心臓から遠い場所から順にぬるま湯をかけ、体を温度変化に慣らす。
次は髪。
ぬるま湯で最初によく頭皮と髪を1〜3分ほど掛けて洗う(予洗い)。
これで7〜8割の汚れは落ちると言われている。
なんで詳しいかって?
私は元は長く経験を積んだ男性だったので、育毛もしていたのだ。
ふふっ、「髪は長ーい友達」、髪の扱いのプロなのだ。
では、始めますか……しかし、髪……長いな……
いつも通り前屈みになって、長い髪を濡らした瞬間、その手応えは一気に崩れた。
(えっ……こんなに水吸うの?…重たい⁉︎)
手ぐしで整えようとするが、絡まって指が止まる。
一旦体制を直そうと上半身を起こすと、長い髪が顔や体にまとわりつく。
まとめようともがけばもがくほど、髪は散り散りにまとわりつき、状態は悪化する。
(指に髪が絡んで引っ張ると痛い、髪で溺れる……‼︎)
「んギャァァァッ、誰かぁぁ……!」
そのとき、ノックがトトン、と軽く鳴る。
「アマテルちゃーん、どうしたの?
入るわよ」
その声は、あまりにも穏やかで……
次に起きる“惨劇”を予測できなかった。
「ま、まま待って――」
ガラッ。
扉が開く。
そして――。
母が、普通に、何のためらいもなく、
スッポンポンで立っていた。
(えっ!!!?)
「あら〜、やっぱり困ってるじゃない。
お母さんの予想、ど・う・り、ふふっ」
「ま、まままお母さん!?!?!?」
声が裏返る。
ついでに心も裏返る。
(ちょっ……!!女になって、女なんだけど、“女性の裸”を見るのは!?
母でも……いや、母だからって……!!)
母はそんな私の動揺など、まったく気にしない。
むしろ、にっこり笑って言う。
「女同士なんだもの、平気でしょ〜?
小さい頃も一緒に入ったでしょ?」
(ちがうっ……!
記憶がないのっ……!
ていうか、私はつい最近まで男でしたぁぁぁ!!)
心の叫びを必死に飲み込む。
あーちゃんが言っていた、母は少し天然だと……
予想外の出来事に、ただ頭が真っ白になっていく。真っ白に……
⸻
母は「さてと」と言うと、私の髪をまとめ始めた。
「シャンプーが付いていないから予洗いをしていたのね。
でもね、ブラッシング(濡れ髪専用のブラシか幅広コーム)が大事なの。
毛先から絡まりを優しくほぐしながら髪全体をとかすのよ。
シャワーで洗い流しながらブラッシングすると、汚れやホコリが落ちて、頭皮の血行も良くなるの。
整髪料や汗のベタつきが酷いときは、指の腹でマッサージしながら直接洗ってね。
今回はお母さんの特別マッサージ付きよ。じゃあ、少し顎を上げて、髪は後ろに流す方がやりやすいわよ」
母の指とブラシで、絡まった髪を毛先からそっとほどいていく。
「ほら、痛くないでしょ?」
「あ、うん……」
本当に痛くない。
むしろ、指先が頭皮に触れるたび、体がふわっと緩む。
(……誰かにこんな風に髪を触られるなんて、いつぶりだろう)
母はふふっと微笑む。
「アマテルちゃんは、子どもの頃から髪がきれいだったけど、今も変わってないわね。
しっかりケアしてたのね」
「そ、そうかな……」
(いや、子どもの頃って言われても……私はこの身体になってまだ数日で……)
心の中で突っ込みつつも、母の丁寧な手つきに逆らう気にはなれない。
シャワーの音が心地よくて、湯気が柔らかい。
母が髪をすくたび、胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。
母がぽつりと呟く。
「……ほんとに、おかえり。戻ってきてくれて……」
「え……」
「玄関に入ってきた時の顔、ちょっと強がってたけど……
本当は少し心細かったでしょ?」
図星すぎて言葉が出ない。
(……見られてたんだ)
母は優しく続ける。
「記憶がないんだから、不安もあるし、迷いもあると思うけど。
“家に戻ってきた”ってだけで私は嬉しいの……
心配しないで。お母さんが、一から教えてあげるからね」
胸がぎゅっと熱くなる。
その言葉だけで心がほどけていく。
「……ありがとう、お母さん」
ぽつりと漏れた言葉に、母は笑顔で応えた。
「ふふっ。素直なの、可愛いわよ。
はい、じゃあシャンプーするから、少し上を向いて」
「う、うん……」
母は手のひらにシャンプーをぷちゅっと出し、ぬるま湯でくるくると泡立てる。
「原液をいきなり頭に付けちゃダメよ。
ちゃんと泡立てた方が頭皮の負担が減るの」
ふわっと白い泡が手のひらに広がる。
「はい、行くわよ〜」
泡が頭皮にふんわりとのせられ、くすぐったいような温かい感触。
母の指の腹が円を描くように動き、頭皮全体を丁寧に洗っていく。
「絶対に爪は使わないで。頭皮を動かすようにマッサージするの。
特に耳の後ろと襟足、生え際は汚れが残りやすいから……」
(気持ち……よすぎる……!)
声が漏れそうになるのを唇で堪える。
母は淡々と頭皮全体をまんべんなく洗い、シャンプーを流す。
「さ、流すわよ。残ると頭皮トラブルの原因になるから、“ぬめりが完全になくなるまで”が鉄則よ」
温かい水が髪を伝い、後頭部や生え際、耳の裏まで丁寧に洗い流される。
(なんか……すごい……)
すすぎ終わると、母はトリートメントを毛先から丁寧に馴染ませる。
「根元につけるとベタつくからダメよ〜。
中間から毛先に。はい、少し下向いて」
指が毛先をすべるたび、髪がふわっと柔らかくなる。
母は優しい声で言う。
「トリートメントを馴染ませている間に背中を洗っちゃいましょ」
「え……あ、いや……!」
にっこり笑う母。
「お母さんが全部やってあげる」
(ちょ……! やっぱり恥ずかしい……!)
⸻
母はトリートメントを馴染ませた私の髪をクリップで軽くまとめ、手をぱんぱんっと払った。
「じゃ、次は体ね。後ろ向いて」
「う、うん……」
湯気の中、いつもの朗らかな声だけが聞こえてくる。
「まずは背中から、はいっ」
母は柔らかい泡をたっぷり作り、手のひらで優しく背中を洗い始める。
泡が背中を撫でるたび、くすぐったさとくつろぎが同時に押し寄せる。
「張り、艶、問題なし。線が細くてうらやましいわ」
「そ、そんなじろじろ見ないで……」
(お母さんも細いじゃん、色香も混じって…)
「見てないわよ〜。触ってるのは健康チェック」
(もっと恥ずかしいんだけど……)
背中から腰へ泡が滑る感触に、私は首をすくめながら耐えるしかなかった。
「次は腕ね。はい、力抜いて」
母は私の腕をそっと持ち上げ、上腕、肘、前腕へと丁寧に洗っていく。
「お母さんね、赤ちゃんのあなたをいつもこうして洗ってきたのよ」
「そうだったんだ……」
「ふふっ。可愛かったのよ〜」
(あぁ〜…安らぐぅぅ)
泡が腕を伝い、手首まで流れる。
母はしずくを受け止めるように手のひらで包み込んで洗ってくれる。
「はい、指の間も忘れずに〜。自分でやると飛ばしがちなのよ」
「ん……ありがとう……」
なんだか恥ずかしいけど、“ちゃんと大事に扱われている”感覚が胸を満たしていく。
「じゃ、次は胸の下とお腹ね。前向いて」
「前……!?」
「大丈夫よ〜、見慣れてるから、ふふっ」
(それはそれで恥ずっ……!)
私はそろそろっと母の方に向き直った。
泡がお腹に触れた瞬間、思わず変な声が出てしまい、母はクスッと笑った。
「くすぐったがりねぇ。前もそうだった気がするわ」
「前って……子供の頃でしょ……!」
「そうねぇ〜。でも、お母さんの中では変わらないのよ」
母の手は優しく、くすぐったいのに、どこか安心する感触だった。
(なんだろ……この感じ……
母の優しさとは深い……でもこれは行き過ぎでは?)
不思議と胸が少し温かくなった。
「じゃ、腰回り流すわねー」
「は、はい……」
体を軽く回すと、泡が余さず滑り落ちる。
「はい、これで上半身は終わり。偉い偉い」
「べ、別に子どもじゃないし……」
手のひらで背中をそっと撫でられる感触は、妙に涙腺に響いた。
「じゃ、次は下半身ね。足元から……」
しゃがんだ母が、泡立てた手を私の足先にそっと当てる。
指の間をひとつずつ洗われると――
「ひゃ……ちょ、ちょっと、くすぐった……!」
「え? あら、ふふっ、軽くね、軽く」
言いながらも母の手は丁寧に、つま先から甲、かかとへゆっくり動く。
泡が触れるたび、足が勝手にピクッと跳ねてしまう。
次はふくらはぎ。
「ここね、むくみ残っているわね。ちょっと押すね…」
親指で下から上へ押し上げられる。
ぷに、と押され、戻る感触が……
(ああ、確かに……歩いてないしな)
「あら、まだ固いわね。湯船にゆっくり浸かれば流れると思うけど」
「うん……ちょっと気持ちいいかも」
「でしょ? ふくらはぎは第二の心臓だからねぇ」
母の楽しそうな様子を見て、緊張が少し和らぐ。
そして太もも。
内側に手が近づいた瞬間、私は息をのんだ。
「くすぐったい方、先にやるわね」
「えっ、まって、そこ……っひゃ……!」
手が軽く触れただけで、さっきの比じゃないくらい敏感に跳ねる。
母は苦笑しながら、なるべく外側から洗ってくれる。
「ほんとに弱いんだから。ほら、ここまでね」
「う、うん……」
そう言われて安心したのも束の間、手が太ももの付け根あたりを通った瞬間――
(……っ⁉︎ い、今の……ゾクッ……)
電気のような刺激が背筋を走る。
「どうしたの? 痛かった?」
「ち、違う……なんか、うんん、何でもない」
私は小さく息を整える。
⸻
(第7話 お風呂事変-後編 につづく)




