5話 新たな一歩
朝の光がカーテン越しに白く差し込んでいる。
キラキラ輝いている一方で、病室の空気はどこか冷たく、暗い感じがする。
ぼんやり眺めながら、あーちゃんの言葉を思い出す…。
(光と影……人を照らすことのできる人…)
人生経験が豊富でも、性別が変わるだけで何も太刀打ちできない。
女としては、生まれたての赤ん坊と変わらない。
自分のことすらままならない現状……。
あーちゃんの期待に応えられるのだろうか……。
物思いにふけっていると、急に声を掛けられた。
「天嶺さん、おはようございます」
急だったので、ビクッと肩が跳ねた。
「ごめんなさい……どこか調子が悪いのですか?」
私は首を横に振る。
「病室は、光と影がはっきり別れるんだなって……」
(私は何を言ってるんだろ……)
看護師がカートを押して笑顔で近づいてくる。
「体温と血圧を測りますね」
手際よく計測しながら、看護師はふと語り始めた。
「光を感じましたか、ふふっ。
病院は、どちらかと言うと“影”が多い場所です。皆さん、生に向かって頑張っていますから……
でも、どんなに頑張っても“死”は避けられない現実です。
死を身近に感じてしまうので、入院されている方は影に囚われがちなんだと思います。
隣を見れば光があるのに……でも辛いんだから、仕方ないことですよね。
だから、私たちは光の方へ向ける“導き手”なんです。
天嶺さんが光を感じたと言うなら、それは私たちにとって最高の喜びですよ」
微笑む看護師と、あーちゃんが重なって見えた。
「ありがとうございます。何か掴めた気がします」
腕に巻かれた腕帯の締め付けが、徐々に緩んでいく。
「それは何よりです。
熱もないし、血圧も安定していますね。
先生の回診が済んだら、退院の手続きになりますよ」
そう告げて看護師は一礼し、部屋を出ていった。
たった二泊三日だったけれど、ここにいた時間がずっと長く感じる。
白い天井を見上げながら、私はゆっくり息を吐いた。
(…終わったんだ……注射と点滴、やっぱ苦手だわ……)
今ならわかる。
あーちゃんが言っていた『慰撫』が。
相手だけでなく、自分を大切にすること。
まずは自分に光を。
そして寄り添う気持ちで道を示す。
それは慈悲であり、慈愛なのだと。
「……大丈夫。私は、私として生きていける」
声に出すと、喉がかすかに震えた。
けれど、その震えには迷いではなく力があった。
ナースステーションからの声と、カートの車輪の音が微かに響いてくる。
「朝食、ちゃんと食べてくださいね。今日の午前中、先生が来られますから」
朝ごはん
・トースト1枚(軽くバターまたはマーガリン)
・茹で卵またはスクランブルエッグ
・小鉢のサラダ(きゅうり・トマト・レタスなど軽め)
・スープ(コンソメや野菜スープ)
・牛乳
退院前で体調が万全でない人でも安心して食べられるようにとのことらしい。
ちょうどいい、軽い朝食だ。
(もう、ここで食べるのも最後か……)
午前九時すぎ、担当医の回診。
担当医がカルテを手に入ってくる。
「天嶺さん、お待たせしました。
身体の検査はすべて異常なしですので、今日で退院になります」
母が胸をなでおろす。
「本当に、よかった……」
医師は椅子に腰かけ、丁寧に話し始めた。
「ただ、記憶について少し整理しておきましょう。
今回のように過去の記憶がごっそり抜けることは、医学的にも珍しいものではありません。
強いストレスや恐怖が原因で、心が自分を守るために記憶を封鎖することがあります」
私の指がわずかに震える。
母が、不安を押し殺すように問いかけた。
「記憶を……自分で閉じてしまった、ということなんですか?」
「はい。専門的には“解離性の症状に近い状態”と思われます。
新しい人格が生まれたのは確かだと思います。
まったく別の人格になることが多いのですが、新しい人格の中に元の人格の一面が見られるので、現時点では断定できません。いずれにしても“防衛反応”ですね」
医師の口調は落ち着いているが、その内容は重かった。
「今の天嶺さんは、環境への適応力も高く、日常生活に支障はありません。
ここからが重要なのですが……ヒアリングや入院中の行動観察から、『女性として培った記憶』がないことがわかりました。
男女を意識し始める小学生くらいの知識でしょうか……。
女性としての何かが、今回の強いショックの要因であることが考えられます。生き方やコンプレックスなど単体要因、もしくは“女性”というキーワードと何か別の複合的要因の可能性もあります。
最後に、過去の記憶が“女性であったこと”から、その因果性が強く、思い出が失われたのだと思われます」
私は、自分の手を見つめ、小さく息を飲んだ。
母が慎重に尋ねる。
「記憶は……戻るのでしょうか……?」
医師は説明を続けた。
「あくまで推論ですが、記憶は“消えてはいない”ようです。
先に述べた通り、ところどころに女性としての一面が見られる場面がありますので、もしかしたら深いところで保たれているのかもしれません。
まるで元の人格が、新しい人格を少しずつサポートしているような感じですね。
時間をかければ戻る可能性もあると思います。ただ、それがいつ、どれほど戻るのかは予測できません」
母は頷き、そっと私の肩に手を置いた。
「何か、きっかけのようなものがあれば……?」
母の声は震えていた。
「強制せず、自然に。ご家族が無理なく支えてあげることが一番です。
学ぶことに障害があるわけではありませんので、経験が欠けている部分については周囲がゆっくり教えていけば問題ありません」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
医師は穏やかな声で続けた。
「天嶺さんは今、とても安定しています。
これからの生活で不安なことがあれば、遠慮せずにご相談ください。必要に応じて心理士や精神科とも連携します。焦らなくて大丈夫ですよ」
母は、私の手を包み込んだ。
私はかすかに微笑んだ。
(道が完全に閉ざされたわけではない。夢の中では、あーちゃんがサポートしてくれるはず……
確信はないけど……きっと……
まずは、女性としての経験を積まなければ)
「お母さん、私……女としては子どもに戻っちゃったみたい……」
母は優しい瞳で、静かに告げた。
「……一緒に、ゆっくりやっていこうね。アマテルちゃん」
“アマテルちゃん”という響きが懐かしさを運んだ。
(記憶はないが、体は覚えているのだろうか。
ならば、心と体がリンクするチャンスはある)
私は静かに頷いた。
(……医療とは驚くべきものだ。
たった数日で、私とあーちゃんの核心に迫る勢いだった……
これから女性として生きていくうえで、一番の不安は“経験”だった。
闇雲に人に聞くのは不自然。最悪の場合、精神的な問題と捉えられ、行動が制限される可能性もあった。
そうなってしまえば、あーちゃんとの約束を叶えるのが困難になる。
今回、医学的な見解をお母さんに伝えてくれたことは、本当にありがたい。
朝の看護師さん、目の前の医師さん、私はこの人生でも関わる人に恵まれている。
困って分岐に立つとき、必ずサポーターが現れる……
あーちゃん、お母さん……みんな神だ……)
安心と戸惑いが入り混じりながらも、確かに前へ進むための最初の一歩だった。
「念のため、外来で様子を見ましょう」
そう言ってカルテを閉じ、医師は次の患者のもとへ向かった。
(退院だぁ‼︎)
男だったころ、入院経験はなかった。
女になって初めての経験が入院とは……。
自然と拳を握り、「よしっ‼︎」とガッツポーズが出る。
それを見て、母が微笑みながら言う。
「家に帰りましょ」
――
母は荷物をまとめている。
私は病院着を脱ぎ、ワンピースにそっと袖を通す。
(ワンピなんて、初めて着る)
柔らかく薄い生地が肌に触れ、思わず息を呑んだ。
ゆったりと広がる裾が足に触れる。
男のころは固く、固定的な感触のものが多かった。これは全然違う。
(……こんなに柔らかくて、軽くて、ふわっと包まれるの……)
胸や腰回りに布が触れると、少し恥ずかしさがこみ上げる。
(下半身が心許ないけど……)
でもその一方で、自由に体を動かせる開放感が心地よく、背筋が自然に伸びた。
裾を軽くひらひらさせて歩くと、足に触れる布の感触がくすぐったくて、思わず小さく笑う。
初めてのワンピース――まだ戸惑うけれど、最高‼︎
憧れ続けた華やかな女性のファッション。いま、現実になった。
――
正午前、弟が差し入れを持って現れた。
「アマ姉が昨日リクエストしてたやつだよ」
紙袋を開けると、香ばしい手作りポテチだけ。
前日のシュークリームとプリンの差し入れのとき、
「次は塩っぱいの」と言ったことを覚えていたらしい。
「わぁ、ありがとう……!」
塩味がちょうどよく、カリッとした食感に自然と笑みがこぼれる。
売店の小さなおにぎりやサンドイッチと一緒に、軽い昼食のオトモとしてつまむ。
弟と母と、退院前の穏やかな団欒。
笑い声が休憩室に柔らかく広がる。
午後一、会計と退院手続き。
書類確認や外来予約、説明を受ける。
そして、出口へ歩き始める。
一歩……また一歩……自動ドアが近づいてくる。
ついに自動ドアの前まで来た。
あと一歩踏み出せば、自動ドアが開く……。
(ここを出たら、新しい人生が始まる……)
緊張で一歩が踏み出せずにいると――
“バンッ‼︎”
「⁉︎」
いきなり背中を叩かれた。
弟だった。
「アマ姉、何もたもたしてんだよ!家に帰ったら快気祝いやろうぜ。
俺、腕振るって料理するからさ。材料買いに行ってくるわ!」
そう言い残して、駆け去ってしまった。
母も――
「自動ドアの開け方も忘れちゃった? ふふ」
悪戯っぽい笑顔で問いかけてくる。
「もおっ」
頬を少し膨らませた瞬間、目が合い、二人同時に“ぷっ”と吹き出した。
母が背を押す。
自動ドアが開く。
外は快晴。
秋の青空が広がっていた。
新鮮な空気を目いっぱい吸い込み、私は母に向かって言う。
「お母さん、早くお家に帰ろ‼︎」
母はゆっくりと歩み出て、
「はいはい、車を回してくるから、そこのロータリーで待っててね」
そう言い残して車を取りに行った。
一人残された私は、空を見上げる。
そこには太陽が眩しく輝き、まるで夢の世界に入る時のように真っ白に――。
その時、一瞬。
「頑張って‼︎」
(ん⁉︎)
あーちゃんの声が聞こえた気がした。
さぁ、物語の始まりだ‼︎
――
14時、車で帰宅。
窓の外を流れる街並みに、私はひとつ深く息を吸い込む。
そしてゆっくり吐いた。
ここ数日を思い返す。
(……あーちゃんの言葉……“光と影の導き手”)
病室で看護師に言われた言葉と、
あーちゃんが語った“慰撫”の精神が胸の中で重なっていく。
男だった頃は、身体に力があり、多少のことは自分で解決できると思っていた。
でも今は違う。
筋力の差も、体感の鋭さも、感情の揺れも――
あの頃とは全く別物になってしまった。
(……生き方って、身体ひとつ違うだけで、こんなにも変わるんだ)
自然と胸の奥に“怖さ”が生まれた。
男だった頃には考えもしなかった種類の恐怖。
「力で太刀打ちできない」という現実からくる慎重さ。
“負けるかもしれない”という感覚が、世界の光の見え方まで変えてしまう。
(でも……これ、悪いことじゃないのかもしれない)
涙が出やすくて、感覚が細かくて、切り替えが早いと思われがちで――
でも揺れやすい。
女性に向けられる偏見めいた言葉の意味が、身体が変わったことでようやく理解できた。
あれは“弱さ”ではなく、世界を細かく感じ取る“構造そのもの”なのだ。
男が女を見るときの偏見も。
女が男を見るときの偏見も。
どちらも“優位性”からの評価であって、本当はそれぞれの抱える「影」には気づかない。
(違いをなくすことが平等じゃない……違いを理解することが平等なんだ)
あーちゃんの“光へ導く”という言葉が、今ははっきり理解できる。
誰かを光へ導くには、
まず相手の影を知って、
静かに耳を傾ける――その姿勢が必要なのだ。
私は、少しだけ笑った。
(……そっか。私はきっと、もう一度学びなおすんだ。
男としての経験も、女としての戸惑いも。
その全部を抱えた自分として……光へ向かう方法を)
シートに背を預けると、午後の光がそっと頬を照らした。
(今度こそ、人の光にも影にも、ちゃんと耳を傾けられるように)
優しく揺れる車の中で、私は静かに目を閉じた。
⸻
そのまま寝入ってしまったようだ。
母の声で目を覚ます。
「アマテルちゃん、家に着いたわよ。起きて」
んんっ……と欠伸をしながら伸びをする。
眠気まなこに映った家は日本家屋だった。
見た目でも、築年数の古さがわかる。
どことなく、男だった頃の家に似ている。
日本家屋はどこも似ていると言えばそれまでだけど……雰囲気がなんとなく。
周りが林で、緑の匂いがするのも親近感を増幅させる。
今まで色々あり、土地について気に留めなかったが――
(ここ、どこなんだろう? 日本ではあるようだけど……見たことあるような、ないような……)
物思いに耽っていると、母が声を掛けた。
「どうしたの? 忘れ物? それとも調子悪い?」
少し心配そうな表情だ。
「なんでもないよ。やっぱり家はいいなって思っただけ」
そう答えると、母の表情が明るくなった。
「家に入りましょ。みんなが待ってるから」
「うん」
二人笑顔で玄関に向かって歩き出す。
母が扉を開ける。
「ただいまー」
中から、みんなが
「おかえりー」
と返してくる。
何気ないやり取りだが“暖かい”。
大人になると当たり前になってしまう。
空気のように当たり前だけど、なくしてはならない大切なもの。
家の中からは、美味しい料理の準備の匂いが漂ってきた。
弟の差し入れのレベルの高さ……期待が膨らむ。
⸻
(第6話 お風呂事変(前編) につづく)




